2011年8月、2回目の一時帰宅で双葉町に入った大沼勇治さん。当時、看板はまだ撤去されていなかった=本人提供
〈原子力明るい未来のエネルギー〉。この標語が書かれた巨大な原子力広報看板は、事故前から双葉町の象徴的存在です。しかし、オープン当初の伝承館には、看板の写真の展示しかありませんでした。批判が集まり、今年3月に実物展示になりました。先頭に立って実物展示を呼びかけたのは、少年時代に標語を考案した大沼勇治さん(45)。事故で故郷を追われ、今は茨城県内で暮らしています。「標語を考えたことは、今となっては『恥ずかしい記憶』です。でも、あの標語を信じていた時代のことを伝えなければ、事故は『なかったこと』にされてしまう」。大沼さんに「伝承」への思いを聞きました。
看板の実物展示はなかなか叶わなかった
――標語はいつ考えたのですか。
――原子力広報看板は町のシンボルだったと思います。原発事故後、2015年の12月に撤去工事が始まりましたね。
その年の3月に撤去の話が出たとき、私は町に要望書を提出し、「現場で保存してほしい」と訴えました。署名活動には約7000人が協力してくれました。しかし、撤去は実施されてしまいました。看板は巨大です。高さが4.5メートルほどのところにあり、横幅は16メートルです。「支柱」と、14個の「文字板」、文字板を固定した「下地」の3つの部分にわかれています。工事のとき、町が下地の鉄板部分をガスバーナーで焼き切ろうとしたので、町長に抗議して、切断せずに保管してもらうことになりました。
――それから約3年後の'18年10月、福島県では伝承館の展示内容を決める「資料選定検討委員会」が始まりました。
――原子力広報看板の写真パネルについては、当初から「迫力に欠ける」などの批判が相次ぎ、その結果、今年3月に実物を展示する方針に切り替わりました。
――看板にこだわるのはなぜですか。
国道6号を走ると、双葉の町並みとともに〈明るい未来のエネルギー〉の看板が見えました。あの景観が、私の人生が入っている大切な一場面なんです。私の家族の歴史も、あの景観の中に詰まっています。会社員時代は毎日、看板の下を車でくぐって出勤していましたよ。看板のそばに私の一家代々の土地もありました。そこには主に東電社員用のオール電化アパートを建て、収入源にしていました。
「見えないものの怖さ」を伝えなければ
――思い出すのはつらくないですか。
――「当時に近い形での保存」にこだわるのはなぜですか。
ひとは朽ちていきます。諸行無常です。双葉町内はもともとあった建物の解体が進み、風景が一変してしまいました。だから、せめて看板くらいは当時に近い状態で残したいのです。看板という「もの」が、いつまでも語ってくれると思うのです。実は、町内にある私の家も、解体せず残すことにしました。解体しなければ、建物を維持するために茨城県内の自宅から双葉町に通い続ける必要があるでしょう。そうやって故郷とのつながりを残したいと思っています。
――昨年できた伝承館は、これからも改善が必要だと思います。大沼さんはどんな「伝承」が必要だと思いますか。
――大沼さんが言う「見えないものの怖さ」が伝わってくるような展示は、残念ながら伝承館の中にはないように思います。
(取材・文/牧内昇平)