秋川リサ 撮影/吉岡竜紀
「10代のころ、この年になるなんて想像しなかったわよ。でも、なってみたらどうってことないわね。というか人間としてもっと立派になると思っていたら全然ダメ(笑)」
昔と変わらぬ笑顔でこう語るのは秋川リサ(65)。1960年代後半から1970年代前半にかけて、帝人や資生堂の専属モデルとしてCMに登場し、当時はテレビで顔を見ない日はなかったほどだ。
そんな彼女の人生は昭和27年、東京・笹塚でスタートを切った。日本人の母とアメリカ人の父との間に生まれた、いわゆる“ハーフ”だったが、両親は正式に結婚していなかった。なぜかというと、父親は当時、日本に駐留していたアメリカ軍の技術者で、秋川が生まれる前に日本を去っていたから。生まれる前から波瀾万丈(はらんばんじょう)だったのだ。
「いじめは当たり前のようにありましたよ。まだ“ハーフ”なんて気のきいた言葉はなくて、“混血”と言われるのはまだいいほう。“合いの子”ですからね」
そんな状況の中で、くじけずにいられたのは祖母のおかげだった。
「祖母は私が小さいころから“日本人は単一民族だという誇りがあるから、血が混ざった子どもが生まれれば差別や区別されるのは当たり前。まして、親は正式に結婚してないのだから嫌われてもしかたないわね”と、いつも私に言い聞かせていました。だからそれに関しては、子どもながらに納得していたんです」
モデルという仕事にたどり着いたのも、祖母の助言があったからだという。
「“人と違う風貌を武器にして、人と違う個性を生かしなさい”“自立した女性になりなさい”と事あるごとに言われていました」
高校に入ったころのこと。水着の撮影で、1か月間、タヒチに行かなければならなくなった。
「アルバイトが禁止の学校だったので、内緒で仕事をしていたんです。さすがに、仕事のために1か月も休んだら“クビ”だろうなと思っていました……」
叱責(しっせき)と厳しい処分が下されると思っていた彼女に、帰国後、校長先生がかけた言葉は意外なものだった。
「開口一番“世界は広いでしょ。あなたは幼くして世界を見ることができて、本当に素晴らしい経験をしましたね”と言ってくれたんです」
なんと、特例で学校に残れるよう配慮をしてくれたのだ。しかし、すでに化粧品会社と繊維会社との専属契約をすませていた彼女は、アルバイトOKの高校に転入することに。
それでも、最後まで校長先生は秋川のことを気にかけてくれて、
「最終登校日に、わざわざ校門のところまで見送りに来てくれて、“誇りを持ってあなたを次の社会に旅立たせます”と言ってくれたんです。あの言葉がなければ、私はグレていたかもしれない。それまで、“なんで親のために働かなきゃいけないの?”とか、“学校なんて行かなくてもいい”なんて思っていましたから」
57歳のときに実母の介護生活がスタート
私生活では2度目の結婚で1男1女、2人の子どもに恵まれたが、57歳のときに実母が認知症を患い、介護の生活が始まることに。
「なんの根拠もないんですが、あんな好き勝手に生きてきた人が認知症なんかになるわけないと思っていたんですけどね。母の様子がちょっと変だなと思い始めたころはビーズ刺しゅうの教室を開いていて、生徒さんが辞めていく理由が“介護のため”というのが多かったんです。まだ現実を知らなかったから、ちょっとくらい習いにこれるんじゃない、くらいに軽く考えていましたが、生徒さんたちの話を聞いているうちに、ああそれだ、うちもついに認知症の一歩を踏み出したかと思いました」
2年間の在宅介護の後、養護施設で5年間、計7年に及ぶ介護に終止符が打たれたのは昨年6月のこと。だが、実母を旅立たせた彼女がひと休みすることはなかった。
「ひょっとしたら自分も認知症になるかもしれない。そのときに、どんな介護施設を選べばいいのか。介護者が本当に満足する介護とは何なのか? いろんな疑問が浮かんで、それなら実際に施設で働いてみるのがいいんじゃないかと思ったんです」
約1年半、介護施設で働き学ぶことも多かったというが、“人のために役立つ資格が取りたい”ということで、今年1月、介護の仕事を離れた。
「今は心理カウンセラー、シニアピアカウンセラー、終活ライフケアカウンセラーの資格を取りたいと思っているんです。あと日本語教師の資格。今年は、ジュエリーコーディネーターの資格も取りました。いずれ施設に入ってもお役に立てるようにね(笑)」
常に人生に貪欲(どんよく)だが、このほど上梓(じょうし)した『60歳。だからなんなの』(さくら舎)には60歳を越えた彼女の“バイタリティー”がぎっしりと詰まっている。
「いい年なんて言っていられないわよ。やりたいことがいっぱいあるんだから。資格も取りたいけど、家の断捨離もしなくちゃいけないし、愛犬のももを連れて船で世界1周もしたいし。でも、まだ暑いから腰が上がらないのよ(笑)」
自分の“生存確認”をしてもらおう
そんな秋川が、もう10年以上も続けている大切な行事が『ごはん会』だ。
「子どもと母がいなくなって、部屋が4つも空いちゃったのよ。うちは3階建てで私はずっと1階にいて、あるとき3階のリビングに行ってみたら、ゴキブリが餓死してたの。生命力のあるゴキブリが餓死する家なんてまずいでしょ。当時はバーやレストランに集まってワイワイガヤガヤやっていたんだけど、家をきれいに維持するためにも、ゴキブリが生きていけるようにするためにも(笑)人を呼んだほうがいいかなって。それに自分の“生存確認”をみんなにしてもらおうと思ったの。“みんな”というのは近所の人やバーで知り合った若者たち。異文化交流も兼ねて、月に数回は家に集まって食事会をしています」
最近は回数も集まる人数も増え、数年前のお正月には40人近くも集まったという。またそのつながりで現在、自宅には日本人の男子学生2人が下宿しているそうで、
「『ごはん会』に来る若者に“アメリカからやって来る交換留学生の子たちに部屋を貸してくれないか”と頼まれたことがきっかけです。当時はシェアハウスなんて言葉がまだなかったから、シェアハウスの先駆けね。
子どもたちは、“ママは他人と一緒に生活なんて絶対できない”って、大反対だったんだけど、外国人のほうが言葉が通じないぶんイライラしなくて楽でした。その後はその子の知り合い、またその知り合いというふうにつながっていって、うちから世界に巣立っていった子が何人かいます」
自宅が“シェアハウス”になっているというのもちょっと驚きだが、『ごはん会』にはこんな厳しいルールがある。
「何かにつけて若者に説教したがるジジ、ババは2度と呼ばない。マナーの悪い若者は2度と誘わない。老いも若きも、恋愛議論、政治議論、大いにけっこう。議論はしてもケンカはしない」
これだけ元気なら20年後、いや40年後にも「100歳。だからなんなの」と、笑いながら言っているかも!?