元プロテニスプレーヤー 杉山愛さん 撮影/渡邉智裕
春まだ浅き湘南・茅ヶ崎。
小高い丘を上り新緑に包まれた白い洋風のクラブハウスを抜けると、雲ひとつない真っ青な空の下から、弾むような子どもたちの声が聞こえてきた。
やわらかな日差しのこぼれるテニスコートで無心にボールを打ち返す子どもたち。
「足からいって、そうそう」
「上からボールを見ない、下から、下から」
「ナイスショット」
ここは、元プロテニスプレーヤーの杉山愛(43)が代表を務めるパーム・インターナショナル・スポーツ・クラブ。連日、30人のジュニアたちが大好きなテニスと向き合う。コートサイドでは、生徒の親も練習を熱心に見つめていた。
4歳でラケットを握った
「上下関係がなく、先輩も後輩も呼び捨て。部活っぽくなくて家族的な雰囲気が素敵なんです」
そう語るのは、小学3年生の娘を見守る母親。
高いレベルを目指してほかのクラブから息子を移籍させたという父親の姿もあった。
「愛さんが、ひとりひとりと直接ラリーをして、細かく指導してくれるから励みになります」
保護者とコーチが、一緒に子どもたちの成長を見守る。それが愛の流儀。全国レベルの子はまだ少ないが、嬉々として練習に取り組む姿から、どの子も原石の輝きを放つ。
「正しい動きを理解させ、意識させる。小手先でごまかしても、通用しない。どれだけ早い段階で基礎をマスターするか。それによって伸びるスピードが違うんです」
と、愛は言う。
自身は4歳でラケットを握り、15歳で日本人初の世界ジュニアランキング1位に輝いた。そして17歳でプロに転向、34歳まで17年間にわたり過酷なプロツアーを転戦してきた。
WTAツアー世界ランキングの最高はシングルス8位、ダブルス1位の記録を持つテニス界のレジェンドである。
だが、どんなアスリートにも、いつかは引退を決断するときが訪れる。愛にとっては、34歳がそのタイミングだった。
結婚、出産という女性としての「第二の人生」もあきらめず、新たなキャリアを見いだす─そのもがき苦しんだ時間のなかに、笑顔で生きるヒントがあった。
もう限界だった
日本を代表するテニスプレーヤーとして、2000年代に輝かしい成績を収めてきた杉山愛のラストマッチとなったのが、2009年9月、34歳のときに行われた『東レ・パンパシフィックオープン』。テニス愛好家で知られる皇后美智子さまが見守られる中、最後の試合に臨んだ。
大会に先立ち、世界トップ30の選手たちが顔をそろえ、引退セレモニーは盛大に行われた。
「テニスツアーは、1月のオーストラリアから11月の第1週まで世界各国で大会が行われるハードなスケジュール。その年の夏は納得のいくパフォーマンスをするため、ツアー中もかなりトレーニングで追い込みました。そのとき、これをさらにワンシーズン続ける自分の姿が、もうイメージできなくなっていました」
愛は28歳でピークを迎え、30歳を過ぎたころから肉体的にも回復が遅くなり、引退する年にはストレッチから呼吸法まで「33のルーティン」をこなしてから試合に臨むようになっていた。
「もう限界でした。それでも続けたのは、この道を選んだからにはやりきろうという思いがあったから。やりきれれば次の人生が見えてくる。そんな思いがあったからです」
長年コーチとしても杉山を間近で見てきた母・芙沙子さんも引退会見に同席。
「本当に頑張ってきたし、もう頑張らないでいいよと声をかけてあげたいです」
そう言われ涙する愛。
「今後はジュニアなど、後進の指導をしていけたらいいな」と将来の目標を口にした。しかし、引退後の愛を襲ったのは“燃えつき症候群”だった。
引退した当初、テレビのコメンテーターやラジオのゲスト出演、講演活動など仕事が仕事を呼び、多忙ながら新しい経験ができる日々に、喜びを感じていた。
ところが、3か月を過ぎたころ、身体に異変が起きる。
「現役のころは、決まったルーティンをこなして試合に臨む。規則正しく、すべての時間、自分と向き合えました。ところが引退後は不規則で神経も遣い、気づけばジッとしていても天井がぐるぐる回るような症状が現れました。充実感どころか、心も身体もバラバラでした」
選手として「世界ランクトップ10」入りを目指して、短期、中期、長期的なプランを立て、たゆまぬ努力を続けてきた愛は、引退後の生活で目標を失っていた。
「自分は一体どこに向かっているのだろう」
自問自答する日々が続く中、10年以上つけていた日記の中にヒントを見つける。
「現役のころは毎日、日記をつけ、その日あったことや、感じたことを書くことで自分の気持ちと向き合っていました。体調や気持ちの変化を知り、それが試合に向けて、とても役に立ちました。そこからヒントを得て、“一体、自分が何をしたいのか”心にポッカリと穴があいてしまった自分に問いかけるような気持ちで書き始めたのが『ウィッシュリスト100』なんです」
人生でやりたいことを片っ端から書き綴った「ウィッシュリスト」は、34歳にして始まった新しい自分探しの旅。
天使のようなオーラが出ていた
愛はその書き方について、こんな極意を語る。
「大切なことはワクワクする楽しいことをリストアップすること。最初は25個くらいしか書けませんでしたが、自分の今の生活を見直してだんだんハードルを下げ、ひとりの女性としての夢を細かいことまで書いていきました。いずれも現役時代には思い浮かばなかったことばかり(笑)」
結婚、出産から始まる愛の「ウィッシュリスト」は、「大学院に行く」「本を出版」「出版した本をもとに講演」「天職と思える仕事を45歳までに見つける」といった人生の目標から、「マラソン完走」「富士山に登る」といったチャレンジもの、「和食器を買う」「陶芸」「ゆずのライブに行く」といった趣味の世界に至るまで実にさまざま。興味をなくしたものは、リストから消去。そのつど新しいものを加え、愛の「ウィッシュリスト」は現在170個あまり。
「達成率は5割。『結婚10周年にみんなを集めてハワイでパーティーする』とか、今後の夢や老後のプランなどもありますから、かなりの達成率ではないでしょうか」
リストを書き始めた34歳当時、リストの1番目に書いたのが「結婚」だった。
その相手との出会いは、現役引退からわずか2週間後にやってきた。
「ゴルフのプロアマ大会でプロゴルファーの石川遼さんとコースを回らせていただく機会があり、ゴルフのスキルを上げるために紹介してもらったのが彼でした」
愛の夫となる6歳年下の杉山走さんは、ケニアのナイロビで生まれ育ち、アメリカの大学を卒業。
アメリカを拠点にプロゴルファーとして2年間ツアーを回り引退。その後プロゴルファーのマネージャーとして日本を訪れた際、愛のコーチを引き受けた。
ゴルフ練習場での初めての出会いを、走さんは今でもハッキリと覚えている。
「初めて会う愛は天使のようなオーラが出ていて、すごく綺麗な人、なんて素敵な人、なんて一緒にいて楽しい人。まさにひと目惚れでした……(笑)」
愛自身もレッスンは楽しく、優しそうな好青年の走さんに好印象を持った。ゴルフや食事を通して、お互いを知っていく中で「この人となら楽しいライフを過ごすことができそう」と、早い段階で感じていた。
そんな2人が入籍したのは2年後の2011年11月。
最後まで結婚に慎重だったのは愛の母・芙沙子さんである。愛は、走さんの人柄のよさを知ってもらうために、ファミリーゴルフ作戦を毎月決行。また走さん自身も結婚のハードルを越えるために積極的に芙沙子さんとのコミュニケーションを図った。
やがて芙沙子さんの心にも微妙な変化が訪れる。
「ご両親は愛情たっぷりに走君を育ててこられました。たくさん愛情を受けて育った人は、パートナーにも愛情をたっぷり注げるはず。そう思うようになりました」
《愛にはこの人しかいないんじゃないかしら》
そんなメールが母から届いたときは、うれしくて涙をこぼしたという。『ウィッシュリスト』の1番目に書いた“家族にも、友人にも祝福される結婚”が叶った瞬間だった。
幼いころから負けず嫌い
愛が「ウィッシュリスト」を叶えるために意識しているのは『5つの力』。アスリート時代から大切にしてきた“自分ルール”でもある。
「選手時代、“ひとりでは何もできない”ということを痛感しました。周りのサポートや応援を受けながら、自分の願いを周囲の幸せな笑顔とともに叶えていく。そういう意味で『コミュニケーションの力』。自分が求める状態を具体的に『イメージする力』も夢を叶えるには必要です。
それから、なりたい自分をイメージしながら行う呼吸法など『ルーティンの力』、興味を持ったらとにかくやってみる『行動力』、何事もワクワク取り組む『楽しむ力』も欠かせませんね」
身長161センチとテニス選手としては小柄ながら、グランドスラムのシングルス連続出場62回の世界記録を樹立し、“テニス界の鉄人”と呼ばれた愛。しかし、そのアスリート人生は決して順風満帆ではなく、栄光の陰にはすさまじい努力があった。
愛は、1975年7月5日に横浜市で誕生。5歳のとき、歯科医の父・忠正が開業するため家族で茅ヶ崎市へ引っ越す。
母・芙沙子さんは、幼いころから愛は“とても負けず嫌い”だったと話す。
「家族でトランプ遊びをしても、負けると“もう1回!”と言って勝つまでやめません。何度か負けが続くと身体中を震わせて悔しがる。本格的にテニスを始めてからも自分よりシードが上の選手に当たり、負けてしまうと悔し涙を流していました。でも“勝ちたい!”という強烈なモチベーションがなければ、あそこまで頑張ることはできなかったでしょうね」
小中学校を過ごした湘南白百合学園では、勉強でも負けず嫌いを発揮した。テニススクールを終えた母のお迎えの車の中で夕食をすませると、夜10時から勉強に精を出し、成績もトップクラスだったという。
しかし15歳5か月で世界ジュニアランキング1位になった愛は、より自由な環境を求めて湘南工科大学附属高等学校体育コースに進学。
同級生の時田貴子さんは、こう振り返る。
「入試の当日、ベージュのピーコートを着ている派手な子がいて“制服じゃないから絶対落ちる”と思っていたら、それが愛ちゃんでした(笑)。
遠征が多いからあまり学校に来られなかったけど、たまに来ると可愛いから男の子たちにいつも囲まれていました。練習のない日にケーキの食べ放題に2人で行ったのも懐かしい思い出ですね。夢中でショートケーキをペロリと10個平らげていましたよ。プライベートで遊ぶときはテニスの話は一切しませんでしたね」
やがて高校2年でプロに転向。当時、日本でプロのテニスプレーヤーになれるのは、毎年1人か2人という狭き門だった。
母に見せた初めての反抗
プロ入りを後押しした母・芙沙子さんが、愛の可能性を確信した、あるエピソードを明かしてくれた。
「プロ転向後も通信制高校で勉強を続けていましたが、提出したレポートが戻ってきたとき、講師のコメント欄に“このレポートはお前が書いたものじゃないだろう”という趣旨のことが書かれていました。本人に見せるかどうか悩みました。
ところがこれを見た愛は、“ママ、この先生、かわいそうだね。きっと何人もの人に裏切られてきたんだよね。まあいいじゃん”と。驚きました。これだけキチッと相手の立場に立ってコメントできること。大局的に問題ないことを無視できる判断力。このコメントを聞いて、この子はきっとプロでやっていける、魅力的な選手になれると感じました」
その言葉を裏づけるように、ATPランキング180位だった愛は、翌'93年には142位、'94年72位、'95年46位、'96年32位と着実にランクアップ。
'97年には20位に躍進。'98年18位、'99年15位とついに念願のトップ10入りまであとわずかに迫る。しかし、この年最後のグランドスラム全米オープンで足首を捻挫、あと一歩のところで24位まで後退してしまう。
迎えた2000年8月。全米オープン女子ダブルスで初めてメジャー大会を制覇したものの、ダブルスよりも重きを置いていたシングルスで結果が残せず、愛は少しずつ自分を追い詰めていった。
「ここからさらに上にいくためには、何か自分にも必要だと考え、2000年から新しいコーチをお願いしました。
これまで母がプロデューサー役として“チーム愛”のコーチやトレーナーを選んできましたが、私の心のどこかに“敷かれたレールの上を走っているみたい”という思いが芽生えていました」
新しいコーチは、人柄はよかったものの言葉数がとても多く、愛が彼の求めるテニスをしっかり理解できないうちに、言葉が洪水のように降ってくる。それに戸惑っていると、今度は母が自分の意見を突きつける。混乱した愛は、母にこんな言葉をぶつけてしまう。
「私にコーチは2人いらない。ママ、試合にはいつでも好きなときに来てくれていいけれど、母親の役割だけをしてね」
愛が母・芙沙子さんに見せた初めての反抗。母が愛のもとを去ると、その数か月後に「引退」の2文字が脳裏をかすめる人生最大のスランプに、直面する。
意欲を取り戻した母の言葉
「ママ、来てくれない!? すぐこっちに来て!」
愛が、ツアー先のアメリカから泣きながらSOSの電話をかけたのは、2000年7月のこと。当時つきっきりで見ていた女子選手のインターハイ優勝を見届けると、母・芙沙子さんは飛行機に飛び乗った。
「久しぶりに見る愛は、コートに立っていても涙を流し、何を練習していいかもわからなくなっていました。何より驚いたのは、あれほどテニスを好きだった愛が、テニスをまったく楽しめなくなっていたことです」
希望の光がまったく見えないまま試合に臨む愛。しかし、皮肉なことにシングルスのランキングが50位以下に沈む中、ダブルスでは全米オープンの後も優勝を重ね、この年のダブルス世界ランキングでは世界一に輝き、多くのメディアが彼女の快挙に喝采を送った。
後に愛とダブルスを組み活躍した元プロテニスプレーヤーの浅越しのぶさんは、「いつも楽しそうにツアーを回っている愛さんが笑顔もなく別人のようでした。大会中、試合に負けてもコートを予約して練習に明け暮れる。いたずらにハードな練習を繰り返す愛さんを見るのがつらかった」と当時を振り返る。
2000年10月、コーチとの契約を終了。自分のテニスを見失った愛は、この時点で引退を考えていた。
弱音を吐く愛に母は、
「あなた、やるべきことをやりきったの? ここでやめたら、ほかのことをやってもうまくいかないんじゃない?」
と諭したという。
─やりきれてない。
母の言葉で意欲を取り戻しコーチに就任した母・芙沙子さんと愛の復活を賭けた二人三脚が始まった。
「ピンチはチャンス。ここまで追い込まれなかったら、変化を恐れずリセットすることはできなかったし“トップ10”に入る夢を叶えることもできませんでした」
ボールの打ち方すらわからなくなっていた愛は、過去の栄光も忘れて1からボールに向かった。するとプロ入りするときに誓った「見てくれる人に勇気、感動、元気を与えるプレーがしたい」という思いが再び甦った。
「それと同時に、25歳の大人の女性として、自分の将来を見つめ、テニスというツールを使って自分探し、自分磨きをしようという思いも芽生えました。引退後に途方にくれたとき、第二の人生に向かってやりたいことをウィッシュリストに書くことで気持ちを切り替えられたのも、このスランプを乗り越えた経験があったからだと思います」
“スランプ脱出”に取り組み1年、復活の手応えをつかんだ愛は、2003年2月、アメリカ・スコッツデイルで行われた「ステート・ファーム・ウイメンズ・テニス・クラシック」でシングルス&ダブルスを制して完全復活。
ダブルスではこの年の全英オープン、全米オープンの2冠を達成。そして2004年にはシングルス8位となり、夢にまで見た「トップ10入り」を果たした。
妊活中の弱音
34歳で現役を引退。36歳で夫・走さんと結婚した愛は、すぐに子どもが欲しいと思い、身体のチェックをしてもらうために夫と2人で産婦人科の門を叩いた。
「2人とも身体には問題がなく、すぐに妊娠しましたが、妊娠5週間で心拍確認できる前に流産。ショックで1か月くらい落ち込みました」
医師のすすめもあり人工授精にステップアップ。4回トライしたにもかかわらず妊娠する兆候は見られなかった。
愛のそばで優しく寄り添っていた走さんは、
「生理がくるたびにシュンとする愛にかける言葉もありませんでした」
と話す。
愛の中にもこんな感情が芽生え始めていた。
「私は今まで努力してベストを尽くすことで自分の人生の糧になるようなご褒美をもらってきましたが、頑張ってもどうにもならないことがあると思うようになりました」
人工授精がダメなら、次は体外受精。そう簡単に割り切れるものではなかった。
そこで妊活をしばらく休み、東洋医学を取り入れた体質改善を思い立つ。
「選手時代は体幹を鍛え、腹筋をつけたりと男性的な身体作りをしてきましたが、今度はお母さんになる準備をするために優しいボディラインを目指して、ベリーダンスを始めたり、身体を温めるためにビワの葉温灸に通ったりもしました」
そうした生活を1年半続け、身体が変わってきていると実感が持てるようになってもなお、愛は体外受精に踏み切る勇気がなかなか持てなかった。
「もし体外受精までやって子どもができなかったらどうしよう。その恐怖感から、どうしても踏み切ることができませんでした」
夫の走さんには、あきらめる選択肢もあった。
「当時、2人の間では人工授精までと決めていました。体外受精は愛の身体にも負担がかかる。あんなに頑張ってる愛に、僕からはとてもじゃないけど言い出せないと義母にも伝えていました」
─もしできなかったら……
そんな恐怖と闘う愛。その背中を押したのは、またしても母の芙沙子さんだった。
「もういいかな。2人の人生も楽しいかなって、思うんだ」
と弱音を吐く愛。すると母にこう諭された。
「ここであきらめてしまうのは、あなたらしくないじゃない。できることはすべてやって最後までトライするのがあなたらしいと思う。それでもできなかったら2人だけの人生を楽しめばいいじゃない」
それはプロテニスプレーヤーとして引退の危機に瀕した愛を救った金言と同じ言葉。
二人三脚でスランプ克服に挑んだ日々が脳裏に甦った。
「母に言われてすぐ吹っ切れました。体外受精までやりきってみよう。そう考えたら、気持ちが前を向きました」
結果、39歳で妊娠。40歳と3日で待望の長男・悠くんを出産。
イメージする力の強さ
「妊娠を願っていたとき、夫の小さいころの写真をベッド脇に貼って“この子を産みたい”とビジュアルでイメージ。さらに妊婦さんの裸体の顔の部分に自分の横顔の写真を貼り、“これが私だ”と思い込みました(笑)」
今となっては笑い話だが、愛にとってイメージする力は、現役のころから夢を叶える最大の武器なのだ。
妊活の末に子宝にも恵まれた愛だったが、次のキャリアを築くうえでどうしても叶えたい目標がまだ残されていた。それは「ウィッシュリスト」にも早い段階から書き入れていた“大学院に入ってコーチ学を学ぶ”ということ。
「世界のトップ100の男女の選手に女性コーチが極端に少ない。なぜ少ないのか、阻害する要因はなんなのか。とても興味がありました」
2015年4月から順天堂大学大学院に入学。
「翌年7月に長男・悠を授かると、育児、そしてテレビ出演や雑誌などの取材、そして講演活動もこなしながら、夕方6時から夜9時まで授業に出席。想像以上に大変でした」
修士論文のテーマは『エリートプロテニスにおける女性コーチのキャリア選択条件』。
修士論文を書くために、テレビ解説を務めるグランドスラムのテニス中継の合間を縫って女性コーチを捕まえ、取材して回った。
このテーマには、テニス界への愛の思いが込められているのとともに、将来は指導者としてトッププレーヤーを育ててみたいという愛自身の夢もあった。
「自分の子どもだけでなくジュニア全体の育成に目が向きました。中学生くらいまでの光る子、原石を見るとワクワクする」
思い返せば、愛自身が本格的にテニスを始めたのは7歳のときだった。
その翌年、アンドレ・アガシやモニカ・セレシュなどのトッププレーヤーを何人も生んだ世界的なテニススクールの日本校が藤沢に誕生。小学校2年生の夏休み明け、愛は試験に合格。この日が愛にとって「テニス人生」の幕開けとなった。
「大切なことは、すべてテニスが教えてくれた」
そんな思いから昨年立ち上げたのが、国際テニス連盟公認の『Ai Sugiyama Cup』。世界各国から18歳以下の男女がシングルス/ダブルスに分かれてしのぎを削っている。
しかし、長男の悠くんをみずからコーチする可能性について尋ねると、首を横に振った。
「私は母というコーチと一緒でなければスランプを乗り越えられなかったし、トップ10入りもできなかった。今でも母には感謝しています。
でも、悠に対しては母のままでいたい」
親子二人三脚に失敗して、親子関係まで失うケースもある。愛自身も1度はその関係性に疑問を抱いたことがあった。師弟と親子という2つの関係性の中で生きるのは一長一短、薄氷を踏むような日々であった。だからこそ自身の歩んだ道を肯定しつつも、息子には本人が自分の生きる道を見いだしてほしいと願っている。
「これから私が『ウィッシュリスト』で最も力を入れていきたいのが、この大会。今は子育てを最優先にしていますが、やがて悠が小学校に上がるころには、テニスコートに立つ機会をもっと増やしたい。
パーム・インターナショナル・スポーツ・クラブからAi Sugiyama Cupに出場する選手を育てるのも夢のひとつです」
日本のトップ選手のひとり、穂積絵莉もこのクラブの卒業生。昨年から穂積の指導をする機会も増えている。
女性コーチが圧倒的に少ない今のテニス界を変え、「第2の杉山愛を育てる」ことこそ、神様が与えてくれた最大のミッションと、愛は確信している。
取材・文/島右近
しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓