情緒不安定で、人と関わるのが苦手。広汎性発達障害――父親を激しく攻撃したり、強迫性障害に悩んだ時期もあった。唯一、気持ちが落ち着くのは、絵を描くとき。作品が世界的に認められるようになり、精神安定剤がわりだった絵が今、「生きがい」へと変わりつつある。25歳、月収2万円。最近の心配事は父親がいなくなった後の人生だ。焦りと甘えが交錯するなか、「自立」の準備に奮闘する青年の姿を追った。
アール・ブリュット(生の芸術)作家 古久保憲満さん 撮影/伊藤和幸
裏の事実も正直に言いたい
「発達障害があると聞いていたので、きっとデリケートな人だろうと。“どうやって距離を詰めていけばいいだろうか?”と考えていたんですが、そんなことはまったく気にせずに、初日からドンドン撮らせてもらえました。
「同じ障がいのある人に自分のことを知ってもらえれば、心の支えになれると思う。だから、もっといろいろなところに出て自分のことを知ってほしいけれど、表向きの顔だけじゃなく、裏の事実も正直に言いたい。
“(商業主義に毒されず純粋に)絵を描いている”って言われるけど、見栄え(のいいこと)ばかりじゃなくて、実際はゲームばっかりしているとか(笑)、絵を売って何十万円もするようなパソコン買って本格的なゲームを楽しみたい思いもあるとか、そんなところも知ってもらいたい。まあ、そんなん買ったら生活ができなくなるけど─」
「幼少期は夜泣きがひどくて、よく動き回る落ち着きのない子でした。自分でも、それは覚えています」
「そのわりには、人が遊んでるおもちゃで遊びたいと言って取り合って。ケンカになったりするのは日常茶飯事でした」
絵を描いているときは穏やかだった
「人が大勢いるところにすぐには入れない、時間がかかる。子どもばかりの集まりに行っても、中のことは気になるんやけど中に入れず、ほかの子どもさんらが遊んでいるのを外から見ている。途中からみんなに誘われて徐々に中に入っていくような、そんなふうな子どもでしたね」
「パニクるんです。例えば楽しく遊んでいるときに、友達からキツいことを言われる、あるいは大きな声で命令調で言われる。そういうのがとにかく苦手で、ギャーと癇癪を起こして収拾がつかなくなる。みんなと一緒に協調するということが、できない子でした」
「ゲームが欲しくて“買って! 買って!”と言うのと同じように、絵が描きたいとギャーギャー言っていたら、しかたないって感じで、お母さんが無印良品で画用紙を買ってきてくれたんです」
「本を見て、落書きみたいに模様を描いていたら、先生が“模様の発色がきれいや”って。それが絵を描くきっかけかな」
「いちばん思い出にあるのは、迷路を描いていたことですね。あとは車とか乗り物とか。当時は今のような緻密なものでなくて、パッパと大胆に描いた、子どもらしい絵でした」
「恥ずかしがって教室に入れないし、先生の話を聞いていられない。上靴はいつも左右反対にはいて、シャツを着てもかならず前後が反対。下着も裏表反対に着て、ひどいとときには靴下のまま廊下に出てしまう」
自分のことを世界一バカやと思っていた
「それで学校の先生と一緒に病院に行くと、会った医者がうんもすんもなく、“広汎性発達障害と高機能自閉症やな”と。小学校1年の終わりぐらいにわかったんです」
「“やっぱ、そうやったんやな”とは思った。ショックはありましたね。“これからどうしたらいいのか……?”と。冷静を装っていただけでした」
「小学校のときは障がいとか自閉症とかわかりませんでした。障がいがあるとわかって中学で養護学校に入っても、どこまでが、わがままでどこからが障がいなのかがわからなかった。わかるようになってきたのは物心がつき始めた高校生のとき。それまではホンマに自分のことを世界一バカやと思っていたけれど、障がいの影響があったんやなあと、わかった」
「今でも他人の視線や“どう見られているか”がすごく気になっています。これはもともとの性格だから直らないです。でも普通以上に気にしすぎたり情緒不安定になったりは、性格というよりは、障がいなんかな、と。性格もあるし障がいもあるという感じかな、わかりやすく言えば。病院でもボーダーライン上で、軽度だと言われています」
「その落ち着いた状態で学校から家に帰ってくると、だいたい4時前後。するとちょうどそのころ(薬の効き目が)切れるんです。切れるとまたパニック。抑えていたぶんが爆発する」
「そんな中でどう対応していくかですよね。うちのやり方とか、家族のやり方で(憲満さんを)包み込まなければダメだと思いました。人それぞれ家庭の事情がある中で子育てするのと同じで、うちでいちばんいい方法を考えるしかなかったですね」
「Iメッセージ」で変わった親子の会話
「2回目のカウンセリングだったかな、“Iメッセージ”というものを、教えてもらったんですわ」
Iメッセージとは、主語を“I(私)”にして話しかけるコミュニケーション法のことをいう。主語をYOU(あなた)にして、“あなたは○○すべき”と話しかけるYOUメッセージに対し、“私はあなたが○○してくれればうれしい”と表現し、相手に選択権を与える接し方だ。
「ちょっと時間をもらって考えて、“お父さんはまっすぐ靴をそろえて脱いでもらえたらうれしいなあ”。そう答えたら、“お父さん、それでいいんです!”」
「もともとキツい言い方をされたりすると、“お父さん、怒ってる?”とよく言っていました。なにも怒ってないんやけど、このへんは関西弁で言葉のトーンでキツく聞こえることがある。でもそれ以降は、僕との言葉のやりとりも徐々に変わっていきましたね」
「自分の障がいを理解してもらえないでキツいことを言われると、反発しないと自分が負けているような気がして嫌なんです。口惜しいというか。
「大変やと思ったら大変やけど、ちょっとしたことがものすごい喜びなんですよね。例えば朝起きるときに何回起こしても起きなかったのが、自分から起きてくるとか。そんだけのことが、喜びだったんですよね」
「お父さんや家族に悪いことをしたとかは、そう思うところもあれば思わないところもある。好きな物を買ってくれたりいろいろなことをさせてくれ、こういう(絵が描ける)生活をさせてくれたことには感謝している。
でも、(障がいを理解してもらえず)厳しいことを言われたり、“他人はこうするんやで”とか言われたりしたのは、今も(悔しさとして)残ってる」
きっかけはギャングゲームの街並み
「最初、本人は養護学校でなくて普通の学校に行きたいと。どこへ行ってもいいと思ったけれど、養護学校は体験入学があるし、普通の中学に行っても、普通クラスでなくて特別支援学級になる」
「僕にしてみたら、養護学校に少し偏見を持っていたんです。知的に遅れてはるとかね。それが全然違った。みんな頭はしっかりしてはるし、生徒さんたちは積極的に手を上げて先生の質問に答えている。うちの子なんて学校には行ってるだけやったのに。思っていたよりいきいきとしているなあ、と。そしたら本人が、“お父さん、僕、養護学校に行くわ”。そう言うんです」
「中学2年のとき、先生が優しくて、授業中も絵を描かせてもらっていたんです。ちょうどその時、従兄弟から18禁のギャングが主役のゲームを借りていて、犯罪のゲームだから街が出てくるじゃないですか。大きな道路があったり車があったり。それが参考になって、落書きノートとかA4の紙を貼りつけたりして街を描いたりとかし始めた。
「褒められて、チヤホヤされてうれしかったですね。誰でもそうでしょ?」
美術界に広まる衝撃
“A4の紙をテープでつぎはぎして描くより、君だったら大きなロール紙を使っても描けるんじゃないか─?”
「最初は展覧会の出品用に50号とか100号とか規定の絵の大きさに切っては休み時間とかに描いてはったんですが、それがものすごいスピードで。1枚目の100センチに切った絵を半分ほど描き上げてきたときに、その内容と量がすごかったんで、“10メートルの紙にまるまる描いたらどうなるんやろな?”と。そう投げかけたのがきっかけでした」
“やってみる─!”
「(当時は)“頑張って描いたなあ”ぐらいで、真価はまだわかりませんでした。でも、まだ上海ディズニーランドができる前だったから、ネットで調べたりして、ここまで精密に描けるのは本当にすごいなあと思いましたね」
「お父さんから電話で、“最優秀賞になりました!”と聞いたときには、エーッ!? と驚きましたね。線のタッチをよく見てもらうとのり君の絵のすごさがわかります。白い部分が残っているので後期の作品と比べるとまだまだ緻密じゃないけれど、それでもすごい。受賞されたと聞いてびっくりしました」
「“自分でもできるんやな”と思った。自分の絵はすごいと思った」
「憲満が“自転車で止まっている車の横を通ったとき、自転車が当たってしまったような気がする”と。謝りに行くと、車の持ち主は“気にせんといて”と言ってくれた。学校の先生に報告しに行ったら“強迫性神経障害が出ないといいけれど……”と」
絵は彼のコミュニケーションツール
「憲満のおかげで、東京はもちろん、スイスやシンガポールにまで行かせてもらって。障がいで苦労はしたけど、障がいがあればこそ、東京にもスイスにも行けたんやから」
「絵は彼のコミュニケーションツールのひとつ。日常で、彼は知らない誰かに話しかけられたらしゃべれない。ペンと紙が、そのかわりになっているんだと思います」
「彼の中では絵は言葉で、しゃべりたいことが絵に詰まっているんです。ずっとしゃべっていたいことがあって、それが10メートルの大作につながっていくんだと思います」
「賞よりも、もっと大きな街を描きたいという思いのほうが強い。多種多様な街。いろんな文化があったり、いろんな人種がいるような。たとえていえば、シンガポールとかインドネシアとか。先進国って好きじゃないんですよ。途上国のほうが好き。新しい建物があれば古い建物もある、あの格差が好き」
「北朝鮮って国際社会から孤立した、孤独な国ですよね。その孤独がいいんですよ、俺は。(略)いろんな人から嫌われて、“古久保君とは遊ばへん”とか言われて、経済制裁をされている自分。ようするに自分の生活空間が、北朝鮮の体制とよく似ていると思っているんです─」と。
月収2万円、会社員、自立
「今はねじや部品などを検品したり、商品を詰めたりする仕事をしています。検品は苦手やけど、シール貼りとかパック詰めとかは好きやな」
「将来を考え始めたのは高校を卒業して3年ぐらいしてから。“お前も将来のことを考えないと”と言われて、ちょっとマズいかな、と思って。それ以来、食器洗いをたまにしたり、トイレ掃除とか。風呂掃除は毎日しています」
「自立について(憲満さんが)言い始めたのは3年ぐらい前からかな。周りが何も言わなくても何でもできるのが自立やと思っています。今は、だいぶ自分でなんでもするようになりましたね。当たり前のことやけど、ご飯を作って食べたりとか。この間も、“お父さん、カレーの作り方を教えて”と。それから、僕、トイレ掃除を毎日するんだけど、半年ぐらい前に、憲満も“トイレ掃除する”と言いだして。おかげんさんで、うちのトイレはきれいですわ」
「絵で収入を得たいという欲はあるけれど、それをしてはマズいですね。俺も人なので、売れて好きな所に行けるわ、東京に行けるわ、好きなもん食べさせてもらうわになると、鼻が高くなるでしょ? そんな経験したら人が変わるわ。今までそんな経験したことないから」
「(絵で生計を立てることを)今はまだそこまで考える必要はない。お父さんがいるから、そこまで真剣に考えてない。売ることばかりを考えて描いていたら、絵がダメになる」
「今、アール・ブリュットがブームだけれども、ブームは去るときがくる。受賞をうれしい、うれしいと喜んでばかりいると、落ち込む時期が必ず来る。そうではなく、自分の楽しみのために描きなさいと。他人から“こういう絵を描いてほしい。もっと描いてほしい”と言われても“自分のペースで描きたいときに描きなさい”と言っています。それが一生絵を続けるコツですよね」
「僕は作家として身を立ててもいいんじゃないかと思います。日本には“障がい者は障がい者らしくしていろ”みたいなのがあるじゃないですか。障がい者がお金を儲けたら不謹慎だというような。
取材・文/千羽ひとみ(せんばひとみ)ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(共に共著)。