坂本一生
“加勢大周・新加勢大周”騒動の始まり
「なんで芸能界なんかに入っちゃったんだろう。僕は野球選手になりたかったのに」
「体力だけは自信があって。日本に戻っても、特にやることは決まっていないから、とりあえずプロ野球のトライアウトでも受けてみるか」
「今だったら、海外にいても日本の情報をネットで知ることができるけど、当時はそんなことできません。事務所と加勢さんのトラブルはもちろん、加勢さんという存在も知りませんでした」
「新加勢大周の名前でデビューさせるから」
「彼の活躍を知っていたら、おこがましくて新加勢大周なんて名前でデビューしてないですよ!(笑)“あっちは白のTシャツだから、お前は黒のタンクトップでいく”とだけ言われて、なすがまま。あとはノープランです」
「とにかく丁寧語を心がけた」という。そうして生まれたのが、記者から「(この騒動について)何かご存じですか?」と聞かれ、『ご存じです』と返答した伝説の記者会見だった。
「ものすごい数のフラッシュがたかれて。自分がとんでもない犯罪を起こしたんじゃないのかと錯覚した」
「契約書を出されると書いちゃうんだよね。バカなんだろうね」
「今はもう大丈夫。でも、昔からニンジンをぶら下げられると、何も考えずに突き進んでしまうところがあって。“もうちょっと疑えよ!”って自分でも思う。だから、いろいろと巻き込まれるんだろうね」
「デビューから名前と顔が知れ渡るまで、僕は芸能界史上最速最短だと思う。名前と顔を覚えてもらうのに、何年もかかる人がたくさんいるのが芸能界。当時は、たった20日で改名するなら、最初から坂本一生でやらせてくれよと思ってましたよ。だって、登場のたびに“新加勢大周あらため坂本一生さんです!”って紹介されるんだよ。火つけ盗賊あらため長谷川平蔵じゃないんだから。でも、いま思うと新加勢大周は、見事なブランディングだったんだなって思いますね」
過酷な芸能生活、 ギャラ未払いや夜逃げも
「同業者のやっかみもすごかった。弱小事務所だから先輩も後輩もいない。相談できる人もいなくて孤独でしたね」
「雑誌の撮影をしていると、道路の向こう側から、女性にコーラの缶を投げつけられて、足元で破裂したり。あるときは事務所の入り口に、犬のフンとは違う……どう見ても人糞が置かれていたこともあった。マネージャーがそれを片づける姿を見て、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったと思いましたね」
「女性からモテていたことだけが、唯一の救い。たくさん失敗もしたけど」
「デビューして1年くらいたった夜、ものすごい勢いで自宅のドアを叩く音がして。“いるのはわかってんだぞ! 出てこい!”と怒鳴り散らす取り立て屋でした」
「半年以上、家賃が支払われていないと。社長がいないことを伝え、いったんお引き取りしてもらい、すぐに夜逃げの準備をしました。最低限の生活必需品とダンベルを抱えて、実家がある千葉に帰りました」
「半年以上たっても、給料らしいものをもらっていなかったんです。でも、芸能界のしきたりがよくわからないことに加え、衣食住は事務所持ちだったため生活に困ることもなかった。あのときは“こういうもんなのかな”って」
「それももらっていない。美味しいご飯とキャバクラに連れて行ってくれたから」
「言われてみれば……俺がおごっていたようなもんじゃん!(笑) なんでギャラをもらっていなかったんだろ」
「いつも黒のタンクトップとジーパンだから衣装代もかからない。芸能界に対して無知だから扱いやすく、所属タレントも自分ひとりだけで、相談できる仲間もいない。まるで奴隷商売(笑)。自分で言うのもなんだけど、僕じゃなかったらもっと早い段階で大問題になっていたと思いますよ」
「ボロ雑巾になりながら、その都度、自分できれいに修繕して生き延びている」
「あの騒動で結果的に名前が知れ渡ったことで、パーソナルジムにお客さんが来てくれるケースもある。一夜にして何百万も稼ぐ世界も知ってるし、1日で1万円を稼ぐことの大変さも知っていることは、今とても役に立っていると思います。
芸能界って、やめるやめないが通用する世界じゃない。1度認知されたら、ずっと背負っていかなければいけない。後ろ指をさされながら一般社会で働くのは大変。死にものぐるいでやらないと」
「ケースバイケースとしか言いようがないですね。昔は芸能界の道に入ったことを恨んで、自殺も考えました。青木ヶ原樹海まで車を飛ばしたのですが、道に迷って樹海の入り口といわれていた駐車場にたどり着くことができず……。
(取材・文/我妻アヅ子)