cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_ef31b845f66a_日本人の英語力は世界53位 「EF EPI英語能力指数」2019年版発表 ef31b845f66a

日本人の英語力は世界53位 「EF EPI英語能力指数」2019年版発表

2019年11月8日 15:00 朝日新聞GLOBE+

海外留学や語学教育事業などを世界110カ国以上で展開するイー・エフ・エデュケーション・ファースト(EF)は8日、英語能力のベンチマーク「EF EPI英語能力指数」の2019年版を発表した。日本の英語能力指数は、世界100カ国・地域のうち53位で9年連続の下落。英語能力レベルは4年連続で「低い」と位置づけられる結果となった。
EF EPI英語能力指数は、EFが無料で提供しているオンラインの英語能力測定テスト「EF SET」(https://www.efset.org/ja/)の受験結果を元に算出されたもので、2011年以来、毎年発表されている。非英語圏の国と地域の英語能力を追跡して計測しており、指数(EF EPIスコア)の世界ランキングと、指数分布を元に全参加国の英語レベルを「非常に高い」から「非常に低い」の5段階に分類。2019年版の調査対象国は、前年版よりアジア・アフリカ地域を中心に12カ国増え、受験者数は77%増の230万人となった。
日本の英語能力指数は前年より0.29ポイント下がって51.51。順位では前年の49位から53位へ転落した。2011年版では44カ国中14位(指数54.17)で、9年連続の下落。この結果についてEFは、参加国・地域と受験者が拡大したことや、世界全体の英語レベルが向上していることが影響したと分析している。

全体では、昨年2位のオランダが1位に返り咲き、2位はスウェーデン、3位はノルウェーと上位に北欧諸国が並んだ。また、5段階の能力レベルの最高位である「非常に高い英語能力」とされた国は、昨年より2カ国増えて過去最高の14カ国。世界全体の英語能力は上昇傾向にあることが示された。
業種別に英語能力の差を調査した結果では、行政サービスと教育など国内向けの業務が多い業種を除くと、差は最大で10ポイント以内で、あらゆる業種で英語ニーズが高いことが伺える結果となった。また、職務別では、流通・販売や総務・事務などで、他との比較では平均的な英語能力が大幅に低く、職務間の差が出ているという。
EFジャパンのサンチョリ・リー社長は、「今年も日本と他国との相対的な差が顕著に表れる結果となりました。今語学を学んでいる方にとっても世界の中での自分の立ち位置を知るツールとして活用してほしい」とコメントしている。
EF EPI英語能力指数2019年のランキングおよびレポート全文は、EFジャパンのサイトで見ることができる。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_962824f14dae_W杯沸かせたアイルランドを歩き、ラグビーとビールの世界を深掘りする 962824f14dae

W杯沸かせたアイルランドを歩き、ラグビーとビールの世界を深掘りする

2019年11月8日 12:00 朝日新聞GLOBE+

ダブリン(アイルランド)

スタンドの最前列に座ると、ピッチの近さに驚かされる。選手の会話や息づかいまで聞こえてきそう。3階席から望む街並みが美しい。約5万1700人収容のアビバ・スタジアム(❶)は、ラグビーやサッカーの代表戦も開催される。

今月初旬まで日本中を沸かせたラグビーW杯日本大会。8強だったアイルランド代表は、アイルランド共和国と英国領北アイルランドの合同チームだ。双方あわせても人口は約670万人で、日本の約18分の1しかない。小国でも強い理由は?
そんな疑問を抱きながら、人気宿泊施設カートン・ハウスを訪れた。アビバ・スタジアムから西へ30キロほどのキルデア州メイヌースにあり、広さは1100エーカー、東京ドーム95個分以上の広大な敷地に、ゴルフ場や豪華なホテルがある。12世紀から貴族フィッツジェラルド家が所有し、1739年に初期の建物がつくられた。

約8.8キロの塀に囲まれ、ラグビー場が2面、専用ジムにプールも備える。スペインサッカーの名門バルセロナなど世界一流クラブも利用したという「最高の環境」で、ラグビー男子代表は約8年前から合宿を続けてチームを鍛え上げてきた。
ラグビー観戦で忘れてはいけないのがビールだ。パブ文化が根付く英国生まれの競技で、1人あたり年間消費量(2017年、キリン調べ)はアイルランド共和国が94・9リットルで日本の2・4倍。W杯日本大会前にはアイルランド人たちの間で売り切れを心配する声が出た。

とくに首都ダブリンは黒ビールで名高いギネスビール発祥の地。2000年から一般に公開したギネス・ストアハウス(❷)は、この国随一の観光名所として知られる。品数豊富なおみやげ屋はもちろん、館内ツアーも充実。ビールづくりに欠かせないホップや水など基礎情報から、正しい注ぎ方まで250年以上を誇るギネス・ブランドの歴史を学べる。

ギネスは欧州6カ国対抗の大会冠スポンサーにもなっており、一般公開から約20年となる今年、ストアハウスへの訪問者は2千万人を超えた。
アイルランド人のラグビー熱に感心していると、意外にも競技としての人気は国内4位だった。1位はサッカーで、収容約8万人のクローク・パーク(❹)で行われている伝統競技のゲーリック・フットボールとハーリングが2位を争う。

ただ、ラグビー人気は近年特に上昇している。交通・観光・スポーツ省のスポーツ政策・国立スポーツキャンパス局長、ピーター・ホーガンは言う。「若手育成の充実や、代表チームの活躍が理由だ。そして何より、スター選手のほぼ全員が国内リーグでプレーしている。地元の子どもたちが選手たちに憧れ続けられるのも大きい」(遠田寛生)

■伝統の味 じっくり煮込んで

ダブリンに来たからには、と地元の人に薦められたのがジョニー・フォックスズ・パブ(❺)だ。アビバ・スタジアムから車で南へ30分ほど、途中2車線とは思えない細道を走った先の閑静な場所にあった。1798年にオープンしたという古風な家のような店で、テーブルや椅子と椅子の間隔が狭くて独特の雰囲気がある。午後6時前だというのに、すでに大勢の客でにぎわっていた。
店員にお薦めを聞くと、即座に指をさしたのが「アイリッシュ・マウンテン・ラム・シチュー」。とろとろの羊肉と、じゃがいも、ニンジン、セロリなどの野菜がゴロゴロ入った煮込みスープ。見た目以上にあっさりしていて食べやすい。つけ合わせのパイのサクサクな食感が、またよく合う。

ビールやワインなど酒類も豊富で、時間帯によっては生演奏やアイルランド伝統のダンスのショーも。帰り際、バスツアーの団体とすれ違った。じっくり料理を味わいたい人は、少し早めの時間に訪れるのがおすすめだ。

■ウイスキー党に朗報

ビールよりウイスキー、という人には、ティーリング・ウイスキーの蒸留所(❸)にぜひ立ち寄ってほしい。2015年に誕生したばかりで、ダブリン市内に新しい蒸留所ができるのは125年以上ぶりという。入場券を買えば、ツアーや試飲も含まれている。土産を買う前に好みの味を探すこともできる。

■ラグビーをしのぐ人気競技

サッカーとバスケットボールを組み合わせたような屋外競技ゲーリック・フットボール。古くから住み着いたケルト系民族のゲール人が発案し、19世紀終盤から本格的に伝わったとされる。フィールドホッケーやラクロスに似たハーリングと共に人気はすさまじく、全国大会は大衆紙が何枚もページを割いて特集。選手は教師やバスの運転手などアマチュアのみ。「おらが街のヒーロー」として愛されている。(遠田寛生、写真も)

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_d38e8997e421_ラグビーW杯優勝、南アフリカの歓喜の中に見た貧困と格差 d38e8997e421

ラグビーW杯優勝、南アフリカの歓喜の中に見た貧困と格差

2019年11月8日 08:00 朝日新聞GLOBE+

日本で初めての開催となったラグビー・ワールドカップは、南アフリカ代表が3度目の優勝を決めて幕を閉じた。1990年代前半まで続いたアパルトヘイト(人種隔離)政策の名残から、「ラグビーは白人のスポーツ」とも言われてきたこの国で、黒人初のシヤ・コリシ主将が選手たちの中央でトロフィーを頭上に掲げたシーンは、全人口の約8割を占める黒人にとって格別のものだった。それでも、国民全員がこの歓喜に沸いたわけではない。現地での取材を通して感じたこの国の複雑な現状を紹介したい。
イングランドとの決勝戦があった2日、私は南アフリカ最大都市ヨハネスブルクから、南部の都市ポートエリザベスの空港に着いた。地元紙を買おうと立ち寄った売店では、店員と客が目前に迫った決勝戦のスコア予想で盛り上がっていた。
この街を取材先に選んだのには理由がある。支局があるヨハネスブルクや大統領府があるプレトリアなどは、「白人はラグビー」、「黒人はサッカー」と考える人が多く、取材対象に偏りが出る恐れがあった。南アフリカ代表が準々決勝で日本代表と対戦した際も、ヨハネスブルクの有料のパブリックビューイング会場では、客の大半が白人だった。

そもそも、今回のW杯の放送は当初、有料のケーブルテレビを契約していなければ見られなかった。生活苦にあえぐ黒人の大半は契約できず、バーなどに出向く必要があったが、開催国である日本との時差の関係で開店していない店も多かった。
ポートエリザベスの空港から配車アプリ「Uber」を利用して、コリシ主将が生まれ育った故郷ズウィデまでは30分ほどだった。この地区には、トタン屋根とれんがでできた民家が軒を並べ、ポリ袋が至るところに散乱していた。ティーシャツにハーフパンツ、サンダル姿の子どもたちが多く、午前中にもかかわらず、酒に酔って目の焦点が合っていない男性もいた。
国の失業率が30%近くに上り、経済低迷が続く南アフリカだが、白人政権によるアパルトヘイト政策が続いた時代に設置されたこうした旧黒人居住区(タウンシップ)の失業率や生活苦は、それをはるかに上回る。
コリシ選手は、アパルトヘイト政策の関連法が廃止された1991年に生まれた。両親に満足な仕事はなく、食事を食べられない日も多かった。2007年のW杯で、南アフリカ代表が2度目の優勝を決めた時、16歳だった彼は自宅近くのタベルン(居酒屋)に出向き、試合を観戦した。自宅にテレビが置いてなかったからだ。

ズウィデに住む人々や同じような境遇の人にとって、貧困家庭で育ったコリシ選手は、実力で夢をつかんだ「英雄」であり、「希望の星」だ。特設のパブリックビューイング会場には、地元の子どもたちや恩師ら約2千人が集まった。ほぼ全員が黒人で、黄色人種の私は完全に浮いていた。
試合中、スクリーンに彼が映し出されるたび、観衆は大きな歓声をあげた。地元チーム「アフリカンボンバーズ」で幼少期のコリシ選手を指導したエリック・ソングウィーキさんは「他の子に比べて、体格は決して恵まれていなかった。ただ、活発で真面目に練習に取り組み、12歳の頃に名門校にスカウトされたんだ」と振り返った。10代で母親を亡くしたものの、白人が多く通う高校でラグビーを続け、苦手だった英語も必死に勉強して徐々に頭角を現すようになった。
南アフリカ代表が優勝を決めた後、故郷の人々は「シヤ、シヤ!」と連呼し、独特のリズムで体をくねらせる踊りを見せた。アフリカンボンバーズでプレーするバトベル・セカニ君(14)は「コリシ選手と同じ場所で生まれてうれしい。将来は彼のように代表選手になりたい」と目を輝かせた。ソングウィーキさんも「彼は私の誇り。本当に幸せだ」と喜びをかみしめた。取材していた私も、思わず胸が熱くなった。

ちょっとした事件があったのは、取材を終えてホテルに向かおうとした時だった。迎えに来たUberの車の助手席に乗り、会場の外に出た直後、地元の若者たちが突然ドアを開けてきて、私の携帯電話を盗もうとしてきたのだ。男性運転手(26)が機転を利かしてドアが開いたまま車を急発進し、道路の反対車線を走行しながら何とか難を逃れたが、歓喜の瞬間に酔いしれた浮かれ気分は、一気に吹き飛んでしまった。
運転手は「これがこの国の現実さ。経済は低迷し、仕事がない人も多いから、犯罪に手を染める人もいる。君のような外国人なら格好の標的になる。だけど、全員が悪人ではないことは分かって欲しい」と話してきた。
私が南アフリカで暮らし始めたのは2年ほど前。人口の1割ほどの白人が土地の7割を保有する格差は続き、黒人との年収の差も歴然としている。ただ、快適な気候と豊かな自然や動物など、この国の良いところも何度も見てきた。
私は運転手に向かって、「ほとんどの人がフレンドリーだと知っているから大丈夫だよ」と返した後、「格差がもう少し解消し、治安が良くなれば、南アフリカは本当に最高の国だと思う」と続けた。運転手は「優勝した今日くらいは、嫌なことは考えずに喜ぼうじゃないか」と言った。そして、「この後、地元の人気サッカーチーム同士の試合があるんだ」と話題を変えた。本音では、ラグビーよりもサッカーの方が好きなのだろう。

コリシ選手は試合後、「母国は多くの問題を抱えている。でも、環境や人種は違っても、(優勝という)目標に向かって一つになれた。私たちは団結すれば、何だってできるんだ」と訴えた。5日に帰国した際には、記者会見で子どもたちへのメッセージを求められると、「子どもたちは(貧困などで)大変な状況にあるが、チャンスさえあれば何だって乗り切れると思う。私も幼い時は、チャンスがいつ来てもいいように毎日のように練習に励み、奨学金をもらうことができた。最も大事なのは、『お前には無理だ』と言う人の言葉を聞かないことだ。夢を持ち続けること、信じ続けること、そして前に進み続けて欲しい」と呼びかけた。
 貧困や格差の解消は、大きな課題として今も残っている。ただ、7日から実施された優勝パレードには、白人、黒人に関係なく、大勢のファンが沿道に集まった。 かつてネルソン・マンデラ元大統領がラグビーを通して国民の融和を求めた ように、 コリシ選手の言葉はしっかりと人々の心に響いただろう。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_299f40982845_札束が飛び交う現金王国ウズベキスタン、キャッシュレス社会へ一歩 299f40982845

札束が飛び交う現金王国ウズベキスタン、キャッシュレス社会へ一歩

2019年11月8日 07:00 朝日新聞GLOBE+

日本をしのぐ「現金王国」がある。中央アジアのウズベキスタンだ。買い物では札束が飛び交うが、財布を持つ人は見かけない。激しいインフレで紙幣の束が分厚くなりすぎ、財布に入りきらないからだ。
首都タシケントにある市場「チョルス・バザール」に入ると、広大な敷地に店が並び、ありとあらゆるモノが売られていた。解体されたばかりの羊や牛の肉、トマトやタマネギなどの野菜、果物、香辛料、陶器、衣類……。
銀行カードで支払いができるという表示はあるが、買い物客はみな通貨「スム」の札束を渡している。ウズベキスタンでは、まだ給料を現金でもらっている人が多く、銀行口座にあまりお金が入っていないという事情もある。

「Cash is King(現金は王様)」。ウズベキスタンの財務副大臣オディルベク・イサコフ(38)はそう言って苦笑した。2年前から米ドルに対する為替相場は半分以下に急落し、インフレ率は20%近い。「お金が余ったら不動産や牛・羊などを買うか、米ドルに両替する人が多い」。金利がつかない預金では、価値が目減りすることになり、米ドルや資産に換えれば、逆に価値は上がるからだ。それでも買い物の前には、スムに両替しなければならない。

ウズベキスタンでは2017年に1万スム札と5万スム札、今年は10万スム札が発行された。10万スムでも、日本円では1100円ほどだ。その前は自動車など高額なものを買うには大量のお札が必要だった。スーパーの大きいレジ袋13袋に札束を詰め込んで販売店に持参し、数えるのに5時間かかったつわものもいる。
そんなウズベキスタンでも、政府はキャッシュレス化に向けた政策を矢継ぎ早に打ち出し始めた。今年5月、ビザやマスターとカードリーダーの規格が同じ銀行カード「フモカード」がつくられ、デジタル通貨の発行まで視野に入れる。デジタル経済の構築を進める行政組織「NAPM」ファンド部門トップのバホディール・ベコフ(37)は「ブロックチェーン技術を使った電子政府づくりや、デジタル通貨の開発をめざしている」と意気込む。
現金からキャッシュレス、そしてデジタル通貨へ。自国通貨が弱い国の挑戦が続く。(星野眞三雄、文中敬称略)

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_e2f668d93bd3_働くママ、海外赴任決定。子供と夫、どうする? e2f668d93bd3

働くママ、海外赴任決定。子供と夫、どうする?

2019年11月7日 17:00 朝日新聞GLOBE+

国外で暮らす日本人の在留先で一番多いのはアメリカですが、その中でも日本の本社から海外赴任先としてやってくる駐在員人口が世界一多いエリアはサンフランシスコ・シリコンバレーではないかという気がします。シリコンバレーはご存知、Apple、Google、Facebook、Uber、Salesforceをはじめとした巨大ハイテク企業だけでなく、次々と新しいスタートアップが集中して誕生するエリアでもあります。
駐在員を配置する主な目的は、新規事業のネタとなる情報収集、次のプロジェクトや製品開発に繋がるスタートアップのお買い物、提携先探し、ネットワーク構築、自社製品の海外展開などで、100人規模で駐在員を送る大企業メーカーもあれば、シリコンバレーブームのさなか、一人か二人とりあえず駐在員を配置しておかないと取り残されるのではというプレッシャーを感じて投入する企業までさまざまです。
駐在員家族で圧倒的に多いのが、夫の赴任が決まり、妻と子供を連れてくる(もしくは現地で子供が生まれる)というパターン。単身女性の赴任は今までもわりと存在していましたが、ここ数年、妻(子供の母親)の駐在が決まり、家族を連れてくるケースが見られるようになりました。

夫の駐在が決まった場合、仕事を中断して夫に帯同し、駐在員妻(略して駐妻)となる人も多いですが、妻の駐在が決まった場合は、子供のサポート体制や夫の仕事をどうするかなど、家族の間で決めるのはなかなか複雑かつ難しいようです。
また、「すべての女性が輝く」活躍を目指す政策に寄り添った大企業であっても、彼女たちが長年の念願の海外赴任が決まって、「子供を連れて行きます!」と会社の人事に伝えると、「なんで連れて行くのですか?」とびっくりされたり、男性の駐在員には絶対に言わないような露骨な嫌味を言われたり、「前例がありません」などと抵抗されたりすることもあるようです。それでも男性も含めた同僚の「後に続く女性たちのローモデルになるように頑張って!」「海外赴任なんて諦めてたけれども、そういう方法もあったのねー。私も手を挙げてみる!」という声が励みになったと、ママ駐在員たちは振り返っていました。
私の周囲には下の3パターンで、シリコンバレーで活躍している駐在員ママがいます。
 1. 夫(子供の父親)が仕事を辞めて、もしくは配偶者の転勤に伴う休職制度などを利用して、もしくは同じ地域に赴任して妻に帯同する。
 2. 夫は日本に残り、妻が子供と自分の母親を連れてくる(妻の父親は日本に残り単身生活となる)。
 3. 夫は日本に残り、妻が子供だけを連れて赴任する。
1のケースが一番多いですが、3の場合は、任地に頼れる家族がいないので、子供のサポート体制はいくつものバックアップを用意しておく必要があります。夫の出張が多くワンオペの日々が多い私も、学校の後には日本の学童保育のようなアフタースクールに入れる、信用できて子供との相性がいいシッターを何人か確保する、出張のときにお泊まりさせてもらえる家族ぐるみの友人関係を構築するなど、さまざまな対策を練っています。毎日綱渡り状態の調整が続き、アレンジに費やす時間もかなりのものです。そして、もちろん子供は病気になったり、怪我もします。そんなときは一瞬目の前が暗くなり、軽く動悸がします。これは、日本で共働きの方も同様かもしれないですが、何の人脈もなく転勤してきたママたちにとってはなおさら大変なことでしょう。
アメリカには子育てのサポート体制の一つのオプションとしてオペアという選択があります。オペアはその国以外の若者がホストファミリーと一緒に暮らし、ベビーシッターとして働きながら、語学学校などで学ぶ留学システムです。共働きが多いサンフランシスコ・シリコンバレーにはオペアを利用している家庭は多いですし、小さい時にオペアがいた、という人も結構いるんです。

他人と一緒に住むなんて、というのと、費用のことで驚かれることが多いのですが、エージェンシー代、保険、授業料のサポートなどの初期費用は1万ドル(100万円弱)かかるものの、その後は食費と週に200-250ドルの給与で済みます。物価の高いシリコンバレーではシッターの時給も20ドル以上。オペアが1週間40-45時間働いてくれるのと同じ時間量をシッターにお願いするよりずっとリーズナブルにすみます。シッターの手配を常にする手間が省ける、いつも同じ人にお願いできる、スケジュールがフレキシブルなどのメリットもありますが、家族以外の人と一緒に住むわけですから、その人の性格やホストファミリーとの相性はもちろん重要です。
日本で英語圏のオペアを雇った場合、子供に英語で話しかけてもらってバイリンガル教育につながるということもあるかもしれません。一人部屋を提供しなければいけないなど家のスペースのハードルはあるかもしれませんが、日本に暮らしてみたい、日本で日本語を学びたい、という若い外国人は多いので、共働きの増加に伴い、オペアもいつか日本に普及する「かも」しれないですね。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_80d20b18d916_安田菜津紀さん、サヘル・ローズさんが問いかける「世界のためにできること」 80d20b18d916

安田菜津紀さん、サヘル・ローズさんが問いかける「世界のためにできること」

2019年11月7日 17:00 朝日新聞GLOBE+

シリアやイラクなどの紛争地に足を運び、戦禍の中にある日常を伝え続けるフォトジャーナリストの安田菜津紀さん。世界の孤児たちの支援を続けているイラン生まれの女優、サヘル・ローズさん。昨年共著も出し、互いを「なっちゃん」「さっちゃん」と呼び合う2人が10月、朝日新聞の日曜別刷り「GLOBE」と「アカデミーヒルズ」の共催イベントに登壇した。10月にイラクのシリア難民キャンプを訪ねたばかりのふたり。現地で感じたこと、日本でできることなどを、熱く語り合った。(GLOBE編集部・西村宏冶)

■「子どもたちに武器でなくペンを」

――サヘルさんは今回、ヨルダンにある最大のシリア難民キャンプ、ザアタリ難民キャンプも訪ねた。もともと、キャンプに学校をつくる活動を続けているNPO「国境なき子どもたち」を通じて、日本から支援活動をしてきたという。養母とともに日本に渡って厳しい暮らしを生き抜いてきたサヘルさんは静かに、しかし強く語りかけた。

サヘルさん)私は子どもたちに武器を持たせたくない。お父さんを失ったり、兄妹を奪われたりした子どもたちに植えつけられた憎しみの種、敵を撃ちたいという思いはどこかでわき出てくると思う。それは否定できないもの。憎しみは誰しも持っていて、汚いものではないです。
でも、そこでどうやって「憎しみからはなにも生まれない、あなたが銃を向けた相手、その家族の子どもが次はあなたの子どもを撃つかもしれない。負の連鎖でしかない」と伝えるか。私は武器ではなく、ペンを握ってもらいたい。

難民キャンプは整ってきていて、私にはひとつの街に見えたんです。でもまわりにはフェンスがあって、見上げたら針金が空に突き刺さっている。子どもたちは遊んではいるけれども、見上げた先には針金が突き刺さった空。その向こうに手を伸ばしたくても、自由に動けるわけではない。カメラを向けると「写真を日本に持って行ってね」「おれの存在を覚えておいて」って無邪気に笑いかけてくれるけれど、笑顔のなか、瞳の奥にある悲しみというのは、肉眼で見たからこそ感じるものがありました。

――サヘルさんは、帰国後もずっと腕につけているという小さなブレスレットを見せながら、話を続けた。
サヘルさん)私は現地で青空教室をさせてもらって、女の子たちに自分の歩んできた道のりを話しました。そうしたら、そのなかのひとりが、本当に急に泣き出して、もう涙が止まらなくてなってしまって、私にハグをしてくれたんです。「来てくれてありがとう」って。
私が「どうしよう、私の話が通じるだろうか」と感じていたところに、その子、リムちゃんが抱きしめてくれて。帰りぎわに、このふたつのブレスレットをくれて「私が存在していることを覚えておいて」って。「私もおねえちゃんのこと忘れないから」って。「私、ここでがんばるから、またどっかで会おう」って。

小さな、おもちゃのようなブレスレットです。彼女たちはどういった思いで、自分の国からこれを持ってきたんだろうと。最後に逃げるときにみんな、すべてのものを持ってこられるわけではない。子どもたちもいろんなものを抱えながら、でもお父さんお母さんには心配をかけられないというなかで。
この子たちが大人になったときに、まだキャンプで生活しなくちゃいけないのか。結婚するときも、この中なのかなって。これを拡大させちゃいけない。このキャンプが整って良かったではなくて、キャンプがこのまま突き進むことを阻止しなきゃいけないなと。社会がこれを見て、おかしいと思わなきゃいけない。整ってよかった、水道があって良かったではないんだなと。いろんなことを感じました。

――各地のシリア難民キャンプを取材してきている安田さんが訴えたのは、自由がない生活の厳しさだった。
安田さん)3カ月のシフトとはいえ仕事があり、最低限の配給もあるので、偏見を持たれることがあるんです。仕事もせずにいいよね、とか。でも、逃れてくるひとたちは、その前にいろんな日常があって。サンドイッチ売っていたよとか、テレビのプロデューサーをしてたよ、とか、学校の先生だった、とか。たんに仕事というのはお金を得るということだけではなくて、社会とつながっていく、社会から必要とされていくということ。
ザアタリ難民キャンプのひとたちの中には「檻の中で生活しているようだ」という言葉を使う人もいるのですが、ずっといつ帰れるかもわからないし、何をしていいのかも分からない。自分自身が世界から必要とされていないような気がする、と。そんな社会につながれない苦痛にも、私たちは思いをはせなくてはいけないなと思いますね。

■子どもたちに感じた「見てもらいたい」という思い

――今回ふたりがともに訪れたのは、イラク北部のアルビルにあるダルシャクラン難民キャンプだ。

安田さん)イラク北部はクルド人の自治区になっています。アルビルは、非常に治安が安定していて、暴動とかデモで犠牲者が出たとかいうニュースがあるバグダッドとは、別世界。ある意味、国家がふたつある感覚と思っていただけるといいのではないかと思います。
サヘルさん)言葉が通じなかったので、みんなジェスチャーで話すんですけど、スマートフォンの連絡先を教えたら、毎晩いろんな子たちからビデオメッセージが来る。言葉が分からないから、みんなアイラブユー、アイラブユーを繰り返すんですね。

手紙も書いてもらいました。10年後になりたい自分とか、いま思っている感情をつづって、と。それにも「愛してる」とか「大好きだよ」とか、なにか愛に対しての言葉をみんな使っていて。それは、愛情をすごく求めていて、見てもらいたい、抱きしめてもらいたい、ということだと感じたんです。小さなころの自分も、そうだったから、もちろん環境は全然違うんですけど、軌道修正できるんであれば、早い段階から手を差し伸べていかなければいけないなと強く思いました。

■なぜ紛争地に行くのか?

――なぜ中東をはじめとした世界各地に出かけていくのかにも、話は広がった。
安田さん)紛争地だからお邪魔していると言うよりも、縁がある場所だから伺っているという感覚なんです。大学生の時にボランティアをしていたあしなが育英会が2007年に、世界でいろんな形で親御さんを失った子どもたちを日本に招いてキャンプをやろうという企画をしてくれたんです。そのときに仲良くなったのが、私よりもちょっと年下の、イラク北部のモスルから来た男の子だったんです。で、彼はまた会おうねという約束をしてモスルに帰っていったんです。
ですが、2007年というのは、イラク戦争後の混乱を引きずって、モスルが非常に治安が悪化した年でした。彼はモスルにいることができないので、当時は非常に治安で安定していたシリアに逃れたんです。シリアの南に位置しているダマスカスという街、みなさんも地図で確認できると思うんですが、当時の様子をちょっとだけ。カシオン山から一望したのが、こちらです。
――安田さん会場に映した写真は、白壁の家々が夕日に照らされる絶景。来場者からは「ほーっ」とため息がもれた。

夕方、オレンジ色の光が石壁をぽーっと照らし出していく雰囲気は本当にこう、何回見ても絶景で、ダマスカスに逃れた彼、仮名でアリ君としましょうか、アリ君と何回もピクニックに訪れました。で、夜になっていくと、こう。六本木ヒルズ49階からの風景に私は負けてないと思っているんです。緑色の光がぽつぽつ点在しているのが、イスラームの方々が祈りを捧げる「モスク」からの光です。あの光自体が、平和の象徴だとアリは語ってくれました。
でも2011年から、シリアは徐々に徐々に戦禍に飲み込まれ、アリ君は、シリアにいられないからと言って、モスルに戻ります。ところが2014年6月に、モスルがIS、いわゆるイスラム国によって征圧されて。彼はモスルにいられなくて、アルビルに逃れました。だから、紛争地に行きたいというよりも「あなたと私」という関係性の中での「あなたの抱えている問題を知りたい」「あなたに会いたい」というのが、私のきっかけだったなと思います。

■日本から、できること

――日本から見れば、どうしても遠くに感じてしまう中東の話。だが、安田さんは「日本からもできることがある」と言った。語り出したのは、2011年の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた被災地の話。岩手県陸前高田市の海岸に一本だけ残り、「奇跡の一本松」と呼ばれた松の写真を会場に映し出した。
安田さん)ここには、高田松原という日本百景のひとつがあったんですが、7万本あった松のうち、1本だけが残りました。岩手県の陸前高田市というところです。私の夫の両親、義理の父、義理の母が住んでいたのがこの陸前高田でした。
義理の父は、病院の4階で胸まで水につかったのですが、このときはなんとか無事でした。しかし1カ月後、川の上流9キロ地点のがれきの下から、義理の母の身体が見つかりました。家族として思うことはありましたが、最後まで誰かのために生きた母の命が、この街のなかにあるんであれば、その命はこの街の中でつないでいきたいということで、8年半以上にわたってずっと通わせていただいています。シリアで内戦がはじまったのは2011年3月。東日本大震災が2011年3月。ほとんど時を同じくしています。

私が8年近くお世話になってきた仮設住宅があります。米崎小学校という小学校の校庭の仮設住宅で、いろんな世代の60世帯から始まっている比較的大きな仮設住宅だったんです。あるとき集会室で、交流をしていたときにおじゃまをして、シリアのお話をぽろっとしたことがあったんです。
シリアは緯度が高く、高地も多いので、冬になるとがくんと気温が下がって、雪に見舞われることもあります。そんなことをその場に集まった方々にお話をしました。難民となって隣の国で生活している子どもたちも大変なんですよって。現にその年は大寒波だったので、隣国でプレハブやテントで生活しているなかで凍死したり、重い疾患になったりした子どもたちが相次いだんです。
そうしたらそこにいた方々が「私たちにもできることがある」って。子どもたち、孫たちが大きくなって使わなくなった服を、シリアの子どもたちが無事に冬越えできますようにって集めてくださったことがありました。段ボール10箱分ぐらいかな。
この服集めの中心になってくれたのが、自治会長さんとそのご家族です。8年半たっても、まだ仮設住宅で生活されています。それでもおっしゃってくれたのは「世界中からの支援でここまで歩んでこれたから、今回は『恩返し』ではなくて『恩送り』をしたい」ということなんです。「恩送り」って、私もはじめて聞きました。

みなさんの中にも、今回の台風19号で被災されたかたもいらっしゃるかもしれません。その厳しさと向き合いつつ、でもやっぱり、この厳しさを知っているからこそ、これが人の手で起こされたらどうだっただろう、戦争で同じ苦しみが与えられたら、どれだけ苦しかったろうと考えられる。私たちには想像力というとても尊い力が備わっているんだということを、私は陸前高田のご家族から教えていただいたなって思っています。
みなさんにも国境を越え、国籍を越えて思いをはせる力がそれぞれに備わっていると思います。だから、それぞれができる役割、小さくてもその役割に優劣はないので、その役割をどう持ち寄っていけるのかということが、いま私たちに問われているのかなと思います。

イベント当日の10月21日は、サヘルさんの誕生日。サヘルさんの名前の「ローズ」にちなんで、アフリカ産のバラを輸入・販売するアフリカローズの萩生田愛・最高経営責任者(CEO)が登壇し、サヘルさん、安田さんにアフリカ産のバラを手渡した。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_5c1a300426f3_床はピカピカ パンツも洗濯 フィリピン人シッターとの二人三脚  5c1a300426f3

床はピカピカ パンツも洗濯 フィリピン人シッターとの二人三脚 

2019年11月7日 11:00 朝日新聞GLOBE+

1歳3カ月差の年子を育てるアラフォーママ(4月に新聞記者に復帰)です。育休中、1歳半の長男(シンシン)と3カ月の次男(ルールー)を連れて敢行した親子留学の体験をあるがままに綴っています。フィリピン・セブ島で唯一の親子留学専門学校に入学した私が留学生活で一番幸せだったことは「あらゆる家事から解放された」ことでした。まずは、私の1日のスケジュールをご紹介してみます。
■これまでのお話はこちら

■授業の合間に授乳も

6:30~7:00
起床。ルールーに授乳、シンシンにはパンやヨーグルト、ゆで卵で朝ご飯。
7:45~7:50
家政婦兼シッターのJosefa(ジョセ)さんが部屋に来る。2人をシャワーに入れたり、オムツを替えたり、台所のシンクに入れっぱなしの洗い物を洗ったり。
8:40
4人でそろって登校。部屋から徒歩約6~7分の親子留学専門学校kredo kids(クレドキッズ)へ。
9:00
私の授業開始(1コマ50分授業を午前4コマ、午後2コマ)。シンシンも、同じフロアにある赤ちゃんクラスでレッスン開始。保護者同伴(2歳以下に限り)のため、ジョセさんもルールーを抱いてシンシンのクラスへ。この間2人のオムツ交換はジョセさんが担当。
10:50
ルールー授乳タイム。学校内には授乳室とオムツ室が完備してある。たまに、他のママ友とかぶり一緒に授乳なんてことも。
11:00
シンシンのレッスン終了。2人は先にジョセさんと帰宅。ここからジョセさんは本格的な家事タイム。お昼と夕飯の準備に加え、掃除、洗濯、ベッドメーキング、2人のお昼寝、必要に応じてルールーのミルクなど。
13:00
私の午前中の授業が終了。ルールーの授乳のために一度帰宅。ジョセさんが用意してくれたお昼ごはんを食べる。たまにママメートと外でランチということも。

14:00
私の午後の授業スタート。 その間 お昼寝から目覚めたシンシンとルールーは午後、部屋で過ごす。音楽を聴いたり英語のDVDを見たり。(乳幼児2人連れの移動が大変なため、散歩や買い物はあえて頼まなかったが、お願いすれば行ってもらうことも可能だ)
16:00
私の授業終了。部屋に直帰することもあれば、道路を挟んで隣にあるショッピングモール内のスーパーで買い物をすることも。授乳。
16:30
ジョセさんがシンシン、ルールーのシャワーをしてくれる。
17:00
ジョセさん帰宅。ジョセさんが作ってくれた夕飯を頂く。食べ終わったお皿は軽く水で流すだけで、基本はシンクに入れっぱなしに。
19:00
ご飯が終わった後は、子どもたちと歌を歌ったり、Youtubeを見たり。ママ友&キッズを部屋に呼びみんなで遊ぶことも。
21:00
授乳&寝かしつけ
22:00
起き上がれれば、宿題をやったり翌日の予習をやったり。(たいていはそのまま寝落ちして朝を迎える)
 
…ああ、改めて書き出してみると、なんて夢みたいな生活だったんだろう。

学校に通い、英語を学び、「やりたいことをやっていた」という充実感もさながら、とにかく家事をまったくしなくて良いというのは、至福の喜びだった。
私は今も昔も家事が苦手だ。掃除は四角いところを丸くはくし、見えない汚れはなかったことにする。洗濯は、洗剤を入れて洗濯機を回せばあとはお任せ主義で、子ども服の落ちない汚れは「遊びの勲章」と割り切って放置。料理は、それが得意な夫が担当していた。
ジョセさんの洗濯はプロ級だった。聞くと以前クリーニング店で働いた経験があるそうだ。つけ置きや手洗いで、子ども服にこびりついた汚れも落としてくれた。我が家の坊主2人が消費する1日4~5着の洗濯物から、大人の私のTシャツやズボンまで、私が学校から帰ると、洗って干して、きれいにたたんでクローゼットにしまわれていた。これまで「どうせ使うんだから」と、洗濯物はたたまずに分類だけしてそれぞれのボックスに放り込んでいた私は、もう感動しかなかった。
最初のうちこそ
「自分のパンツは自分で洗います」
と言っていた私だが、ジョセさんが
「It’s my job!」
と笑顔で言ってくれるので、そのうち私の服も上から下までぜーんぶお願いすることになった。
掃除もとても丁寧だった。フィリピンの人は掃除機を使わないらしい。ほうきとちりとり、雑巾がけという古き良きスタイルで、部屋の隅々までピッカピカにしてくれる。ベッドやソファもその都度移動して、下にホコリがたまらないよう心がけてくれていた。

セブ留学を始めてから1週間ほど経ったある日。学校から帰ると、部屋のレイアウトが変わっていた。聞くと、2人の子どもたちが転んで頭を打たないよう、角のある背の低いタンスを部屋の隅っこに移動したという。
 「ベッドも高いから、2人が落ちないか心配なんですよね」
私がそう言うと、ジョセさんは、ベッドのフレームからマットレスだけを外して床に置いたらどうか、なんて提案もしてくれた。大がかりな作業になるだろうな、と思っていたら、翌日、私が学校に行っている間に1人でその作業を終わらせていた。フレームは壁に立てかけるようにし、脚部分には余ったシーツやタオルを巻いたりして、突起物が子どもたちに当たってケガをしないような工夫も考えてくれた。

 家事もさながら、ベビーシッターとしてもジョセさんは申し分のない人だった。
当時まだ生後3カ月ほどのルールーについては、poo(ウンチ)を何回したとか、どんな色だったか、カエルが出てくるDVDを見てケラケラ笑っていた、などと教えてくれた。
1歳半のシンシンについては
「ABCソング(キラキラ星のメロディー)を流してみたら、ドドソソララソ~の音程に合わせて首を振りながら歌っていましたよ」といったふうに細かく教えてくれ、時には目の前で披露してくれた。「ほうきで床を掃いていると、ちりとりを持ってきて私のあとを付いてまわるんですよ」と聞いたときは、我が子の成長が感じられ、涙が出るほど嬉しかった。学校から帰ったあと、その日に2人の子どもたちがどんな様子だったかを聞くのは一日で一番楽しい時間の一つだった。
それまで一時保育以外、保育園というものに預けた経験がなかった私にとって、家族以外で自分の子の成長を客観的に教えてくれる最初のひとが、ジョセさんだったのだ。
 ***ルールーの授乳があるため、私は、午前中の授業が終わると一目散に部屋へと帰っていました。でも時々、ママメートと一緒に外にご飯を食べにいくこともありました。地元の人が行くようなローカルフードにもよく行きました。

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お金の起源、物々交換ではなかった? 新説を生んだ「動かせないお金」

2019年11月7日 07:00 朝日新聞GLOBE+

だれもが日常生活で当たり前のように使用しているお金だが、その起源はどこにあるのだろうか。お金の歴史を調べてみた。(山本大輔)

物々交換は、通貨ができるずっと前の時代、人類の経済活動の出発点だったとされてきた。次第に多くの人が共通の価値を感じる貝や石などが、ほしい物との交換で使われ始める。物品貨幣だ。そして金貨や銀貨が誕生した。

ところが最近、貨幣の起源は「記帳」だったとする説が注目を集めている。2013年に英国で出版された英経済学者フェリックス・マーティンの著書「21世紀の貨幣論」でも紹介された。例えば、ミクロネシア・ヤップ島で見つかった石のお金「フェイ」。直径が最大で4メートル弱の世界最大のお金で、運べないため取引は記録され、その内容がフェイの所有権の根拠になった。こうした仕組みが発展し、現在の貨幣制度につながったという。

一方、世界最古の鋳造貨幣は、紀元前7世紀に古代リディア王国(現在のトルコの一部)で造られたエレクトロン貨。金と銀の自然合金が使われた。

最古の紙幣は、10世紀の中国(北宋時代)でつくられた交子。世界で2番目につくられた紙幣は、1600年ごろに三重県伊勢山田地方の商人たちが釣り銭として発行した日本の山田羽書だとされている。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_4d378369bab5_IT後発国だからできるデジタル通貨 カンボジアの金融政策責任者が語った 4d378369bab5

IT後発国だからできるデジタル通貨 カンボジアの金融政策責任者が語った

2019年11月7日 07:00 朝日新聞GLOBE+

カンボジア国立銀行(NBC)チア・セレイ統括局長インタビュー

この40年間で物々交換からフィンテックへと一気に通貨の歴史を経験したカンボジア。今も米ドルと現地通貨リエルが流通し、事実上の二重通貨制となっている。こんな状況で、難しい金融政策のかじとりを任されたのが、中央銀行のカンボジア国立銀行(NBC)チア・セレイ統括局長だ。プノンペンで単独インタビューに応じ、IT時代の金融政策の展望を語った。(聞き手・山本大輔)
【合わせて読む】40年前まで物々交換のカンボジア、キャッシュレスに踏み出した事情

■刻み込まれた「米ドル」への意識、変えるには

主権国家にとって、自国通貨は国のアイデンティティーであり、国民のプライドでもある。ところがカンボジアには激動の歴史があり、そこからの移行プロセスの中で、自国通貨のリエルよりも米ドルが使われるようになった。ドル化された他国の例をみると、通常は、その国の経済状態が著しく悪化し、高いインフレ率や現地通貨への不信感などが原因で、世界の基軸通貨である米ドルを使い始める。
カンボジアはこの10年間、インフレ率も低く、リエルの為替相場も安定している。経済成長率は7%前後を維持し、向こう数年間も同程度の成長が見込まれている。それなのに国民はなぜドルを使い続けるのか謎だった。その答えは、国際協力機構(JICA)や日本政府の協力で実施した調査で判明した。国民の多くが自国通貨があることを誇りに思うと答えた一方、米ドル利用からのシフトにつながっていないのは、長い間刻み込まれた生活習慣と意識が原因だった。
「350万リエルで何が買えますか」と尋ねると、国民はどれくらいの額なのかを把握するのに少し時間がかかる。それが「350万ドル」と言うと、瞬時に理解する。これがいまだに国民の意識だ。リエルの信頼や安定性、強さの問題が原因ならば、そこを改善すればいい。これが意識や習慣、国民心理の問題となると、変えるのはとても難しい。政府が強制的にリエルを使えと言っても、いい影響は出ないだろう。脱ドルを迫るより、むしろリエルの日常的な利用促進を国民に呼びかけていくしかないと考えている。国民が自主的に自国通貨を採用するようになることが重要だ。

海外の投資家の信頼が厚い米ドルは、国の復興にあたり、非常に大きな役割を果たしてくれたのは間違いない。しかし、復興期はすでに終わった。例えるならば、生まれたばかりの赤ん坊は、栄養の高い特別なミルクが必要だが、成長するにつれて離乳し、その家庭の料理を食べるようになる。今のカンボジアは、激動の歴史を経て難産で新たに生まれた。そして今、成長期にある。米ドルを離れ、自国通貨に進んでいくべき時期にあたる。
国民のライフスタイルが米ドルでつくられてきたのと同時に、ビジネスも米ドル基盤。なぜ変える必要があるのかと言う人もいる。ただ、気づいてほしい。金融政策はその国独自のものでないとならない。経済成長が続く中、中央銀行が国民のためにできることは増えているのに、私たちが刷るお金を使ってくれなければ、それすらもできない。問題が起きた時に責任をもって国民を助けられるよう、私たちのお金を使ってほしい。米ドルへの執着は長期的視点で見ると、決して国のためにはならないということを理解してもらえるよう、啓発活動を続けている。まずは、物価をリエルで感覚的に瞬時に理解できるよう、リエルの値段表示を増やしたり、公務員給料をリエルだてにしたりして、意識の改善を図っていく。時間がかかることは間違いないが、少しずつ国民意識が変わってきているのを感じている。
デジタル時代に入り、社会は不透明さを増した。数年前、カンボジア政府がエンタペイという仮想通貨を承認したというフェイクニュースがネットを中心に流れたことがある。国内ではこうした詐欺まがいの仮想通貨情報があふれている。だからこそ、カンボジア政府は仮想通貨による取引を一切禁止した。NBCは国民に対して仮想通貨情報には慎重になるよう注意喚起を続けているし、こうした取引がないように監視も強化している。それでも全ては監視できない。誰が背後にいるのか分からないような匿名性の中での取引は、中央銀行にとって大きな問題だ。

■カンボジアだから見える「リブラの問題」

そうした中で、フェイスブックによるリブラ構想が出てきた。まだ、全体像が完全に明らかになっていないため、情報収集を続けているが、フェイスブックが世界の中央銀行になり、リブラを国際通貨として新たな取引を始めようとしているようにも見える。それは現実的ではない。自国通貨と同時に別の通貨が日常的に決済に使われると、その国が独自の金融政策を維持するのに様々な困難を伴う。これは米ドルとリエルの二重通貨状態となっているカンボジアだからこそ、自信を持って主張できる。
一方で、カンボジアは全てのデジタル通貨を否定しているわけではない。新たな技術が国益となり、中央銀行など責任ある金融機関とともに安全に運用できる技術なら歓迎したい。NBCは、日本のフィンテック企業「ソラミツ」とともに開発したデジタル通貨「バコン」を使ったブロックチェーン技術による決済システムの運用を今年、始めた。多くの主要国の中央銀行は、日本銀行も含め、ブロックチェーン技術を使った決済システムの研究を行っているが、中央銀行として実際に導入したのはカンボジアが世界で初めてになると思う。

カンボジアのような小さな国がブロックチェーン技術を活用できるのか、問題が起きたときに対応がきるのかなどの疑問の声が多くあがった。私の答えはこうだ。日本を始めとする先進国は、すでにある現行のシステムが非常によく機能しており、新しい技術の研究は進めても、それを安易に採用することで、現行のシステムの運用に支障をきたす危険性を考える。だから、かじを切れない。うまくいっているとは言えないカンボジアだからこそ挑戦できる。新たな行動を必要としているときに、新しい技術があったから導入した。成功すれば、全てが効率的になる。失敗したら? 元に戻るだけだから。

新たな技術については開発国が有利な立場にあるとされる。カンボジアは後発国だが、だからこそ、先進国で浮上した様々な弱点や問題点に注意しつつ、今ある最新技術の利点を生かした仕組みを採用することができるとも言える。銀行口座保有率が20~30%しかないカンボジアで、携帯電話の普及率は150%。これを利用しない手はない。NBCを主な管理者とするブロックチェーン技術を使えば、国家規模の電子決済システムで国民全体をつなげることができる。システム下にある銀行のeウォレットに登録すれば、自動的に銀行口座を開設する仕組みにもなっている。システムにはほとんどの銀行が参加するため、広範囲な取引に対する中央銀行の監視・監督の強化にもつながる。
第4次産業革命といわれる時代において、技術の進歩は著しい。カンボジアの国益となるような技術を提供してくれる日本のフィンテック企業があれば、いつでも歓迎したい。ただ、技術のための技術は必要としていない。カンボジア国民のためになる技術なのか、具体性のある提案を多くの日本企業と議論できることを心待ちにしている。
Chea Serey 中央銀行にあたるカンボジア国立銀行(NBC)のチア・チャント総裁の娘で、NBCにある各局を束ねる統括局長。英国や豪州で教育を受け、流暢な英語を操る国際人。才色兼備として人気も高く、NBCの顔として世界的に知られている。

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cat_oa-rp88508_issue_ef31b845f66a oa-rp88508_0_4ed57923165c_40年前まで物々交換のカンボジア、キャッシュレスに踏み出した事情 4ed57923165c

40年前まで物々交換のカンボジア、キャッシュレスに踏み出した事情

2019年11月7日 07:00 朝日新聞GLOBE+

世界で鋳造貨幣が初めて登場したのは紀元前7世紀。そこから人類は長い年月をかけて通貨制度をつくってきた。この通貨の歴史を、40年間で一気に経験した極めてまれな国がある。カンボジアだ。(山本大輔=写真も、文中敬称略)
30階以上の高層ビルが乱立し、新たな建設工事があちこちで進んでいた。多くが中国を始めとする外国資本の高層マンションだ。首都プノンペン。巨大なショッピングモールも各所で目立つ。スターバックスコーヒーに入ると、メニューの値段は全て米ドル表示だった。注文をして5ドル札を差し出すと、店員は細かいおつりを現地通貨リエルで返してきた。開いたレジ機の中には米ドル札が束ねられており、その周りにリエル札が煩雑に置かれていた。

プノンペンを最後に訪れたのは2009年。低層の古めかしい住宅や商店しかなかった首都に、初めて32階建ての高層タワーが建った時だった。久々に見たプノンペンはまるで別の都市のように変貌していた。この10年でカンボジアは急激な発展を遂げた。7%前後の経済成長を続け、インフレも安定している。こんな姿からは想像しがたいが、実はカンボジアでは、わずか40年余り前には物々交換が行われており、通貨が存在していなかった。
【合わせて読む】お金の歴史を、かんたんにおさらいしてみました。
お金の起源、物々交換ではなかった? 新説を生んだ「動かせないお金」

きっかけは1975年、「暗黒の時代」と言われるポル・ポト政権の誕生だ。約170万人もの大虐殺で知られる同政権は、極端な原始共産主義を掲げた。「資本主義の象徴だ」として、通貨リエルを含む全貨幣の使用を禁止し、銀行の建物も破壊した。人々の生活は、「原始の時代」のような物々交換に戻った。「コメがほしいならタバコと交換します」「野菜があるので魚と交換しませんか」。国民は持っているものを交換しあうことで、この時代を生き延びようとした。当時、日本に逃れていた経済学者のメイ・カリヤン(66)は、人づてにそう聞いたという。まさに通貨の歴史が振り出しに戻ってしまった瞬間だった。

79年に同政権が崩壊し、内戦が勃発。リエルは復活したが、内戦下の混乱で知らない国民が多かった。代わりに使われたのは金(ゴールド)だったが、誰もが持てるはずもなく、物々交換は続いた。国境地域では、利便性から隣国のタイのバーツやラオスのキープ、ベトナムのドンが使われた。91年に内戦が終わると、民主的な選挙に向けた国連による暫定統治が始まる。「突然3万人がやってきた。米ドルの使用が急速に広まった」とメイ。それから約30年、復興期から成長期へと順調に移行したカンボジアだが、今も国民生活では主に米ドルが多用されており、現地通貨との事実上の二重貨幣制となっている。

国家最高経済評議会の相談役としてカンボジア政府の経済や金融政策に携わってきたメイだが、「リエルの流通量は現金の中で2割未満」だと苦笑する。大虐殺や内戦の影響で高齢者が少なく、30歳未満が全体の半数以上を占めるため、同国の平均年齢は24歳(2017年統計)と若い。「多くの国民が生まれた時には、米ドルの使用が当たり前になっていた。国にとって現地通貨は象徴だが、無理に脱米ドルを図ると、国民生活にも国の経済にも多大な悪影響を及ぼすほど浸透している」とメイ。「そのため、政府が米ドルの使用を禁止し、リエルの使用を強制するのは難しい」と強調した。

国民はどう思っているのだろうか。夜の買い物客でにぎわう伝統的な市場を訪れた。果物や野菜、調理された食べ物などを売る屋台が軒を連ねる市場での支払いは、やはり米ドルが目立った。ただ、リエルを使う買い物客もかなりいた。3ドルを払って、リエルでおつりを受け取った30代女性は「ほとんどの値段が米ドル表示なので、米ドルを使っているだけ。リエルも持っているのは、光熱費などの支払いに必要だから」。別の30代男性は「多くの人が米ドルで物価を考える習慣がある。ただ、それがリエルでいくらなのかも分かるので、社会全体がリエル使用となるなら、それでも全く構わない」。
中央銀行のカンボジア国立銀行(NBC)統括局長チア・セレイが説明する。
「通常は国の経済や現地通貨への信頼がないからドル化が進むが、カンボジアは例外だ。国民への調査では自国通貨が誇りだと答える人が多いのに、歴史的な経緯によりドル使用の習慣から抜け出せないでいる」
ただ、市場の買い物に不便はなくても、米ドルが流通したままでは、政府や中央銀行は財政や金融で有効な政策を打ち出せない。マネーロンダリングなどの規制や監視も強めるのも難しい。だからこそ、チアは強調する。
「経済成長が続く中、中央銀行が国民のためにできることは増えている。ただ、私たちが刷るお金を使ってくれなければ、それすらもできない。問題が起きた時に責任をもって国民を助けられるよう、私たちのお金を使ってほしい」

公務員の給料払いや国民の光熱費の支払いをリエルに限定したり、商業施設での値段表記をリエルにするよう促したりして、まずは国民の意識の変化を図ろうとしている。一方で、急激な脱ドル政策は自国経済にとって危険だという認識もNBCにはあり、「時間をかけて、緩やかにリエルへのシフトをしていくしかない」(チア)という状況だ。
それでもNBCは将来のキャッシュレス社会を念頭に野心的な取り組みを始めた。デジタル通貨「バコン」を使ったブロックチェーン技術による決済システムの開始だ。多くの仮想通貨と違い、NBCが発行、取引も監視する。NBCによると、同国の銀行口座の保有率は3割以下だが、携帯電話普及率は150%。スマホなどでの送金や決済は当たり前になっていることもあり、リエルより普及しやすいと期待。「中央銀行がブロックチェーン技術を使ってデジタル通貨を発行するのは世界で初めて」としている。

もっとも過度な期待は感じられない。「先進国はうまく機能している現行システムから新技術になかなかかじを切れない。うまくいっているとは言えないカンボジアだから挑戦できる。失敗したら元に戻るだけ」。チアは冷静な表情でそう語った。
【合わせて読む】カンボジアだから見える「リブラの問題」米ドルとリエル、二重通貨を背負うカンボジアだから見える「リブラ」の問題がある。カンボジアの金融政策責任者であるチア・セレイ氏はそう言います。
IT後発国だからできるデジタル通貨 カンボジアの金融政策責任者が語った

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