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【ウクライナの女たち③】幸せは自分の手でつかむ 翻弄されてたどり着いた思い

2020年6月21日 12:00 朝日新聞GLOBE+

彼女たちの「あれから」をたどる旅

2014年春、ウクライナという東欧の国が突如、世界の注目を浴びた。隣の大国ロシアとの関係をめぐって紛争に陥った「ウクライナ危機」。初めての紛争地取材に赴いた当時34歳の私を支えてくれたのは、時代に翻弄されながらも、たくましく生きるウクライナの女性たちだった。6年ぶりに彼女たちを訪ね歩いて、私はひとつの答えにたどり着いた。(渡辺志帆、文中敬称略)

【エレナ・タカチ】「王子様はもう待たない」

炎天下の草むらに、強烈な腐臭が漂っていた。重機で掘り起こされた土の中から、白いビニールでくるまれた遺体が次々に出てくる。14年7月、ウクライナ東部スラビャンスク。英語通訳として現場で共に取材したエレナ・タカチを思い出すとき、あの凄惨(せいさん)な光景とともに、香水の甘く、さわやかな香りが鼻腔によみがえる。
当時「親ロシア派」の重要拠点として3カ月にわたり占拠されたスラビャンスクは、激しい戦闘の末に政府軍によって解放された。私たちは、親ロシア派武装勢力が共同墓地の一角に遺棄したとされる遺体を、政府が掘り返す様子を取材した。トラックで運び出された遺体は14体。吐き気をもよおす異臭が衣服について消えない。疲れ果て、車で3時間はかかる宿までの道のりを思うと、ため息が出た。運転手の男性も無言だ。

エレナがおもむろにハンドバッグから小指の先ほどの瓶を取り出し、ひとさし指に一振りして鼻の下にこすりつけた。「これでちょっとは楽になるから」。香水だった。みんな同じように鼻の下につける。重苦しい空気が緩んだ。
エレナは当時、27歳。ウクライナ人男性との結婚を1カ月後に控えていた。「お金持ちの外国人と結婚して外国で暮らすのが夢だったのに、恋に落ちちゃった」と話す彼女は、同じ通訳でも、自らキャリアを積もうと留学を目指すエリーナたちに比べ、「守ってくれる男性を見つけて、尽くすことこそ幸せ」という古風なところがあった。それだけに、目に涙をためながら取材の通訳をやりきるなど、垣間見えた芯の強さが心に残った。

2度の結婚と離婚で見えたもの

あれから6年、エレナ(33)が再会の場に指定したのは、キエフ郊外。林立する高層マンションのはざまで迷子になった私を、シトロエンのコンパクトカーで迎えに来たエレナは、昔よりさらにやせたようだ。会うなり、彼女は「2度目の離婚をしたところよ」とニカッと笑った。引っ越したばかりという24階建てマンションの22階の部屋に私を招き入れると、彼女の6年間を語り始めた。

最初の結婚は、1年で終わった。ある晩、酒に酔って帰宅した夫と口論になり、全身を殴られた。浴室へ逃げ込み、寝間着のままタクシーに飛び乗って実家へ逃げた。テレビ局の音響ディレクターだった夫は失職してから、働くのを嫌がるように。エレナは英語講師の傍ら、キエフで小さな旅行会社を切り盛りしていたが、紛争後の経済危機で通貨フリブナが暴落して客足が途絶え、店を畳んだ。
出会い系サイトで知り合い、離婚の翌年に再婚した2人目の夫は、不動産業を営む裕福なビジネスマンだった。エレナは夫の望み通り、仕事をやめて主婦に。2カ月に1度は2人でエジプトやモルディブへ旅に出る生活が続いたが、長引く不況がまたしても影を落とす。
夫の事業が傾くと、けんかが増えた。「最初の離婚は夫を愛していない自分に気づけて、心底晴れやかだった」。でも、2人目の夫は「一生連れ添いたいと思った人」。酒をあおって泣いた。
結婚と離婚を繰り返した6年、祖国の情勢は膠着していく。ウクライナ危機の当初、エレナは「祖国が沈没船になる」と恐ろしく、政治刷新を叫ぶデモ隊に薬や食料を差し入れていたが、経済危機が進むにつれ、「気力を失った」。今はもう政治に関心がない。
ガラス張りのテラスから沈みゆく夕日が見える新居は、広さ46平方メートル、家賃は月9500フリブナ(約3万8000円)。「地下鉄の駅から3キロ離れているから、築浅でも安い」と言うけれど、貯金を切り崩してまで、ここに暮らすのは「高い場所に住んで、自分の気持ちを引き上げたいから」だ。

1万6000人に「恋愛指南」

今、この部屋からインターネットを使ってさまざまな仕事を手がけている。英語を教えたり、自己啓発のカウンセリングを施したり。豊富な交際経験をネタに恋愛術を指南するインスタグラマーでもある。警察官の父(56)に「ちゃんと働け」と叱られるが、「会社勤めしか仕事と認められない、古い頭の人」と気にとめる風もない。

あでやかなメイクを自ら施し、ワイングラスや電子たばこを手に1万6000人いるフォロワーにデート術を説く姿は、6年前からは想像もつかない。「アカウントの宣伝のために有名ブロガーに多額の広告費を払ったのに成果が出ない」。そう眉をつり上げる彼女を見ていると、果たして生計が立ちゆくのか、私だって心配にはなる。
それでも、今のエレナからは、たくましさと自由を感じる。「あの頃は自分が何者なのか分からなかった。誰かに幸せにしてもらおうと依存していた。自分を肯定して信じることができれば、何でもできる。王子様を待つのはもうやめた。外国に住みたければ、自力で行くし、たぶん、どこでも生きていける」

【アリョーナ・キンドラト】人々の幸せと、国と

もう一人、忘れてはならない女性がいる。今回の旅の通訳、アリョーナ・キンドラト(30)とも6年前からのつきあいだ。東部紛争の取材のさなかに「シホ、わたし妊娠したみたい」と告白された時には仰天したけれど、周囲のちゅうちょも不安も飛び越え、アリョーナは輝ける母になっていた。あのとき、おなかにいた長女ディナは5歳。夫パーシャ(35)はIT企業に勤め、アリョーナ自身は通訳や撮影コーディネートの会社を立ち上げ、若い世代の人材を育てつつ働いている。

名門キエフ大学を卒業した彼女は、米国や日本にも留学経験のある才媛だ。研究者を目指したが、博士課程に進むための教官への「賄賂」を払えなかったために断念したという。6年前、さかんに口にしていた社会変革や政治刷新への期待はしぼんだ。汚職や賄賂は相変わらずウクライナ社会にはびこり、貧富の格差は広がっている。「公正なチャンスと成功が望める外国で豊かな暮らしを手にしてほしい」と、英語教育に熱心な幼稚園にディナを通わせる気持ちも分かる。一方で、マイダン革命をきっかけに、自分をウクライナ人だと強く意識するようにもなったという。「起業したのはお金のためだけじゃなくて、若い人材を育成して同胞の助けになりたいから」という言葉も本当だろう。

異国の「同志」に、自分を重ねて

【メモ】欧州の「パンかご」から最貧国に豊かな黒土地帯が「欧州のパンかご」と呼ばれてきたウクライナは、石炭など地下資源にも恵まれて、ソ連時代は鉄鋼や造船、軍需産業など重要産業の拠点として栄えてきた。それが、1991年の独立後は内政や経済の混乱が続き、「ウクライナ危機」後は、統計上は欧州最貧国の一つになっている。国民の毎月の平均賃金は2019年現在、日本円で約4万円で、隣国ポーランドのおおむね3分の1だ。
低い賃金水準をいかしたIT産業が好調な一方で、高いインフレ率や光熱費の高騰で国民生活は苦しい。「オリガルヒ」と呼ばれる大富豪が政治や基幹産業への影響力を保ち、国内総生産(GDP)の半分近くが規制や課税を逃れた「闇経済」だとの調査もある。

エリーナ、アントニダ、エレナ、そして、アリョーナ。それぞれが、祖国の混沌(こんとん)とした情勢に翻弄(ほんろう)されながらも、自分と家族の幸せを思い描き、たくましく歩んでいた。旅の間、私はずっと考えていた。彼女たちに再び会いたくなったのは、なぜだろう、と。
裕福な家庭の出身でもなく、こつこつと努力して英語や専門知識を身につけ、キャリアを築いた現代ウクライナを象徴する女性たち。その姿を、四国から上京し、新聞社でがむしゃらに働いて子どもの頃からの夢だった特派員を目指したかつての自分に重ねたから、かもしれない。育った国や境遇は違うけれど、同じ今を生きる女性として、前へと進む「同志」の姿を確かめたかったのだと思う。
私にも、この6年で変化があった。2年半前にロンドンで双子の娘を産み、昨春、記者に復帰した。健やかな娘たちの成長を見ていると、紛争や暴力に平穏な暮らしを脅かされるアントニダの恐怖や、子どもには公正な社会で望むように生きてほしいと未来を案ずるアリョーナの気持ちが、以前よりも実感を伴って分かる。

「幸せ」に手を伸ばす人々の背中を押してくれるはずの国。そのあり方が揺らいでも、再会した女性たちのように、くじけず「幸せ」を探し続け、力を合わせるからこそ、その先には国の平和と安定が生まれる。だからこそ、彼女たちの歩みの先に、よりよいウクライナの姿があってほしいと切に願う。(つづく)

【次の記事】2014年の「マイダン革命」を初めとする「ウクライナ危機」は、ウクライナの女性たちをめぐる状況をどう変えたのでしょうか。キエフの活動家に聞ききました。
【ウクライナの女たち④】セクシズムと家父長制の国で、ジェンダーギャップを埋める

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映画『その手に触れるまで』から考える コロナが浮かび上がらせた握手の意味

2020年6月21日 08:00 朝日新聞GLOBE+

握手を拒むなら出て行け、公の場で顔を覆い隠すな――。イスラム教徒の人たちにそんな言葉をぶつけてきた人たちは今、新型コロナウイルス禍でいわば逆転した状況を、どう受け止めているのだろうか。公開が始まったベルギー・フランス映画『その手に触れるまで』(原題: Le Jeune Ahmed/英題: Young Ahmed)(2019年)は、イスラム過激派の思想に染まった少年が「手を触れる」かどうかをカギにした物語。ゆきすぎた排除は何をもたらすのか。カンヌ国際映画祭常連のダルデンヌ兄弟監督に、Zoomでインタビューした。(藤えりか)

『その手に触れるまで』で描くのはベルギーの13歳の少年アメッド(イディル・ベン・アディ、14)。ゲームが好きな少年だったが、過激なイマーム(導師)に感化され、学校の恩師イネス先生(ミリエム・アケディウ、41)とのあいさつの握手も「異性の手に触れてはならぬ」とかたくなに拒むようになる。ついには、アラビア語の日常会話を歌で教えるイネス先生を「冒涜的な背教者だ」と教え込まれ、排除すべきだと信じ込み、靴下にナイフを忍ばせる。

弟のリュック・ダルデンヌ監督(66)はブリュッセルからZoomの画面越しに「フランスやベルギー、そして他の国々でもテロが連続して起きたのがこの映画を撮る後押しとなった」としたうえで、語った。
「そうして、狂信化していく人たちに一体何があったんだろうかと考えた。これまでにも特にフランスで、なぜ若者が急進化するのか、その急進化するまでを描いた映画がたくさん作られてきたが、私たちとしては、すでに主人公が急進化していて、そこから果たして抜け出せるのかを描きたいと思った」

「少し前には、人生が好きで、友だちと遊ぶのが好きだった少年が、ある日突然、自分と違う考えを持った人を殺そうと思う。ただ汚れがあるから、不浄だからという理由だけで人を殺したいと感化・洗脳されてしまった。アメッドの頭の中には一つのことしかない。とにかく自分たちと違う不浄なもの、汚れたものは排除しなければならない。アメッドの頭の中は『純潔にとらわれた刑務所』のようになっている。そこから抜け出ることができるのか。でもこの映画のように、それはとても難しいことだ」
新型コロナ感染者や、感染源から来た人たちを非科学的に排除する、このところの傾向とも響き合う。

ベルギー東部リエージュから同時にインタビューに答えた兄のジャンピエール・ダルデンヌ監督(69)が言葉を継いだ。「ベルギーのムスリムの人たちの大半は、過激派ではなく、ベルギーの社会に同化している。ムスリムの人たちの中には、世俗性を大切にしている人たちがたくさんいることも見えてきた。ベルギーはモロッコなどマグレブからの移民が多いが、今はもう3世代目になっている。彼らにはいろんな考えの人たちがいるが、テロリストが出てきたことである意味、世俗的な考え方をするムスリムが多いこともわかってきた」
だからこそ、あるいは、にもかかわらず。イスラム教徒と「握手」をめぐっては、欧州を中心にこのところ、政治的な議論の的となってきた。

保守的な一部イスラム教徒は、配偶者以外の異性との握手を避ける。それを丸ごと拒む形で、オランダではルッテ首相が2017年、握手を拒むなら出て行けと主張する意見広告を国内の新聞各紙に掲載した。AFP通信によるとスイスのローザンヌ市当局は2018年、イスラム教徒男女が握手を拒んだのを理由に国籍取得を認めなかった。米紙ニューヨーク・タイムズによると、スウェーデンでは2016年、イスラム教徒の女性が握手を宗教上の理由で拒んだら、進んでいた企業の採用面接がストップした。代わりに胸の前で手を当てるあいさつをしたのにもかかわらず、だという。フランスではアルジェリア女性が市民権授与式で男性との握手を拒んで市民権を認められず、最高行政裁判所も追随した。
それが、ルッテ首相も今年3月にはコロナ対策で握手の自粛を呼びかけたのだから、皮肉だ。それどころか世界中で今、胸の前に手を当てるなど、握手をしない様々なあいさつが編み出されている。

欧米では確かに、握手は大切なあいさつの手段として定着してきた。私も学生時代に初めて米国に行った当初、会う人ごとに握手の連続となって、やや戸惑ったほどだ。昭和の日本に生まれ育った身には、特に初対面だと一定の距離を置いてあいさつする習慣がしみついていたことと思う。こうした日本的な「握手なし&おじぎ」だって、西洋社会だけで育った人からは「あいさつがなっていない」と映るかもしれない。
今作のアメッドは、家族や周囲にも手がつけられないほど急進化し、自分の考えに合わない一切を排除する側に回る。受け入れるぐらいなら死を選んだ方がマシだと言わんばかりの姿は、どんな立場であれ、排除がすぎると悲劇が待ち受けるという現実を突きつける。

リュック監督は言う。「人生は死より大切だ。新型コロナウイルスが蔓延する今、手を差し出すのは連帯の印でもあると思う。人を助けること、愛すること、そして助け合うことだと思う。それは全ての人類に言えることだと思う。ある意味、外の人は脅威だと思うかもしれないが、同時に助けてくれるものでもある。多くの人が脅威だと思っているだろうけれど、混じり合うことを受け入れなければならない」
ベルギーは人口が1200万人にも満たないが、「透明性」を掲げて「疑い例」も算入し続け、新型コロナの感染者数は6万人以上、死者数は9600人以上。それでもついに6月15日、国境を開き始めた。現地の報道では、映画館も7月から再開する予定だという。

それまで、それぞれの自宅にこもり続けたダルデンヌ兄弟監督は「ちょうど脚本を執筆中で、特に影響はなかった」という。だが、それでもリュック監督は「何かが私たちに欠けていた。それは人と一緒にいること、社会生活だ」と話した。
それを受けて、ジャンピエール監督は語った。「再開後も決して前とまったく同じというわけではないと思う。一部は同じものもあるかもしれないし、前と同じであってほしいと思うものもあるが、何らかの爪痕が残ると思う。カタストロフのようなことになるわけではないと思うが、世界の指導者や政治家たちは、想像上でのことかもしれないが、戦争になるといったことを言う人もいる。いずれにしても、以前と違ったものになると私は思う」

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突然荒れ狂った北朝鮮、焦りの背景は「国内経済とトランプ氏の支持下落」

2020年6月20日 17:00 朝日新聞GLOBE+

北朝鮮が16日、開城にある南北連絡事務所を爆破した。北朝鮮は同時に、韓国による特使派遣の秘密提案を暴露し、対話を拒絶した。北朝鮮軍は南北軍事境界線の近くに軍を展開し、演習を行うと予告した。北朝鮮が荒れ狂う背景はどこにあり、これからどこに向かうのだろうか。(朝日新聞編集委員・牧野愛博)
北朝鮮は公式には、韓国に住む脱北者らが5月末、風船につけて北朝鮮に送った金正恩朝鮮労働党委員長を非難するビラに反発している。だが、平壌と連絡を取る脱北者らの証言によれば、本当の理由は金正恩体制が少なからぬ危機にひんしているからだという。

国際社会の相次ぐ制裁により、北朝鮮の貿易量は急落し、公式の輸出額は最盛期の10分の1以下になっている。新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、2月末から国境を閉鎖したことも追い打ちをかけた。北朝鮮の経済状態は厳しい。
脱北者らの証言によれば、6月初め、コロナのため一時止まっていた日本海側の元山葛麻(ウォン・サン・カル・マ)海岸観光地区建設と中朝国境近くの三池淵(サム・ジ・ヨン)郡開発の両事業が再開された。元山地区の事業は10月10日の朝鮮労働党創建75周年までの完成を督促されている。元山は18万~20万人、三池淵は8万人ぐらいが参加する大事業だ。

危険で劣悪な労働環境のため、不人気だった両事業だが、工事再開後は参加希望者が増えているという。平壌と連絡を取る脱北者は「両事業は国家の肝いり。工事現場に行けば、カンネンイパプ(トウモロコシご飯)であっても、腹を満たせるからだ」と語る。
別の脱北者によれば、革命の首都と呼ばれる平壌でも、市民の食生活に悪影響が出始めている。市民は毎月、供給カードを受け取る。カードに記載された主要食料品を指定量に限って国定価格で購入できる。2月末の国境封鎖後、徐々にこのカードの指定量を購入できない市民が増えているという。

■トランプ氏再選不透明に焦りか

北朝鮮がユーチューブで「物資は豊富だ」と紹介したスーパーは「外貨商店」と呼ばれ、ごく一部の高級幹部と家族した利用しない。市場の方が質は劣っても、外貨商店の半額以下の値段で購入できるからだ。もちろん、外貨商店の品物は量も限られている。

そして市場では品不足が起きている。国が価格統制しているが、コロナウイルス問題の影響で買いだめの動きが起きているため、商人たちは市場価格では取引に応じない。当局の目の届かない場所で、法外な値段で商品を売りさばいているという。
このため、市民の間からは、1990年代に大量の餓死者を出した「苦難の行軍」が再び始まるのではないかという不安の声が上がっている。当局も懸念している。30年前と比べ、北朝鮮市民の間に流れる情報量は激増した。携帯電話は500万台以上流通し、当局による食糧不足の隠蔽はほとんど不可能だ。
市民の不満が当局に向かうことを恐れた結果が、脱北者たちを非難するキャンペーンになったようだ。連絡事務所の爆破は、韓国が北朝鮮に対する大規模な経済援助に乗り出すことや米国へ制裁緩和を働きかけることを求めるメッセージだろう。
北朝鮮はトランプ米大統領との対話を望んでいる。米韓合同軍事演習の停止を受け入れたトランプ氏は、北朝鮮にとってくみしやすい相手だ。ただ、新型コロナ問題による景気悪化などにより、トランプ氏の再選は不透明な情勢になっている。北朝鮮は11月の大統領選前に米国から譲歩を得なければならないと焦っているのかもしれない。

■米韓が動くまで挑発は続く

北朝鮮は今後、どのような動きをするだろうか。
米朝協議が実現するまで、あるいは韓国が経済支援に応じるまで、こうした軍事挑発を続ける可能性がある。北朝鮮は自殺行為はしない国だが、自らの体制が危機に直面すればするほど、行動もより冒険的になっていくだろう。
今、日米韓の専門家らが一番懸念しているのが、北朝鮮による潜水艦発射型弾道ミサイル(SLBM)の発射だ。北朝鮮は昨年10月、新型のSLBM「北極星プッ・クク・ソン3」(射程約2千キロ)の試射に成功した。昨年7月にはSLBM搭載を想定したとみられる新型潜水艦の写真も公開した。
そして朝鮮中央通信は5月24日、党中央軍事委員会拡大会議を開き、「核戦争抑止力をより一層強化し、戦略武力を高度の臨戦状態で運営するための新たな方針が示された」と伝えた。
この意味はおそらく、SLBM搭載潜水艦を実戦配備し、同部隊を戦略軍として最高司令官である金正恩氏直属とする形で実戦配備を命じたということだろう。実際、春先から北朝鮮の日本海側で、SLBM試射の準備作業とみられる動きが続いている。
もちろん、北朝鮮がSLBMを試射しても、すぐに戦争状態に陥るわけではない。だが、日本は北朝鮮のミサイル攻撃が懸念された2017年12月に導入を決めた陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備計画の停止を決めたばかりだ。
日本が弾道ミサイル防衛の再構築を決めた直後に、北朝鮮が再びミサイルによる挑発に出れば、日本の世論が混乱する可能性がある。今は、そんな状態に陥らないよう祈るばかりだ。

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小池氏もカイロ大で学んだアラビア語 会話で教育レベルがわかるのはなぜ?

2020年6月20日 12:01 朝日新聞GLOBE+

7月5日投票の東京都知事選に再選を目指して立候補した小池百合子氏をめぐって、カイロ大学文学部の卒業やそのアラビア語能力が一部で物議を醸している。アラビア語は、ロシア語と並び、世界で最も習得困難な言語の一つだ。中東に10年近く滞在した筆者も、アラビア語学習では、七転八倒した経験がある。

現地人も話せない人が多数存在

学歴を詐称したのではないかとの疑惑では、カイロ大が「小池氏が卒業したことを証明する」との声明を出した。汚職や不正がはびこるエジプトでもあり、声明の真偽を疑う声もやまない。なら、小池氏のアラビア語のレベルはどうだろうか。動画が公開されている中東要人との会話では、それなりに話せているけど、エジプト最高学府の文学部で真剣に学んだ水準かと言われれば、そこまでではないというのが筆者の感想だ。
小池氏が記者会見で英語を話すのも聞いたことがあるが、英語の能力は素晴らしいだけに、アラビア語能力は随分と低く見えてしまう。ただ、英語圏の大学や大学院に留学しても、努力なしに流暢に英語を話せるようにはならないのと同じであり、アラビア語が十分に話せないことで「カイロ大卒の学歴は詐称」との証明にはならない。

アラビア語には、日本語に標準語と方言があるように、標準語に相当するフスハーという正則アラビア語と、それぞれの国や地域、地方での日常生活で話されているアンミーヤ(現代口語)がある。ただ、フスハーは、6世紀に編纂されたイスラム教の聖典クルアーンで使われている、日本語で言えば、古文のような文体や響き。記者会見や政府高官の発表、宗教関係、メディア、大学の授業などでフスハーが用いられ、日常生活で話す人はほとんどいない。アラビア語を学習した外国人が街中でフスハーを話すと、「〜で候」と古文を話しているようなもので、違和感を持たれたり、茶化されたりする。
フスハーは教育レベルを判断する尺度になり、十分な教育を受けていない人はアラビア語圏に暮らす現地の人たちでもフスハーを話せず、アンミーヤだけを使う場合も多い。イスラム過激派の指導者ら、ある人物の教育レベルや宗教的知識を判断するためには、話すアラビア語を聞くことで可能。小池氏のアラビア語も、カイロ大で4年間、真剣に学んでいなかったのではないかという疑惑を補強する材料にするメディアが存在するのはこのためだ。残されている映像の中で、小池氏は努めてフスハーを話そうとしているものの、エジプト方言のアンミーヤが混じってしまっている。

日常生活では習得できず

アラビア語習得の難しさは、文字の難解さや発音、複雑な文法といった要素以外にも、フスハーとアンミーヤが別の言語といってもいいぐらい乖離していることが大きい。アンミーヤは、例えばサウジアラビアやエジプト、モロッコなどの北アフリカでそれぞれ話されているものには大きな差異があり、相互に意思疎通する場合にはフスハーが必要となる。ただ、エジプトのアンミーヤの場合、エジプトが映画やテレビドラマの発信拠点という位置付けから、アラブ圏で理解する人は多い。
積極的に街に出て会話することで習得できる英語とは違い、アラビア語は一般的な会話ではアンミーヤを使うので、フスハーを日常生活を通じて身につけるのは難しい。その習得には、家庭教師に付いたり、フスハーの教科書をじっくり読んだりする地道な努力が欠かせない。エジプト留学時の小池氏を知る人は「活発な人で楽しい留学生活を送ったようだ」と話しており、自宅や図書館に籠もって勉強したタイプではなさそうだ。

かくいう筆者も、パレスチナで最初にアンミーヤを学び、その後、エジプトに暮らしてフスハーを勉強したため、パレスチナ方言とフスハーが混じった「変なアラビア語」を話す外国人の一人だ。それでも、フスハーはアラビア語圏ならどこに行っても通じる。中国では、イスラム教徒がいる新疆ウイグル自治区のモスクで会った中国人聖職者(エジプト・アズハル大卒)と、イギリスではイスラム教徒の移民とアラビア語で話すことができ、情報の入手や交友関係の構築に大いに役立った。駐在以来13年ぶりに再訪したパレスチナでは、元武装勢力幹部と旧交を温めた。
アラビア語は、右から左に書く文字が合体して文字が変化するため、読解も難しい。また、発音も咽の奥を鳴らす独特の発声法があり、現地で長年暮らしているだけでは、なかなか話せるようにはならない。筆者も、10年近いエルサレムとカイロの駐在生活を終えてもアラビア語のレベルはまったく上がらず、本格的に留学しなければ、アラビア語の習得は無理だとの考えに至ったのを思い出す。

体力勝負のアラビア語学習にはコシャリ

運転手にメイドがいた駐在時代の生活から、退職して体一つで灼熱のエジプトにアラビア語習得のために再訪した時の孤独感は忘れられない。会社から保証された快適な生活はもはや存在せず、難解なアラビア語を習得できるかどうかも分からないという不安も強かった。前述したように、アラビア語のフスハーは日常生活では習得しにくいため、時間をかけて大学に通うという選択肢もあるが、家庭教師に付いて勉強するのが手っ取り早い。カイロ市内の語学学校に通い、毎日3〜6時間もアラビア語と格闘する日々が続いた。そこでは、日本の外務省から派遣された、将来のアラビア語エキスパートを目指す若い研修生たちも、アラビア語の習得に励んでいた。
アラビア語の教師は、大学の文学部でしっかりとフスハーを学んだ人か、フスハーで書かれたクルアーンを学ぶなど宗教的背景を持った人が一般的。筆者のエジプト生活での最初のアラビア語の家庭教師は、カイロ大卒のイスラム組織ムスリム同胞団のメンバーだった。同胞団は、民主化要求運動「アラブの春」でムバラク政権が崩壊した後、一時的に政権の座に就いたが、軍部のクーデターでその座を追われて同胞団は「テロ組織」に指定されるという波乱の動きに見舞われた。家庭教師だった男性も、同胞団のスポークスマンとして活躍したものの、同胞団の失脚後は、メンバー大量逮捕の中で連絡が取れなくなり、その安否は杳として知れない。

アラビア語の慣れない口の動きや発声を酷暑のエジプトで学ぶのは、結構な体力がいる。そんな生活の中で、よく昼食に食べた料理の一つがエジプトB級グルメの代表格であるコシャリだ。コシャリ屋の席に座ると、1分もたたずに運ばれてくるので、アラビア語学習のための時間の節約にもなる。まるで炭水化物の塊であり、腹持ちがいい。炊いたご飯にマカロニや太さの異なるパスタ、レンズ豆やひよこ豆を混ぜ、トマトを使ったサルサソースをかけた軽食だ。サラダ油を多く使ったコシャリは、ニンニクとお酢を混ぜた調味料やレモン汁をかけ、こってりさを和らげる。アラビア語を学んだ小池氏も、このコシャリを何度も味わったことだろう。

今回のレシピ紹介Koshary
コシャリ

材料(4人前)
お米 2合
レンズ豆 100グラム
ひよこ豆 100グラム
玉ねぎ 1個
トマト 2個
オリーブオイル 300cc
ペンネや太さの異なるパスタ 計150グラム
スパイス(クミン、パプリカ、コリアンダー、チリペッパー、オレガノ) 大さじ 2
塩胡椒 適量

作り方
1、玉ねぎをみじん切りにして、オリーブオイルでかりっと茶色になるまで揚げる。
2、トマト2個をみじん切りにして、スパイスの半分の量を入れ、1で使ったオリーブオイルを入れて煮詰め、サルサソースを作る。
3、一晩水に浸したひよこ豆、レンズ豆の順で茹で、お米にスパイスやオリーブオイルを加えて炊く。
4、ペンネや太さの異なるパスタを茹で時間が長い順にお湯に入れる。
5、4にオリーブオイルをかけてまぶし、炊いた米や豆を加えて混ぜ合わせる。
6、サルサソースや揚げ玉ねぎをかけて盛り付ける。
7、食べる時にレモン汁やお酢をかけてもいい。
コシャリの作り方

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【ウクライナの女たち②】私はふるさとを2度失った チェルノブイリと紛争

2020年6月20日 12:00 朝日新聞GLOBE+

彼女たちの「あれから」をたどる旅

2014年春、ウクライナという東欧の国が突如、世界の注目を浴びた。隣の大国ロシアとの関係をめぐって紛争に陥った「ウクライナ危機」。当時、紛争地を取材した記者が、6年ぶりにウクライナを訪れ、原発事故や紛争に翻弄され、故郷を失ってもたくましく生きる女性たちの胸の内に迫った。第2回は、チェルノブイリ原発事故と東部紛争で二度ふるさとを失った女性、そして、紛争で壊れたひとり息子との関係修復を願いながら希望を探し続ける女性に会いに行った。(渡辺志帆 文中敬称略)

【アナ・ジュルディツカヤ】それでも「こうなる運命だった」

2度、ふるさとを失ったウクライナ女性がいる。1度目は、旧ソ連時代の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故で、2度目はウクライナ危機で東部ドネツクを逃れて。今春、首都キエフ北部のアパートに暮らす、アナ・ジュルディツカヤ(38)を訪ねた。

82年4月、アナはチェルノブイリ原発の従業員たちが暮らすニュータウン、プリピャチに生まれた。父イブゲニ(66)は原発で働くエンジニアだった。
アナに、世界を震撼させた原発事故の記憶はほとんどない。ただ、事故の6日前、4歳の誕生日を迎えて、両親に開いてもらったパーティーのことは、今もよく覚えている。町中に淡いピンク色のアンズの花が咲き乱れる、美しい季節だった。プレゼントやおもちゃに囲まれ、友達と楽しい一日を過ごした。そして、事故後まもなく住民全員の避難が命じられた。平静を装って支度をする両親や周囲の大人の目に恐怖が宿っていたこともまた、アナははっきりと覚えている。
【メモ】チェルノブイリ原発事故とウクライナ危機による避難民旧ソ連時代の1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故で、周辺は高濃度の放射性物質で汚染され、国連によると原発にほど近いプリピャチの全住民約5万人を含む35万人以上が移住させられた。
2014年以降のウクライナ危機では、約80万人が国内の別の地域に避難や転居を余儀なくされた。親ロシア派武装勢力が占拠する東部地域などから、年金受給のためにウクライナ支配領へ通う人などを加えると、その数は150万人に膨らむという。
一家が移り住んだのは、プリピャチから約800キロも離れたウクライナ東部ドネツクだった。プリピャチ住民の多くが130キロほどしか離れていない首都キエフや近郊の都市に避難していた。「両親がここまで遠くに逃げたのは、原発事故で感じた恐怖の大きさゆえだと思う」と、アナは考えている。

あれから34年。母ルドミラ(64)は、4歳のアナの手を引いて逃げた当時のことを思い出すと、恐怖がよみがえって涙を流してしまう。そんな母を見て、アナはそれ以上、問いただすことができないのだと言う。

■不妊治療費なく、紛争が追い打ち

ドネツクで育ったアナは18歳の時、友人の紹介で2歳年下のアンドレイと出会い、22歳で結婚。すぐに子どもを望んだが、10年たっても授からない。医師に相談すると、妊娠するのに重要な甲状腺ホルモンの値に問題があると診断された。「不妊の原因は、原発事故で大量に放出された放射性物質に被曝(ひばく)したせいだと思う」。アナはそう考えているが、証明できるものはない。母もまた甲状腺に腫瘍(しゅよう)ができるなどして、体調がすぐれない。家族の中で政府の医療補償を受けられるのは、原発従業員で事故処理にも携わった父だけだ。経済的な余裕はなく、ドネツクでは十分な不妊治療を受けられなかった。
さらなる試練が襲う。愛情深い夫と築いてきたドネツクでの静かな暮らしは、14年に勃発した東部紛争で壊されていった。鉄鋼会社のエンジニアだったアンドレイは、紛争が始まった14年春、単身キエフに移り、ITプログラマーに転職するための勉強をスタート。安全と、よりよい生活を求めての決断だった。アナも3カ月後の14年7月、政府軍と親ロシア派との戦闘が激しさを増す中、命からがら夜行列車に乗り、夫を追ってキエフに向かった。
アンドレイは努力のかいあって、キエフのIT企業に転職。アナも市内の質屋で働いてお金を貯め、本格的な不妊治療を始めた。約3年後の18年、7回目の人工授精で長女ミラスラヴァ(2)を授かった。愛らしい娘の成長が、家族の苦い思い出を幸せに変えていった。

原発事故と東部紛争。アナは、ウクライナの暗い歴史に翻弄(ほんろう)された自分の過去を悲しんではいない。「プリピャチからドネツクに行ったから優しい夫に出会えた。キエフに逃れたから娘に会えた。チェルノブイリやドネツクで起きたことは残念だけれど、今の暮らしが幸せ。こうなる運命だったのだと思う」。昼寝から目覚めてぐずりだしたミラスラヴァを優しく抱き寄せながら、アナはほほえんだ。

【タチアナ・ダイバノヴァ】ようやく迎えた穏やかな老後が…

もう一人、紛争に人生を翻弄された女性をご紹介しよう。タチアナ・ダイバノヴァ(60)は、14年の分離東部紛争で中心地となったウクライナ東部ドネツクで、現地の運転手として私たちの取材を助けてくれた。14年7月、ウクライナ東部上空を飛んでいたマレーシア航空機が撃墜され、乗客乗員298人が犠牲になった。その墜落現場にも、タチアナは、「女性は親ロシア派の検問で怪しまれにくいから」と危険を顧みず、取材記者を乗せた車を飛ばして、いち早く乗り込んだ。
私の記憶にある彼女は、腕っぷしの強そうな、たくましい女性。そして、ひとり息子のビーチャ(34)は当時、あどけなさが残る青年で、大型バンを運転する母親の仕事を手伝っていた。2人が話すのは東部地域では一般的なロシア語。一日の終わりに私がつたないロシア語で「スパシーバ(ありがとう)」と礼を言うと、無口なタチアナに代わって、ビーチャがちゃめっ気たっぷりに「パジャールスタ(どういたしまして)!」と返してくれたものだ。
今年連絡してみると、タチアナはドネツクから約100キロ離れた小さな町スラビャンスクで暮らしていた。町はウクライナ政府の支配下にあるが、親ロシア派との停戦ラインにほど近い。政府軍が駐屯していて、3年前に入隊したビーチャが基地で働いているという。
「ここは嫌いだね。昔のドネツクに帰りたい」。町のカフェテリアで再会したタチアナは、怒気をはらんだ声でそう吐き捨てた。

ドネツクで生まれ育ったタチアナの人生は、東部紛争で大きく変わってしまった。15歳から路線バスやタクシーの運転手として40年以上働いてきた。3度結婚し、1番目と3番目の夫とは死別した。ビーチャの実父である2番目の夫からは、ひどい家庭内暴力を受けてビーチャが8歳の時に離婚。女手一つでビーチャを育てながら、過酷な仕事を勤め上げ、ようやく穏やかに老後を過ごせると思った矢先に、紛争が起きた。
当時、ドネツク市内に小さなアパートを2軒持っていたが、1軒は親ロシア派の戦闘員になった兄(62)に居座られている。紛争をきっかけに意見の違いから兄とは不仲になり、タチアナは危害を加えられるのが怖くて同じ建物内にあるもう一軒の部屋にも戻れないという。

■家賃に消える年金 薬も買えない

一人息子のビーチャは、14年夏に15年来の恋人と結婚式を挙げるはずだった。衣装もそろえ、ドネツクでの披露宴会場の手配も整っていたのに、紛争が激しさを増し、2人で首都キエフに逃れた。タチアナは紛争地取材に来る各国のジャーナリストの運転手をして稼いだお金を、すべてビーチャに持たせた。
ところが、ビーチャはキエフで仕事を見つけられず、恋人とも破局。精神的に落ち込み、酒におぼれた。生活を立て直すためにウクライナ軍に入り、1年半前に基地近くの雑貨店で働く女性と結婚した。スラビャンスク郊外に一軒家を購入し、タチアナも加えて家族3人の暮らしが始まった。だが、ほどなくタチアナは嫁との関係でつまずいてしまう。家庭菜園のトマトの苗に支柱をし忘れた。そんな些細なことで、激しい口論となり、家を追い出されてしまった。
彼女は今、旧ソ連時代の古いアパートの一室でビーチャが拾ってきた猫2匹と暮らしている。月2500フリブナ(約1万円)の年金は、同額の家賃に消える。近所の食堂の夜勤シフトも、一晩働いて250フリブナ(約1000円)。高血圧の持病があるが、薬を買う余裕はない。息子との距離を感じる。「猫のえさ代にも事欠くのに、ビーチャは私に頼み事があるときしか連絡してこなくなった」
タチアナは、戸棚の奥から思い出の詰まった写真の束を取りだし、一枚一枚めくって見せてくれた。自分の結婚式、ビーチャが赤ん坊だった頃、運転する路線バスの前で撮った記念写真、友人たちとのだんらんの夕べ……。どれも楽しかったドネツクの思い出だ。

紛争前のタチアナは、誰だろうと求められれば飛んで行って助けの手をさしのべる、そんな優しい性格だった。紛争で気心の知れた友人と離ればなれになり、親戚も体調を崩して相次ぎ他界した。「ビーチャこそ生きる理由のすべて」。そう考えるようになった。
今、愛情を傾ける息子も、自分を省みてはくれない。「実の父に会う機会を奪った」と責められもした。それでも友人も家も失った今は、「ビーチャのそばにいたい」と願う。寂しくて心が荒れ、親ロシア派の住民と路上で口論することも増えた。
話を聞いている途中、タチアナの携帯電話が鳴った。ビーチャが高熱を出して寝込んだという。「見舞いにいかなくちゃ」。そう言い残すと、タチアナは足早に去って行った。

【次の記事】
ウクライナで出会った女性たちに、再び会いたくなったのはなぜだろう……。この6年の間に、私自身の人生にも大きな変化があった。パリ、キエフ、ウクライナ東部を旅しながら、「幸せのかたち」を考えました。
【ウクライナの女たち③】幸せは自分の手でつかむ 翻弄されてたどり着いた思い

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アグネス・チャンが3人の息子を育てて体得した、「子育て最初の1年」に大切なこと

2020年6月20日 07:00 朝日新聞GLOBE+

香港で出版される新刊書を執筆しています。
香港の出版社の編集長から「是非、是非、書いてください」とお願いされていた本で、テーマは「0-12ヶ月の子育て」です。
香港では共働きの家庭が多くて、赤ちゃんの世話を祖母、祖父に任せたり、お手伝いさんに頼んだりします。
確かに、金曜日に地下鉄の駅に行くと、祖父母に連れられて親の迎えを待つ子供たちの姿をよく見かけます。週末以外は祖父母の家で生活する子供たちです。
公園に行くと、フィリピン人のメイドさんが赤ちゃんを乗せた乳母車を押して集まっている光景がよくあります。メイドさんたちは自分たちでお喋りしたり、スマートフォンをいじったりしていて、赤ちゃんは乳母車の中で無表情のまま前を見ています。
共働きでないと生活ができない香港の現状では、赤ちゃんや子供を預けるのは仕方がないと思います。
でも、0-12ヶ月の時期は赤ちゃんにとって、脳の成長の黄金期です。この時期にたっぷりの刺激と愛情で育ててあげないと、満足に脳も体も成長できないのです。
しかも赤ちゃんは、人との信頼関係を築く基盤もこの時期に学習します。このときにそばに親がいないと、一番最初に信じる人、頼る人、好きな人が親でなくなってしまいます。そうなると、子供と親との繋がりが上手くいかず、小学生、中学生になった時に、「子供達とコミュニケーションが上手くいかない」ということになりかねません。
「0歳児の育て方、接し方を親だけでなく、子どもを預けられた人たちにも伝えたいのです。そうでないと、人生の最初の段階で挫折してしまう子供が増えてしまいます」と編集長は言います。
いざ書き始めてみると、書かなければいけないことが次々に出てきました。
今回は小児科医でアレルギーの専門医でもある姉に助けてもらって、「医者に聞く」と言うコーナーを作りました。

■「人生最初の1000日」が持つ意味

ユニセフは「人生の最初の1000日を大事にしないといけない」と訴えています。お母さんのおなかで生を受けたその日からの1000日です。つまり、子育てのスタートは妊娠した瞬間からなのです。
お母さんは自分の体をいたわって、栄養のある良いものを食べ、たっぷりの睡眠と適当な運動でおなかの赤ちゃんの成長を応援しないといけません。
赤ちゃんが生まれるまでの9カ月の間に、夫婦は親になる覚悟を確認し合って、新しい命を迎える準備をします。いろんな物を準備するときに、親になる実感が湧きます。とっても大切なプロセスです。何が必要か、どうして必要かと考えていくうちに、想像力が働き、自分たちと赤ちゃんが家族になっていく場面が目に浮かぶのです。お腹の赤ちゃんに対する愛しさが増し、親になる楽しみが実感できるのです。
ユニセフは母親学級をいろんな国に設置し、地元の女性に栄養、衛生と育児の基本知識を教えています。
私もユニセフのミッションで栄養失調児が多い中米のグアテマラを訪ねたときに、ユニセフ主催の母親学級に参加しました。
ゲームを交えながらの教え方で、地元の女性たちは楽しんで学習していました。母乳の推進や、助産婦さんの訓練、妊婦と新生児への栄養食品の提供などを通して、人生の最初の1000日の重要性を訴えていました。

先進国に生活するお母さんも油断してはいけません。
自分の体をいたわって、栄養のある良いものを食べ、たっぷりの睡眠と適当な運動でお腹の赤ちゃんの健やかな成長を応援しましょう。
多くの新米ママパパは新生児の事がよく理解できないため、生まれてから、世話するときに慌てます。でも新生児に対する知識が増えれば、落ち着いて対応できます。
例えば、新生児にはいろいろな反射本能があります。新生児の頬を触ると、その方向に顔をむき、おっぱいを探すのです。これは哺乳類である赤ちゃんが生き延びるための本能です。
新生児の胃袋はとっても小さくて、胡桃くらいしかありません。だから、何回も何回もおっぱいをねだるのはわがままではなく、すぐに胃袋が満杯になるからなのです。
新生児は目が大きく見えます。なぜかと言うと、生まれたときに、目はすでに成人の3/4の大きさを持っているのです。だから、赤ちゃんはみんなお人形のように可愛いのです。
これらの面白い知識を知っていれば、目の前の赤ちゃんをより理解できるし、生命の不思議さと力強さを感じられます。
赤ちゃんの世話で大きなポイントの一つが母乳です。ユニセフは赤ちゃんが6カ月になるまで、純母乳で育てる事を勧めています。私も賛成です。
赤ちゃんが生まれてから1時間以内に、「初乳」を飲ませるのが重要です。
この透明な液体の中には母から子への抗体がたくさん含まれています。この「初乳」は赤ちゃんの免疫力を高める事ができます。
母乳の中には赤ちゃんが必要とする全ての栄養素が含まれています。消化しやすく、吸収もしやすい。赤ちゃんの消化機能に優しいのです。
母乳育児は親子の絆も作れます。赤ちゃんが自分の体から出る母乳で育っていくのを見て、母になる自信が生まれます。
母乳は自然に出てくると私も思っていましたが、実際は妊娠中に色々準備しないと、特に初産の場合は出にくいことがあります。助産婦さんに相談して、おっぱいを揉んだり乳首をきれいにして、母乳が出やすくした方がいいのです。それを知らなかった私は、長男を産んでから1週間近く母乳が出ませんでした。でも、出始めると、赤ちゃんが飲み干せないほど、たくさん出ました。
だから最初は出なくても、諦めないで欲しいと思います。
「大変だから」「おっぱいの形を悪くしたくない」などの理由で粉ミルクを選択するのは避けて欲しいです。
それでも、病気とか色々な理由で粉ミルクを選ぶお母さんもいます。そのときには、赤ちゃんにより多く、たっぷりの愛情と関心を持って接して欲しいと思います。

■私も新米ママだった

新米ママパパから見れば、一番心を痛めるのは赤ちゃんの泣き声です。
泣き止まないと、イライラしてしまう親もいます。
多くの虐待の原因は赤ちゃんが泣き止まないことから起きるといわれます。
赤ちゃんは泣く生き物です。言葉が話せて、自分で動けるまで、泣く事が唯一の助けを求める方法です。
そう考えれば、赤ちゃんって、とっても大変だなーとわかります。
赤ちゃんが泣く理由は限られています。
お腹がすいた、おむつを替えて欲しい、痛い、痒い、暑い、寒い、眠い、周りがうるさい…などです。
赤ちゃんの泣く理由を察知して、要求を満たしてあげれば、赤ちゃんは必ず泣き止みます。
注意深く赤ちゃんを見ていると、泣き声の違いがわかってきます。そうすれば、何をやってもらいたいのかそのうちにわかります。
私の場合は赤ちゃんが泣く前に、赤ちゃんの要求を察知して、やってあげるように努めました。
そうすると、赤ちゃんは泣く必要がなく、ハッピーでいられるのです。
長男は最初よく泣きましたが、次男、三男はハッピーな赤ちゃんでした。
新生児はたくさん寝ますが、寝る時間が短くて、2―3時間で起きては、おっぱいを飲みたがります。親にとっては、大きな負担です。
でも、4カ月になると、多くの赤ちゃんは夜、6-8時間寝ますので、親も寝られるようになります。つまり眠れない子育ては、ほんのちょっとの間の辛抱です。
赤ちゃんが4、5カ月になると、座る事ができ、よく笑う、自分の名前が聞こえると、に振り向きます。いつもそばにいる人に愛情表現をするなど、とっても可愛くなります。
その可愛さは日に日に増します。
6カ月から離乳食を食べ始めると、家族の食卓が賑やかになります。
訳のわからない言葉でお喋りしたり、表情豊かになって、面白い事をたくさんやってくれます。
7―8カ月になるとハイハイし始めます。
全てに好奇心を持って探検するように、動きまわります。
他人にますます興味を持って接します。
この時期には思いやり、優しさを教えるチャンスです。
人を叩いたりする時は、「やってはいけない」と教えてください。
食べ物やおもちゃを人に分けてあげたりする時は「いいね、いいね」と褒めてあげてください。
12カ月になると、歩き出す赤ちゃんがたくさんいます。簡単な単語が言える赤ちゃんもいます。一緒に本を読んだり、遊んだりすることもできます。
乳児から卒業して、幼児になるのです。
思い出せば、長男が生まれた時、私も新米ママで慌てました。
母乳が全く出なかったので、毎日泣きました。
夜泣きに悩まされた時もありました。子供が病気になった時、怪我した時…心配の連続でした。
でも、長男が初めて笑った日、座った日、立った日、歩いた日、など、鮮明に今でも覚えています。
その時の喜びは全ての苦労が消えるほど大きかったです。
次男が生まれた時は、少し落ち着いて子育てができるようになり、
三男が生まれた時は家族全員で子育てを楽しみました。
経験と知識が私を安心させてくれました。
だから、出来るだけ知識を手に入れば、慌てずにすむのです。
新生児の体の成長、知能の成長、感情や社会性の成長については、この本で核心となる部分です。
新生児は飛躍的に成長していきます。体の大きさも、頭の大きさも。でも特に注意したいのは、頭の中の仕組みです。
新生児の脳細胞の数は大人とほぼ同じくらいです。急速に成長するのは脳細胞と脳細胞を繋ぐシナプスです。このシナプスは人や物事との交流から生まれてきます。つまり、刺激されないと生まれてこないのです。
新生児から見れば、世界は全て新鮮で初めて触れるものばかりです。新生児の五感に刺激を与え、何か要求されたときに、素早く対応してあげる事で、赤ちゃんの脳の中に複雑な通信網が築き上げていきます。
司令塔になる脳の成長は赤ちゃんの知能だけでなく、体も、感情の成長にも影響します。
人と接する機会が乏しく、要求にこたえてもらえない赤ちゃんの脳の成長は遅れ、大きくなったときに学習能力、対人関係に問題が起きるだけでなく、病気にもなりやすくなります。だから、時間をかけて、新生児と出来るだけ多く交流する事をお勧めします。
話してあげたり、歌を歌ってあげたり、本を読んだり、外へ出かけたり、成長段階によって、どのように脳を鍛えられるか、いろいろな方法を本の中で紹介しました。
赤ちゃんの最初の一年はあっという間に過ぎてしまいます。
赤ちゃんにとって、一番大事な52週間、365日です。
人生を幸せに送れるかどうかを左右する時期と言っても、言い過ぎではないのです。
親の長い人生の中で、365日は短い時間です。
ちょっと大変でも、自分の子供のために、無限大の愛情と関心を持って、育ててあげてください。
掛けた愛情は必ず報われます。赤ちゃんに愛を示すと、掛け算で帰ってきます。新生児は「愛」で育つ、「愛」で走り出すのです。

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cat_oa-rp88508_issue_9fda75861c64 oa-rp88508_0_167364f353aa_顆粒スープの素「タルハナ」はヨーグルトで作る遊牧民の保存食 <トルコの保存食1> 167364f353aa 167364f353aa 顆粒スープの素「タルハナ」はヨーグルトで作る遊牧民の保存食 <トルコの保存食1> oa-rp88508

顆粒スープの素「タルハナ」はヨーグルトで作る遊牧民の保存食 <トルコの保存食1>

2020年6月19日 15:00 朝日新聞GLOBE+

第18回 トルコ

前回まで、トルコのアンネ(お母さん)の丁寧な手作りや暮らしについてお話ししてきましたが、今回は、トルコ国内の様々な家庭で教わった、代表的な保存食について取り上げたいと思います。

●食材の宝庫、トルコの料理に魅せられて

私が初めてトルコに長期滞在したのは2000年頃のことでした。日本で知り合った大学生、セルダルさんのご実家に、1ヶ月間滞在させていただくことになり、料理上手のアンネ(お母さん)から200品もの料理を教わる貴重な体験をしました。セルダルさんが東京にいた間、わが子同然に接してきたこともあって、彼のご両親や親戚、近所の方、地域の方の方々など、多くの人に受け入れていただくなかでトルコの暮らしに触れ、気づくことがいろいろありました。
以後、10年以上かけて季節をかえて東西南北、トルコ全域を訪れる旅を続けるに至ったわけですが、これは、日本でも、地域や家庭によって同じ料理も少しずつ異なるように、トルコの家庭料理も同様であることに気づいたことが大きいです。地域ごとの家庭料理やレストラン料理の数々…。なかでも、興味深かったのが保存食の文化でした。私は、保存食はどこの国においても生きる糧だと捉えていますが、トルコのヨーグルトを使った冬のスープの素「タルハナ」などは、トルコの遊牧民文化の中でも特に印象深いものでした。

●豊かな農業国で興味を持った保存食

トルコの国土は日本の2倍ほどあり、黒海、エーゲ海、地中海と三方海に囲まれているために海風が起ち上り、内陸部アナトリア高原の土壌も豊かです。四季もありますが、地域によって寒暖に差があり、高原では冬は雪が降ってマイナス20度まで下がることもありますが、夏は摂氏40度ほど。乾燥しているため、日陰は涼やかです。恵まれた気候風土により、食料自給率は100パーセントを超えます。小麦をはじめとする野菜や果実、ナッツなど、原産の食材も多く、農産物の輸出が多い農業国です。
東西南北で整理してみると、ナッツ類は全土で収穫できるトルコの原産品です。アナトリア高原の内陸部では、麦、じゃがいも、あんずやぶどうなどの果実のほか、ヘーゼルナッツ、ピスタチオ、クルミ、アーモンド、松の実などが特に豊富な地域です。また、東側のジョージアやアルメニアに面した地域は、酪農が盛んで遊牧民が多く暮らしているため、乳製品がたくさん作られます。西側のギリシャ、エーゲ海に面した地域は延々とオリーブ畑が広がり、綿花やイチジク、オレンジなどの産地。南側の地中海に面した地域は冬場でも野菜や果物を多く収穫でき、マグロなどの海産物も豊富です。黒海に面した北側は、漁業や野菜、紅茶栽培が盛んです。こういった背景から、豊富な収穫物を旬のうちに仕込んで味わう、豊かな保存食文化が生まれていったのでしょう。

●トルコの保存食

現在では市販品がたくさん売られていますので、保存食作りをする人も少なくなってきています。とはいえ、やはり安心安全でおいしいものを家族に食べさせたいと、トルコのアンネ(お母さん)たちは、毎年の手仕事を楽しそうに続けています。
保存食にはたくさんの種類がありますが、主なものとしては、顆粒スープの素「タルハナ」、「クイマ(干しひき肉)」、「ヤプラク(ブドウの若葉の塩漬け)」、小麦の原産国ならではの保存食「ユフカ」とユフカを乾燥させた「エリシテ(乾燥ショートパスタ)」、トルコ料理の旨味の素「サルチャ(トマトペースト)」、トルシュ(漬物)、トルコの代表的な料理「ドルマ」に欠かせない「クル・セブゼ(干し野菜)」、豊富な果物の美味しさを閉じ込めた「レチェリ(ジャム)」といったところでしょうか。
仕込む時期は特に夏野菜の豊富な時期が多いのですが、現地で昔ながらのトルコの手仕事に触れ、生活の知恵をいただけたことは有り難いことでした。

●携帯用のスープの素、タルハナ

トルコ人はもともと遊牧民族ですので、乳製品の旬の季節である夏に、ヨーグルトやチーズなどの加工品をたくさん仕込みます。これもそのうちの1つ。話には聞いていましたが、実際に食べてみるまで想像がつかないものでした。
なぜ乳製品の旬が夏かというと、家畜の出産が春から初夏にかけてピークを迎えるため。つまり、新鮮な乳は夏に多く出回るのです。家畜たちは草原で新鮮な草を食べ、子のために乳を出します。そしてまた、小麦の旬も夏です。「出合いもの」で保存食を作り、ビタミン、ミネラル、たんぱく質を摂取し辛い冬に繋げるのです。
さて、トルコのおふくろの味とも言われる「タルハナ・チョルバス」(ヨーグルトスープ)に使う「タルハナ」は、いわゆる携帯用の自家製スープの素。
「タルハナ」は小麦粉とプレーンヨーグルトに、トマトやニンニク、玉ねぎをみじん切りにし、塩を加えたものがベースで、それを2、3日置いて発酵させたものを、練って薄いかたまりにちぎったものを新聞紙や布の上に広げ、乾かして固めます。最後は、手でぽろぽろと擦り合わせて顆粒状にします。
家の中で作業をしていると、ヨーグルトの乳酸の乳臭さが鼻につき、だんだん乾燥してくると粉チーズのような匂いが漂ってきます。酪農家や農家では野外や軒下で作業をしますね。一般の家庭では家中かバルコニーで作業します。

●レストランでは味わえない家庭の味

「タルハナ」を作る人も最近ではだんだんと減っています。20年ほど前、渋谷にあった老舗トルコ料理店「アナトリア」のオーナーシェフのハシムさんが、私の家に遊びに来たときに、「荻野さんの家の屋上でタルハナを作ってくれない?」そう頼まれたことがありました。
これは、レストランでは味わえない、家庭の味なのです。ですから…「とんでもない!レストランでお出しするほど大量には作れませ~ん!(笑)」と言ってお断りしました。
屋上に広げて乾燥させたとして、雨が降ったらおしまいですからね。日本のように湿気が多く、雨も多い国ではタルハナ作りは難しいです。

●便利な即席スープの素

「タルハナ」で作る国民的スープ「タルハナ・チョルバス」は、ほんのりとした酸味のある、独特な乳の味のスープです。
玉ねぎ、にんにくを炒め、水と乾燥ひき肉を加えて煮ます。肉が軟らかくなってきたら水で溶いたタルハナを加えるます。一般的には生のひき肉を使うことが多いのですが、ひき肉を乾燥させた保存食が作ってあれば、便利に使っています。戻して、野菜とともにコトコトと煮て出汁をとり、スープにするのです。
ひき肉はトルコ語で「クイマ(=QUIMA)」といい、塩をまぶして乾燥した保存食もまた、「クイマ」と呼ばれます。一般的には羊肉で作ります。羊を解体したときに出る肉の破片を細かく切り、塩をまぶして乾燥したもので、市販品も売られています。
私が、カッパドキアの遊牧民のおばあちゃんから教わった「クイマ」は、羊の赤身を細かく切り、多めの塩をまぶしてザルに入れ、日陰に干したものでした。ハエがぶんぶん黒だかり!「食べて」と、渡されたけれども・・・。「えー!」と躊躇しましたが、食べましたよ!。塩辛くて、ケモノ臭が強い味でしたね。羊とともにアナトリア遊牧感を味わった気がしました(笑)。

タルハナ(即席スープの素)の材料と作り方

1 ベースとなる小麦粉とプレーンヨーグルトは同量。そこに、風味づけのための玉ねぎのみじん切り、トマトのみじん切り、粉唐辛子、ドライミント、塩など全て適量で加え、ボウルで混ぜて室温におく。1、2日発酵させる。
2 トレーなどにクッキングシートを敷き、1を小さくちぎって広げ、2、3日乾燥させる。表面が乾いてきたら手で擦るようにして顆粒状に揉み、ザルでふるいに掛ける。
※よく乾燥させて瓶などに。1年間ほど保存可能。
※みじん切りにした玉ねぎ、にんにくをオイルで炒め、水とひき肉を加えて煮、肉が軟らかくなってきたら水で溶いたタルハナを加える。国民的スープ「タルハナ・チョルバス」が簡単に出来上がる。 

外部リンク

cat_oa-rp88508_issue_9fda75861c64 oa-rp88508_0_438aa7be148d_【ウクライナの女たち①】紛争取材で出会った彼女たち、今どこに 確かめる旅に出た  438aa7be148d 438aa7be148d 【ウクライナの女たち①】紛争取材で出会った彼女たち、今どこに 確かめる旅に出た  oa-rp88508

【ウクライナの女たち①】紛争取材で出会った彼女たち、今どこに 確かめる旅に出た 

2020年6月19日 12:00 朝日新聞GLOBE+

■【エリーナ・マノイロ】脱出を最後に別れた仲間、今パリにいた

2014年5月26日、ウクライナ東部の中核都市ドネツクのホテルの一室。市中の取材から戻ってきた同僚記者が切羽詰まった声で放った言葉に背筋がすっと冷えた。「ここも危ない、早く逃げましょう!」
その日、ドネツク奪還をめざすウクライナ政府軍が、親ロシア派武装勢力に占拠された空港に空爆を始めた。同じ頃、鉄道のターミナル駅では銃撃が発生。幹線道路のいたる所で武装勢力の検問が敷かれた。「都市封鎖されて脱出できなくなる前に」と、私たち取材班6人は翌朝、定員5人のワゴン車にぎゅうぎゅうに乗り込み、載り切らない荷物を捨て、幹線道路を避けながら6時間かけて安全な隣の州へ。まさに、逃げるような「退却」だった。

そんなドネツクで、脱出直前まで英語の通訳助手を務めてくれたのがエリーナ・マノイロ。ドネツク大学で国際政治を学ぶ21歳の学生だった彼女は、正義感が強く、長い黒髪とつぶらな瞳で、ウクライナへの愛国心や、ロシアへの怒りを力強く語った。脱出の直前、ドネツク中心部の自宅アパートまで車で送り届け、「無事でいてね」と手を振ったのが最後に見た姿だった。
6年ぶりにやりとりしたメールの返事に驚いた。フランスに暮らし、14年夏から一度もドネツクに帰っていないという。
彼女たちの「あれから」をたどる旅2014年春、ウクライナという東欧の国が突如、世界の注目を浴びた。隣の大国ロシアとの関係をめぐって紛争に陥った「ウクライナ危機」。初めての紛争地取材に赴いた当時34歳の私は印象に残るウクライナ人女性たちに出会った。
祖国の動乱期に妊娠や結婚という人生の岐路を迎えた、妹のような年頃の通訳助手たち。家族を思いながら、命がけで働く母親世代の選挙管理委員長。
あれから6年。ずっと気になっていたけれど、再び訪れる機会もないまま、私は日本へ戻った。彼女たちは今、どうしているだろう。無事だろうか。あのとき夢見ていた「幸せ」を、つかんだろうか……。彼女たちとウクライナの今を自分の目で確かめたくて、旅に出た。(渡辺志帆 文中敬称略)

■「帰れば捕まる」母と突然の別れ

【メモ】今も続く「危機」人口流出もソビエト連邦を構成する社会主義国家だったウクライナは、1991年のソ連崩壊に伴い独立。以来、欧米とロシアとの関係に揺れてきた。ロシア寄りの政権に親欧米派の市民が反発して起きた「マイダン(広場)革命」で2014年2月に政権が崩壊。これを受けてロシアはウクライナ南部クリミア半島を一方的に併合。ウクライナ東部では親ロシア派が武装蜂起した。15年2月に停戦合意がなされたが、今も散発的な戦闘がやまない。14年以来の死者は、民間人3300人を含め、1万3000人に上る。
ウクライナの人口は約4200万人で01年の調査より650万人も減った。クリミア半島や武装勢力の占拠する東部地域が統計から除かれたのも理由だが、よりよい生活を求めて欧州連合(EU)へ働きに行く人が増えているためだ。

今年2月下旬、新型コロナウイルスの脅威が忍び寄るパリ郊外の宿に私を迎えに来てくれたエリーナは27歳になっていた。流行の大きめに輪郭を取った唇と、カールさせた長いつけまつげ。かつてのあどけなさはない。メトロの駅から徒歩5分の閑静な住宅街にあるアパートは、こまやかに整えられていた。異国でゼロから築き上げた歳月が詰まった部屋で、彼女はゆっくりと話し始めた。故郷ドネツクや家族との別れは、突然だった。パリの大学院進学が決まっていた14年夏、卒業旅行先のトルコに母オレーナ(49)が慌てた声で電話してきた。「帰って来ちゃだめ」。エリーナが親ロシア派のブラックリストに載っていて、検問を通れば捕まる――。
知人から、そう忠告されたというのだ。心当たりはあった。数カ月前、エリーナは週末になれば友人と街に繰り出し、青と黄のウクライナ国旗を掲げて祖国の統合を訴えた。ウクライナ独立の2年後にドネツクで生まれた彼女にとって自然な思いからだったが、東部はもともとロシア系住民が多い地域。妨害は激しく、生卵を投げつけられた。エリーナはドネツクには戻らず、ウクライナ南部の町を経由してパリに旅立った。それきり、故郷には帰れていない。

■故郷では「自分らしく生きられない」

「帰るふるさとは、もうない」。そう覚悟を決め、エリーナはパリに根を張った。食費を切り詰め、子守のアルバイトをしながら、パリの大学院で行政法と外国人法の修士号をとった。17年前に夫を病気で亡くし、トラック運転手などで家計を支えてきた母オレーナも仕送りを続け、娘を支えた。「一人娘を手元に置いておきたかったけれど、愛国心が人一倍強い娘は、外国で暮らした方が安全だと考えた」
国際機関への就職を目指したエリーナだったが、うまくいかなかった。そんな時、フェイスブックに趣味で開設していた「法律相談室」に、ウクライナやロシアからの移民手続きに関する質問が増えているのに気づいた。エリーナと同じくウクライナ危機で祖国を離れた人々がEUに滞在できる条件となる3~5年が過ぎて、移民申請のラッシュが始まっていた。「これだ」と相談業務や書類作成の代行を始めると、ロシア語やウクライナ語が話せるエリーナは引く手あまたに。昨年、事務所も開設した。「朝8時から夜8時まで週6日働くこともある。評判を落とすわけにいかないから書類にミスがないように、集中しないと」
フランスには、正規の在留資格を持たないため低賃金の仕事しかできずに生活に困窮しているウクライナ人もいる。エリーナは彼らを助けるボランティアにも参加している。

月に1度、自宅からメトロで20分ほどのシュヴァルレ駅に出かける。高架の下はパリとウクライナ各地を結ぶ長距離バスや輸送サービスの発着地で、ウクライナ産の瓶詰め野菜や魚の干物、菓子が大量に並ぶ。ここから母にフランスのチョコレートや化粧品を送っている。母から届く荷物を受け取ることもある。ただ、新型コロナウイルスの感染拡大で国境が封鎖され、4月の母の誕生日をパリで祝う計画は立ち消えてしまった。
ウクライナが恋しくない? 私が尋ねると、エリーナはきっぱりと言った。「祖国は恋しい。でも、人生もキャリアもフランスにある。昔と変わってしまったドネツクには、もう帰りたくない」
昨春、フランス国籍を申請した。取得すれば祖国の国籍は失うけれど、悔いはない。「ウクライナに戻っても自分らしく生きることはできないから」。そう言って見つめたのは、学生時代の子守をきっかけに親しくなり、いまや後見人になったフランス人の子どもがほほ笑む写真だった。「近所の商店街を歩くと、知り合いに会わない日はないのよ」
6年をかけて必死に根付いた新しい居場所。そこに、いつか母を呼び寄せて一緒に暮らす。それが、いまのエリーナが考える「幸せ」のかたちだ。

【アントニダ・メルニコヴァ】「幸せ? 探しておくね」

エリーナと別れ、私が次に向かったのは、ウクライナ東部の町リシチャンスク。現在は政府の統治下だが、親ロシア派の支配地域との境界にほど近いこの町を訪れたのは、アントニダ・メルニコヴァ(63)という女性に再会するためだった。
紛争のさなか、14年5月25日に行われたウクライナ大統領選挙。当時、町の選挙管理委員長だったアントニダに初めて会ったのは、投票の1週間前だった。大統領選を阻止しようと親ロシア派武装勢力が圧力を強める中で、なんとか選挙を遂行しようとしていた彼女は、襲撃に備えて白いスニーカーを履き、「ここは私たちの町。無法者に委ねることはできない」と気丈に語っていた。数日後、「武装勢力が事務所に押し入って、選挙資材を奪ってしまった」と電話で泣いて訴えてきた時は驚いたが、私にはどうすることもできなかった。結局、武装勢力に占拠されたリシチャンスクを含む東部の町で投票は行われず、連絡が途絶えた彼女の安否も気になっていた。

今年3月、ショッピングモールのカフェに現れたアントニダは、明るいオレンジ色に染めた髪と、首に巻いた虹色のスカーフが鮮やかだった。「あれからずいぶん太っちゃって」。6年前は「狙われるから」と写真撮影を拒んだが、今回はカメラに穏やかな笑顔を向けてくれた。法律家として、いまは企業や政党向けの法律相談の仕事をしているという。

■処刑寸前、イチかバチかの賭け

6年前、アントニダの身に起きたことは、私の想像を超えていた。
投票日前日、路上で複数の親ロシア派の男たちに取り囲まれて殴られ、車で郊外のガラス製造工場に連れ込まれた。選管の公印を奪うためだった。長い時間待たされた後、「尋問はない。お前を撃つ」と宣告され、鍵のかかった「処刑室」の前へ連れて行かれた。「殺される」と思ったアントニダは、男たちがロシア正教の教会の前で十字を切っていた姿を思い出し、とっさに「私も信者だから助けて」とでまかせを言った。実際は、その教会の聖職者と面識があっただけ。イチかバチかの賭けだった。男たちが確認の電話をする。電話口の向こうで、聖職者が「確かにうちの信者だ」と言ってくれたことで、男たちは処刑を取りやめた。「私を生かすメリットがあると思ったのか。それとも、ただ良心のある人だったのかもしれない」
解放された時、男の一人に性的暴行を受けそうになった。別の男が「命令にないことはするな」と止めて事なきを得たが、恐怖で3日間、家に戻れなかった。 彼女の話を聞いている間、カフェの後ろのテーブルで、子どもの誕生日パーティーが開かれていた。春の到来を祝う伝統の日で、町はお祭りムード。平和が戻ったみたいね?そう尋ねると、アントニダは首を横に振った。町の25キロ南には親ロシア派との停戦ラインがあり、今も散発的に戦闘が起きて銃声が響く。拉致に関わった男たちは刑事罰にも問われず、タクシー運転手などとして、いまもこの町に暮らしているという。

■「墓場」のような町で武器を取る人々

「10代の頃は、ここで恋人とダンスを楽しんだのよ」。アントニダがソ連時代からの娯楽施設だった建物に連れて行ってくれた。神殿風のファサードを彩っていた青いタイルははがれ、辺りにはゴミが散乱している。ずっと前に閉鎖されて野ざらしになっていたのが、戦闘でさらに傷んだ。それでもアントニダにとっては、甘酸っぱい思い出の場所だ。
炭鉱地帯にあるリシチャンスクはソ連時代、工業の中核都市として栄えた。ソ連崩壊後に工場が次々に閉鎖され、国有炭鉱も半減した。寂れた町に失業者やホームレスがあふれ、アルコールや薬物依存も深刻だ。そこに紛争が追い打ちをかけた。仕事を求めて、敵対する隣国ロシアへ出稼ぎに行く住民も多い。バス代はキエフに出るより安いのだという。
「この町は墓場のよう。こんな景色の中で育って、どんな将来の夢を描ける? 政府が憎いというのではなく、こんな暮らしは嫌だという思いが、人々に武器を取らせたのだと思う」

アントニダはウラル山脈ふもとの旧ソ連(現ロシア)の都市ペルミ生まれ。3歳の時に家族でウクライナに越してきた。キエフ国際社会学研究所によると、東部地域では8割以上がロシア語を母語とするが、彼女はこの6年間封印している。「ロシア語を話す人をロシアは守る」と言うプーチン大統領に反発してのことだ。それでも、町を離れるつもりはない。20年以上前に離婚した前夫に今も食料や薬を差し入れている。元炭鉱夫で、1986年に爆発事故を起こしたチェルノブイリ原発の解体作業に携わった後、心臓発作を繰り返して身体障害者になった。近くに暮らす40代の一人息子は、石油精製プラントの技師の職を失って久しい。「ウクライナ人は家族を見捨てないのよ。私のモットーでもあるの」
別れ際、アントニダに思い切って尋ねた。幸せって、なんだと思う? 「家族が健康で、将来に展望が抱けること。今はどちらもないけれど……。今度会うときまでに探しておくね」。そう言って、私を強く抱きしめてくれた。(つづく)

【次の記事】ウクライナ危機では、多くの人がふるさとを離れ、避難や転居を余儀なくされました。その中には、旧ソ連時代の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故で故郷を失った人もいました。
【ウクライナの女たち②】私はふるさとを2度失った チェルノブイリと紛争

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ミレニアルやZ世代は#BlackLivesMatterをどう受け止めた

2020年6月18日 15:00 朝日新聞GLOBE+

その日は30度近く気温が上がった暑い日で、新型コロナのために自宅待機が続くわたしも近所の人たちも、窓を開けて家で仕事をしていました。最近は異常気象で例外が増えてきましたが、夏でも冷涼なので冷房がない一般家庭がこのあたりでは多いのです。そんな中、自治体からの「二日間の夜間外出禁止命令(curfew)」の通知がスマートフォンに入り、一斉に鳴ったアラートが窓越しからも聞こえてきました。
アメリカ、ミネアポリスで警官から首を膝で押さえられて死亡した黒人のジョージ・フロイドさんの事件で、黒人差別や黒人に対する警官の暴力に抗議するデモが拡大しました。一部で火災が発生し、店舗が攻撃され、略奪や暴動の過激化が続いており、夜間外出禁止命令は、それを受けてのことでした。

これまでも何年かに一度は同じような事件が起こり、その度に大きく報道されたり、デモが実施されたりすることで黒人差別を意識する機会は何度もありましたが、今回大きく異なるのは抗議運動の規模です。
ソーシャルメディアを通じて、一人の黒人男性が8分46秒にわたって白人の警官に膝で押さえつけられて殺されていく様子が動画で拡散されました。広告が画像から動画マーケティングに移行しているように、文字だけよりは画像、画像よりは動画の方が音と動きを通じて多くの情報が脳に到達し、記憶に残ると言われています。人々が怒りと痛みを感じたのは、この強烈な動画の影響が大きいと思います(ニューヨークタイムズがまとめたビデオはこちら。ワシントンポストがまとめたビデオはこちら。
暴力シーンや残酷な場面が含まれています)。
アメリカでいま起こっているBlack Lives Matter 黒人の命も大切)ムーブメントを理解する第一歩は、これらの映像を通じて痛みを実際に感じることなのかもしれません。
人々は暴力的映像を通じ、怒り、痛み、恐怖、理不尽さを感じ、黒人差別撤廃に共感しました。そして、多くの人が夜間外出禁止など具体的に影響を受けることで、ぐっと事件が身近になりました。その中でも、強い憤りを感じ、行動を起こしたのは、まっすぐで、正義感がより強い、Generation Z (8-23歳)、そしてMillennials (24-39歳) 世代です。彼らの世代の多くがユーザであるTikTok や Instagramでハッシュタグ#BlackLivesMatter(黒人の命も大切)とともに、ショートビデオや画像がつぎつぎと投稿されました。それらのバイラル化のスピードと投稿数の多さには圧倒されるものがありました。

音楽のマーケティング担当者たちが人種差別への抗議と黒人コミュニティーへの連帯を呼びかけた「Blackout Tuesday(ブラックアウト・チューズデイ)」は、事件があった翌週の火曜日に行われ、ハッシュタグ#BlackoutTuesdayを使用したInstagramのポスティングは東海岸時間の午前中の時点で1460万件を超えたそうです。たくさんの人が四角い黒塗りの画像を次々と投稿し、私のフィードは真っ黒の海のようでした。この日は暴動やデモが盛んに行われていた日だったので、黒一色の画像があふれかえったためにもっと有益で伝えられるべき情報が埋もれてしまった、もしくは投稿されなかった、という批判も後になって浮上しました。
ソーシャルメディアでこれだけ爆発的に投稿が繰り返されたのは、コロナで学校もオンラインとなり、自宅から出られない時間が長く、ソーシャルメディアで繋がる生活が続いていた側面はあったと思います。

Black Lives Matter ムーブメントについて私の周囲にいる10歳から25歳の黒人も含めた若い世代の人たちに意見を聞いてみました。サンフランシスコ、シリコンバレーはリベラル人口が多いエリアで、広いアメリカでは別のエリアになるとまた違う傾向となるのなのかもしれませんが、全員が何らかのカタチで抗議活動に参加していました。
「沈黙は犯罪」「沈黙は暴力」「沈黙は共犯」といった投稿が多く出回り、それが友達やフォローしているセレブリティからのものであると、プレッシャーを感じて自分も投稿を始めたという人や、手作りのマスクやパンやケーキを作って売ったお金を黒人コミュニティに寄付する活動を始めた高校生もいました。デモには「友達が行くから一緒にいった」と言う人もいましたし、「自宅待機が続いていて退屈だったから参加した。世の中の人が何に怒って、何がどうなっているのか、自分の目で確認したかった」という人もいました。ボストンにいる30歳の白人女性は、黒人が警察に殺される比率が高いことに本気で憤りを感じていて、デモ抗議に2回参加し、そのうち一回は8分46秒の間、地面に片膝を付いて抗議した、とのことでした。

私の住んでいる街の抗議デモは高校生の女の子が企画して実施されました。私の11歳の娘も参加を熱望していましたが、暴動に巻き込まれる可能性があったのと、何よりコロナが完全に収束しているわけではないので、そこでクラスターが発生したらという懸念がありました。娘はプリプリ怒っていましたが、参加を許可しませんでした。参加させて自分の目で見て感じさせることは大事だったのかもしれません。今でも迷うところです。周辺の店は早々に店じまいし、万が一に備えていましたが、結局、警察がエスコートし、デモは平和的に行われたそうです。

ソーシャルメディアの#BlackLivesMatter の投稿もかなり落ち着いてきました。「これだけの人がデモで動いても状況が一気に変わるわけではないよね。怒ったあとは、建設的で、長期的な取り組みがきっと必要になるよね。Now What? 」と娘も含めて周囲の若者に尋ねると、「差別問題については自分もまだ分かってないし勉強する余地があるから、リサーチを始める」と答える人もいました。私自身もさらに理解を深める必要性を実感しています。

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世界トップ選手はカタールに通う 中東の小国、スポーツ政策を売りに存在感 

2020年6月18日 12:00 朝日新聞GLOBE+

2022年サッカーワールドカップ(W杯)の開催国カタールに、世界トップ選手が通う特殊な医療施設がある。スポーツ政策を前面に出す小国がつくった誰もがうらやむ場所とは。
秋田県よりやや小さい面積ながら、液化天然ガスの輸出で潤うカタール。首都ドーハではスタジアムや地下鉄、ホテルなどの建設ラッシュが続く。中東で初めて開催する2022年のW杯に向けた準備が進んでいるのだ。
政治的理由から、サウジアラビアなど周辺国との断交が約3年続くカタールにとって、スポーツは国の知名度を上げ、国際社会にアピールする切り札の一つだ。ガスや石油以外の産業の発展につながる期待もある。W杯はこれまで、欧州の主要リーグが休みとなる6~7月に開くのが慣例だったが、カタールの日中気温が40度以上となる真夏を避けるため、日程を異例の11~12月とし、スタジアムには冷房を完備して臨む。
カタールのスポーツ界にとって19年は充実の年だった。サッカーのアジアカップでは、男子代表が優勝経験4度の日本を破って初優勝。9~10月には陸上の世界選手権を開催し、大規模大会の実績を重ねた。そんな華々しい行事の陰で、カタールの新たな「顔」として着実に世界に浸透してきた施設がある。07年設立の専門整形外科とスポーツ医学の病院「アスペター」だ。

■「人体」使ったドクター研修

ここでは検診や手術からリハビリ、競技力向上まで1カ所でまかなえる。国際サッカー連盟(FIFA)が最高位のスポーツ医学病院と評価し、国際オリンピック委員会(IOC)は故障防止などのリサーチセンターに指定する。
昨年9月、取材の許可を得て現地を訪ねた。W杯の会場の一つハリファ国際スタジアムの近くで、建物面積は2万9745平方メートル。外観はシンプルで特別な感じはしない。
だが、ドアの向こうは別世界だった。こぎれいなロビーにはさまざまな人種の人がいた。70以上の国・地域から集まった約800人の専門家集団が働き、アキレス裂や股関節、軟骨組織やせき・ずいの問題など、アスリートの悩みに対応している。広報担当のライズ・フォディルは、「ここには世界トップクラスの設備と専門家がそろう」と誇らしげだ。
館内を案内してもらうと、次々と最新機材が出てきた。リハビリエリアでは、使う人の体重を約90%軽い状態にし、体にかかる負荷を減らしてトレーニングできる反重力トレッドミルが目に入った。水の浮力や水圧などを利用した水中運動が可能なプールもある。
別棟にはベッドが入った低酸素室が25部屋も備わっていた。標高500メートルから4500メートルの環境と同じ設定で高地トレーニングができ、けがからの回復目的でも使える。別の一角には「動作解析ラボ」があった。トレッドミルで歩く姿をもとに、足への負担を細部まで分析。故障の再発を防ぐため、個々に合ったリハビリ用シューズを10分ほどで作ることができる。
専門家の出身地はベルギー、ギリシャ、オーストラリア、マレーシアなどさまざま。「権威」と呼ばれる人も多い。男子のリハビリを担当するスロベニア出身の理学療法士マルティナ・ジェイコブ・エマジは、「世界中の専門知識や新しい情報が自然と集まる。結集した知見で患者を診ることで、医療技術はどんどん進化するし、私たち自身も勉強になっている」と熱く語った。
ドクターの卵が腕を磨くための、驚くべき研修も用意されている。ここでは肩やひざ、足首などの手術の練習に「人の体(遺体)」を使うことを、国が認めているのだ。

■多国籍・他競技の選手が交流

よそにはない設備と人材は世界の一流アスリートを引き寄せる。昨年9月までに検診目的で訪れた選手は累計1万8000人以上。来院した患者はそうそうたる顔ぶれだ。米プロバスケットボールNBAのジョエル・エンビード(セブンティシクサーズ)は骨折した足のリハビリにやって来た。陸上男子400メートルの世界記録を持つウェード・ファンニーケルク(南アフリカ)は帯(じんたい)断裂した右ひざのリハビリで利用。「世界トップのサービスを受けた」と絶賛する様子が同院の広報誌に掲載された。
検診に訪れる選手も多い。昨年3月にはサッカーのブラジル代表ネイマール、12月にはフランスの新星キリアン・エムバペ(ともにパリ・サンジェルマン)も姿を見せた。

続々とやってくる著名選手にも、レバノン出身のナース長ネリー・ハリルは驚かない。「最近は年間100カ国ほどから患者が来ている。サッカーの18年W杯ロシア大会で笛を吹いた審判も全員検診に来ましたよ」
施設内には食堂や入院患者用の部屋も完備。空港に到着さえすれば、送迎も任せられる安心感も好評の理由だろう。
広報のフォディルによると、「過去に日本から働きに来たスタッフもいた」という。17年には日本サッカー協会会長の田嶋幸三も視察した。取材した私も、一人でも多くの医療関係者に来院して欲しいと思った。治療や故障防止、リハビリなど、国によって違うアプローチは日本選手の競技人生に役立つと確信するからだ。
選手にも来訪を勧めたい。同じ空間でリハビリをするだけで、普段は会えない人と話すチャンスがある。プロサッカー選手と五輪代表がリハビリエリアで話し込んで親交を深める。体の使い方やケアの方法を教え合う。国や競技の垣根を越えた交流が頻繁にあるという。
19年の陸上世界選手権の組織委員会副会長だったダーラン・アル・ハマドは言う。「アスペターは我々の誇り。海外の関係者にぜひ足を運んで取り組みを知って欲しい」。日本のスポーツ界発展のため、まずは現場を感じてほしい。門戸は開かれている。(ヨーロッパ総局 遠田寛生)

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