通算6度目のワールドカップが目前に迫っている日本代表。ロシア大会は初出場となった1998年のフランス大会から20年の節目でもある。そこで過去の日本代表ユニフォームを振り返ってみよう。今回は炎モデル!
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日本代表 炎モデル
炎モデルとは、1996年から99年にかけて使われたユニフォームの通称名。W杯初出場という「次への扉」を開いたユニフォームだ。不動明王が背負う炎「迦楼羅炎(かるらえん)」をモチーフにした柄を両袖にあしらい、全体にも透かしでプリントしている。
ユニフォームはPuma、adidas、asicsの3社が合同で開発し、持ち回りで担当。そしてドーハモデルと同様に、各年代ごとに担当サプライヤーが異なる複雑な方式だった。
この袖の「炎」だが、ある時期を境に形と大きさが変わっている。
炎モデルは、まずPuma製が96年のキリンカップから使われているが、残念ながらPuma製キットの画像は用意できなかったので非掲載。ここではasics、adidasの各キットを紹介しよう。
日本代表 1996年モデル(アトランタ五輪)
メーカー:asics
A代表がPuma製のキットを使っていた頃、西野朗監督が率いた五輪代表はasics製を着用していた。写真はベベト(ブラジル五輪代表)とマッチアップする鈴木秀人。あの「マイアミの奇跡」での一場面だ。
炎モデルからエンブレムは新デザインを採用。色はドーハモデルでは白/赤/白のストライプだったが、黄/赤/黄に変更となった。
襟とソックスには共通の模様をデザイン。パンツにも炎をあしらっている。写真は同じくブラジル代表戦での前園真聖と中田英寿。
上村健一のバックショット。ネームとナンバーでは色が異なるという珍しい仕様だった。
GK川口能活が着用したユニフォームのネームは黒、ナンバーは白だった。
日本代表 1997年モデル(W杯アジア最終予選)
メーカー:adidas
フランスW杯アジア最終予選を戦った97年のユニフォーム。チームはadidas製のキットを着て厳しい予選を戦い抜き、第3代表決定戦でイラン代表を下して「ジョホールバルの歓喜」を迎える。
持ち回りでPumaから引き継いだが、デザイン上の変更はない。メーカーロゴはストレートにadidasと表示。シャツ全体の炎の透かしプリントの様子がよく分かる。井原正巳はキャプテンとしてチームを牽引した。
GK川口のユニフォームは五輪時代から継続して緑を基調。
このモデルまで、大きめの炎を袖にぐるっと一巻きするようにプリントされていた。当初は違和感を覚えた炎のデザインだが、「マイアミの奇跡」や「ジョホールバルの歓喜」もあり、次第に良いイメージが定着する。
日本代表 1998年モデル(フランスW杯)
メーカー:asics
ついにワールドカップ初出場を果たした日本代表。日本中が固唾を飲んで見守ったアルゼンチン代表との初戦のユニフォームは、上から「青-白-白」の組合せとなった。
98年のasics製は袖の炎が小さくなり、よりシンプルに配した。胸元もデザイン変更して開襟を採用している。このようにマイナーチェンジしているため、98年のユニフォームは「炎2期」や「炎モデル2」のような呼ばれ方をする。
エンブレム下には「FIFA WORLD CUP FRANCE 98」をレタリングしている。
98年モデルはパンツの裾に青いラインをあしらい、ソックスにはメーカーロゴが入る。中田とマッチアップするアルゼンチン代表の5番はマティアス・アルメイダ。両者は後にパルマでチームメイトとなる。
フランスW杯第2戦はクロアチア代表と戦い、0-1で敗戦。日本代表のユニフォームは上から「青-青-青」とオール青だった。クロアチア代表の20番はダリオ・シミッチ。
第3戦のジャマイカ代表戦は「青-白-青」の組合せ。つまりこの大会では同じパターンが存在しなかった。ジャマイカ代表には1-2で敗れたが、日本代表史上初のW杯ゴール(そしてフランス大会唯一のゴール)を中山雅史が決めている。
炎といえば、“炎のゴールキーパー”川口能活のユニフォームのインパクトは大きい。フランスW杯のキットは黒を基調とした、まさに燃えているようなカラーリングが印象的だった。
このGKキットは海外でも評判が良く、今でもオークションサイトでは高値で取引されることも。
日本サッカー界全体が右肩上がりだった時代に登場した炎モデルは、99年3月のキリンカップ(対ブラジル代表戦)を最後に、その役目を終える。