不惑が間近に迫る年齢になりつつも、変わらず戦い続ける1980年生まれのアスリートたちに、スポーツライター二宮寿朗氏が迫るこの連載。
中村憲剛選手、田臥勇太選手、館山昌平投手、大黒将志選手、玉田圭司選手、木村昇吾選手に続く7人目のアスリートは、福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手です。
初回は、昨年までのケガを乗り越えて、今年、復活の勝利を挙げた和田選手の試練を乗り越える考え方についてのストーリー――。
自分と人を信じ抜く力があるから、ソフトバンク和田毅は試練に強い!
「タマホーム スタジアム筑後」にて。ユニフォーム姿、グラウンド、マウンドが誰よりも似合う。(撮影/熊谷貫)
◇同世代の松坂大輔、新垣渚らスターとは比べるまでもなかった高校時代
マウンドに戻ってくるたびに輝きを帯びる。
福岡ソフトバンクホークスの左腕、和田毅は待っていたファンの期待を裏切らない。
8月12日も、そうだった。ヤフオクドームでの北海道日本ハムファイターズ戦。右太もも裏痛から約3週間ぶりに復帰した彼は、立ち上がりを3者連続三振に抑えた。
コンパクトな腕の振りから繰り出す伸びのあるストレートは、バチンと乾いた音を立ててキャッチャーミットに収まる。左手をクルンと回した小さなガッツポーズは、心の躍動をも映していた。5回86球1失点での勝利投手。ホークスの「21番」にはヒーローインタビューのお立ち台がやっぱりよく似合う。
その10日ほど前、福岡・筑後市のファーム施設で復帰に向けて入念に調整する彼の姿があった。炎天下のグラウンドを黙々と走り、その後もフィジカルトレーニング、フォームのチェックとたっぷりと汗を流していた。
己に向き合いつつも、トレーニングの合間には何かを確認するようにコーチやトレーナーとコミュニケーションを密に取っていく。一分一秒を無駄にしない、妥協しないという姿勢は見ているほうにもビシビシと伝わってくる。
和田毅は言うまでもなくホークスの大看板だ。
早大のドクターKは03年に自由獲得枠でホークス入りを果たした。新人王を獲得した1年目から5年連続で2ケタ勝利を挙げ、7年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた10年は17勝で最多勝タイトル、リーグMVPを獲得した。翌年、16勝を挙げてリーグ2連覇、そして日本一を果たした。メジャー挑戦を経て16年シーズンに復帰すると再び最多勝タイトルをもぎ取っている。
しかし高校時代の彼は、同世代の松坂大輔、新垣渚らのスターと比べるまでもなく、目立った存在ではなかった。島根・浜田高時代は2年生で夏の甲子園に出場も初戦敗退。翌年、ベスト8まで進んだものの、最速120㎞台のピッチャーにプロ志望などなかった。
だが早大進学後に野球人生が変わる。1年、秋のリーグ戦からスピードは140㎞台を計測するようになり、次第に頭角を現すようになっていく。このターニングポイントに、和田のアスリート哲学を知ることができるのかもしれない。
「今でも走ることに抵抗は一切ないんです。若い選手より全然走れる自信はありますよ」との言葉の通り、35℃を超える猛暑の中、ひとりもくもくとサブグラウンドを走る姿が印象的だった。(撮影/熊谷貫)
◇学生トレーナー土橋との出会いと二人三脚で、大学野球史に残る大エースに成長!
早大1年時の夏、同い年の学生トレーナーに出会った。ブルペンで投球練習を見ていたそのトレーナーから「140km出るんじゃないか?」と言われたことがきっかけだった。
和田が述懐する。
「最初は“何言ってるの?”と思いましたよ。元々130kmも出ないので“俺のこと知らないんだろうな”と。冗談に聞こえたんですけど、彼を見たら真顔でした。そして『普通に出るよ』と言ってくれました。僕のなかでも限界というか、これ以上は伸びないと思っていたので、どうせだったら出してみたいなって思うようになって。僕の目標は大学4年間で1回でもいいから早慶戦のマウンドに立つこと。それに向けてやってみようって思いました」
学生トレーナーの名は、土橋恵秀。これから先、ずっとパートナーを組むトレーナーになるとはお互いに思っていなかったであろう。特に実績があるわけでもない同学年の学生トレーナーの言葉を和田は疑うことなく信じた。
4年には藤井秀悟、3年には鎌田祐哉、1つ上の2年には二浪の末に入学した江尻慎太郎と、それぞれの学年にプロから熱視線を浴びるピッチャーがいた。注目される先輩の陰に隠れて「ある程度好き勝手やらせていただきました」と彼は笑う。
土橋トレーナーのもとで腰の骨盤を一気に回転させていくフォームの改造に着手した。グラブを持つ右腕をどう使うかなど来る日も来る日もコミュニケーションを重ねながら一緒につくり上げ、わずか2カ月後には夢の140km台に届くようになっていた。
聞く耳を持ち、やるなら徹底的に。
決心貫徹。
なぜそれができたのか。和田は柔らかい笑みを浮かべて言った。
「当時の僕は筋肉がどう動くとか骨がどうとかそんな知識もない。信じて、考えて、一生懸命にやるしかない。もし(着手した)その投げ方で肩やひじが壊れてしまったら、それまでの選手でしかなかったということ。それに大学を卒業したら教員になって高校の指導者になりたいと思っていましたから。ダメだったらスッパリ(野球を)あきらめられる。腹を括ったわけじゃないけど、そんな気持ちでしたね。自分の能力が優れてないと分かっているからこそ、努力するしかなかった。逆に努力したら、スピードが出るようになるんだなって実感を持つことができました」
思考と努力。それがあれば求めているものを得ることができる。この得難い経験が、和田の基本姿勢の柱となっていく。
2000年、2年生の春季リーグでは140km台のスピードを手にして先発に食い込んだ彼ではあったが、新たな課題も持ち上がった。それはスタミナ不足だ。フォーム改造の次は、肉体改造に迫られた。和田と土橋の出した答えは「走る」だった。
ここでも徹底的にやろうとする和田がいた。ゴールデンウィークは朝9時からお昼休憩を挟んで夕方5時まで走り続けたと明かす。まるでマラソン選手ばりだ。
「体も大きくないので、ウエイトトレーニングをやっても重いものがなかなか上がらない。“じゃあ走るしかない”って、走ることに関しては誰にも負けたくないっていう思いで始めたんです。それからスタミナもついて、完投もできるようになって……。土橋も、走り込むのは大事だと言っていました。走り込んでおくことが将来のためにもなる、と。当時は本当によく走ったと思います。だから今でも走ることに抵抗は一切ないんです。若い選手より全然走れる自信はありますよ。走るスピードでは勝負できないですけど(笑)」
この年の6月、アメリカで開催された日米大学野球選手権の日本代表メンバーに選出された。石川雅規、久保裕也、山田秋親ら後にプロ野球入りするピッチャーがそろう中、九州共立大に進学した新垣もいた。同世代のスターに頼んで記念撮影したことを昨日のように覚えている。「このときはまだお客さんみたいな感じ」と、代表にたまたま入ったくらいの位置づけだった。
思考と努力が、その立場も変えていく。
教員の目標はいつしかプロ野球選手になる夢を描くようになる。大学4年になると、江川卓の持つ東京六大学の奪三振記録を塗り替え、早大を52年ぶりとなる春秋連覇に導いた。押すに押されぬ早大のエースに成長し、松坂世代の注目株になっていくのである。
取材は復帰を目指して調整中の8月1日。屋内練習場でも、自分の体と向き合い、ひとつひとつ集中してトレーニングにのぞむ。(撮影/熊谷貫)
◇プロでの活躍と長いキャリアを経ても、聞く耳を持つ大切さを忘れない。
あの投球フォーム改造から20年。
様々な栄光を手にしても、誰よりも努力しようとする姿は変わらない。土橋トレーナーとの出会いのように、誰よりも聞く耳を持とうとすることを忘れない。
昨年、春季キャンプで左肩に違和感を覚え、一軍から離れた。初めて痛める箇所、骨がぶつかるような感覚だった。チームのトレーナー、スタッフと相談しながらリハビリメニューをこなした。あらゆる治療も試した。それでもなかなかうまくいかない。秋からは血小板を使用して組織の修復、再生を促すPRP療法に踏み切った。一軍での登板はゼロに終わったものの、復帰を信じてやみくもに懸命に取り組む姿勢が快方に導いていく。いろんな人の意見や情報をもらいながら、彼は投手生命の危機を脱したのだった。
今年の6月23日、セパ交流戦天王山。和田は先発のマウンドに登った。巨人を5回1失点に抑える力投。伸びのあるストレートは健在だ。交流戦優勝が651日ぶりの勝ち星となった。
和田は言う。
「正直、何かのおかげで(肩が)治ったというよりはやってきた全部のおかげ。(メンタル的に)波はありましたけど、ケガの途中は“もう治らないな”とあきらめるんじゃなくて、“だったら次は何をやればいいだろう”っていう考え方でした。トレーナーさんにも『次は何をやればいいかな?』とかしょっちゅう聞いていたんで、すごく悩ませていたのかもしれない。一理あるなと思ったものは、すべて取り入れてやっていましたから」
立ち止まるのではなく、走る。閉ざすのではなく、開く。
ケガとの戦いでも彼は前向きに思考を走らせようとした。前向きに周りとコミュニケーションを取ろうとした。やるなら徹底的に――。
和田毅は試練に強い。
自分を、人を、信じるから強い。
(第2回に続く)
わだ・つよし/1981年2月21日生まれ、島根県出身。福岡ソフトバンクホークス所属。
浜田高校から早稲田大学に進学。4年次にはエースとして52年ぶりの春秋連覇達成に貢献。2003年、福岡ダイエーホークスに入団するや14勝で新人王の活躍、日本シリーズでは新人ながら胴上げ投手に。12年海外FA権行使し、ボルチモア・オリオールズに移籍。16年より福岡ソフトバンクホークス復帰。6年ぶりの最多勝利と最高勝率を鮮烈な復帰を飾る。
日本での通算記録は、130勝69敗。防御率3.13。(2019年9月3日現在)
その他最新情報は球団公式サイトでチェック! ◆https://www.softbankhawks.co.jp/