2016年1月に北朝鮮を旅行中に当局に拘束された22歳の米国人大学生オットー・ウォームビアが、2017年6月に脳に深刻な損傷を受けた昏睡状態で帰国し、死亡した。いったい何が彼の身に起きたのか?米版『GQ』がその真相に迫った。
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2016年2月29日、平壌市内で記者会見を行うオットー・ウォームビア。展示物を持ち帰ろうとしていたことを認めて涙ながらに謝罪した。
変わり果てた姿での帰国
2017年6月13日、22歳の大学生オットー・ウォームビアを乗せた救命飛行機が、オハイオ州シンシナティの空港に着陸した。2015年末以来、じつに1年半ぶりの里帰りだ。両親のフレッドとシンディは、息子が昏睡状態にあると聞かされていた。けれどもアメリカの高度な医学と両親の愛情があれば、オットーはきっと元の元気な姿を取り戻してくれるに違いない、とそのことに一縷の望みを抱いてタラップを上る父・フレッドが耳にしたのは、人間とは思えない野獣のような咆哮だった。オットーの四肢は反射的に激しく痙攣するように動いていた。妹が悲鳴をあげてタラップを駆け下りる。フレッドは息子を抱きしめたが、オットーの目は見開かれたまま焦点が合わず、何を語りかけても反応がなかった。母シンディは衝撃を受けながらも覚悟を決め、夫とともに、病院に向かう救急車に同乗した。ここまで変わり果ててしまったなんて……。痛ましいわが子の姿を見ると、気絶してしまいそうだった。
ことの起こりは、北朝鮮へのツアーだ。2016年の年明けを平壌で迎えるパックツアーに参加したオットー・ウォームビアは、宿泊したホテルで額縁入りの政治宣伝ポスターを盗もうとしたかどで北朝鮮当局に拘束された。その後、2月29日の記者会見で敵対行為を認めて謝罪したものの、3月16日に労働教化刑15年の判決を受けた。ウォームビア夫妻は何度もワシントンを訪れて陳情し、当時のオバマ政権も水面下での接触は試みていたのだが、実りのないままに時間ばかりが流れていった。
2017年6月はじめに事態が劇的に動いた。オットーが昏睡状態にあることが北朝鮮から通知されたのである。寝耳に水の知らせに驚いたトランプ政権は、交渉担当者や医師を乗せた飛行機を事前調整なしで北朝鮮に向かわせ、ぶっつけ本番の交渉で若者の身柄引き渡しを成立させた。
オットーが意識を取り戻す見込みはなく、ウォームビア夫妻は栄養補給チューブを外してほしいと述べ、帰国から6日後に若者は死去した。これ以上息子を苦しませたくないという理由から、検死解剖をも夫妻は拒み、体内への器具の挿入を必要としない非侵襲の脳スキャンが実施された。
それにしてもなぜ、オットーは植物状態になったのか? アメリカ政府のある高官は、情報機関からの報告を根拠として、彼がくり返し暴行を受けていたことは疑いないと言い切った。いっぽう北朝鮮は、ボツリヌス菌への感染と睡眠薬の服用への予期せぬ反応によって昏睡状態になったと主張したが、アメリカの多くの医師が感染の兆候はないと口々にそれを否定した。いっぽうウォームビア夫妻は、「腕や脚が完全に変形していた」「右足に大きな傷があった」「下顎の歯列をペンチで並べ替えようとした痕跡があった」として、息子は北朝鮮から系統的な拷問を受けていたのだと訴えた。トランプ大統領も夫妻の主張を擁護し、北朝鮮への強硬姿勢を次々に打ち出した。オットー・ウォームビアの悲劇をめぐる国民的義憤を煽りつつ、軍事的圧力の強化へと世論を動かした。
この事件は当時盛んに報道されたが、当のオットーが意識を失ったまま帰国し、ほどなく死亡したために、真相の核心部分は不明のままだ。そこで私は6カ月をかけてワシントンやソウルで取材を重ね、多くの当事者から話を訊いて、真相を突き止めようとした。
前途有望なアメリカ人青年が垣間見た「地上の楽園」
オットー・ウォームビアはオハイオ州シンシナティで共和党支持の両親のもとに生まれた。州内トップランクの高校を次席で卒業し、ヴァージニア大学の奨学金を得て、3年生の秋には金融業界でのインターンも経験、銀行員としての輝かしい将来を夢見ていた。サッカーや水泳などのスポーツも万能で、身体に障害のあるクラスメートと一緒にバスケットボールの観戦に出かけるなどする一面もあり、パーティーではいつも主役の人気者だった。アメリカ人青年の大学生活を描いた青春映画の主役そのままのような日々を送っていたのだ。
2016年1月からの留学が決まっていたオットーは、クリスマス休暇を利用してその途上に北朝鮮を旅することにした。ヤング・パイオニア・ツアーズという中国の旅行会社の4泊5日のパックツアーに申し込み、北京の空港からソビエト製の老朽ジェット旅客機に乗りこんだ。
北朝鮮は人民の脱北を厳しく取り締まるいっぽうで、年間数千人規模の外国人旅行客を受け入れ、厳重な監視付きのツアーを実施している。制裁で痛めつけられた同国経済には、それが貴重な外貨獲得源ともなっているのだ。
ツアーにはカナダ人やオーストラリア人、ヨーロッパ人に加えて、オットー以外に少なくとも1名のアメリカ人がいた。平壌に着いてすぐに連れて行かれたのが、領海侵犯のかどで1968年に拿捕された米海軍の情報収集艦プエブロ号のところだった。82名の船員が暴行と空腹に苦しんだ果てに11カ月後に解放された事件だと北朝鮮側からの説明を受けたあとで、「オットーはいささかショックを受けたようだった」と、ツアー中に彼のルームメイトだったダニー・グラットンという40歳前後のイギリス人男性が語った。アメリカの力の及ばない敵対国の領域に自分たちがいることを思い知ったようだったというのだ。
けれども、ツアー客へのもてなしはあくまで丁重だった。一行は北朝鮮のミサイルがホワイトハウスを破壊する構図の宣伝画の前で記念写真を撮り、現地の子どもたちと雪合戦を楽しんだ。国外向けのショールームのような平壌の街の外に飢餓の村々があることは皆が知っていたが、怖い物見たさの興奮が一行を包んでいた。オットーには「帝国主義者」というあだ名がつけられ、「よう、帝国主義者。ビールもう一杯どうだ?」というような軽口が酒席で交わされた。
ツアーの宿泊先は、47階建ての「羊角島国際ホテル」だった。大同江の中洲というロケーションから「悦楽のアルカトラズ監獄」とも揶揄されるが、建物内には5つのレストラン(そのうち1つは回転展望台)にマッサージパーラーやバー、ボウリング場まである豪華なホテルだ。2015年の大晦日、一行はホテルのバーで夜遅くまで飲み、その後、何千人もの北朝鮮人と平壌市内のメインスクエアでカウントダウンを楽しんだ。ルームメイトのグラットンはその後、オットーと別れてボウリング場に行き、午前4時半に部屋に戻ると、オットーはベッドで高いびきを立てていた。
1月2日、ツアー客たちは帰りの便に乗るために空港に向かった。出国手続きを待つ列の最後にいたのが、ダニー・グラットンとオットー・ウォームビアだ。オットーの番になると、係員が書類をやけに丁寧に調べだし、やがて2人の兵士がつかつかとやってきて、青年の肩を叩いた。せいぜい”帝国主義者”にお灸を据えるつもりでもいるのだろうとグラットンは考え、「ここであんたとは永遠の別れだな」とジョークを飛ばした。オットーも朗らかな笑い声で応えた。ルームメイトのジョークが現実になるとは夢にも思わずに。
グラットンが後からふり返れば、年明け直後の深夜、メンバーの誰ひとりとしてオットーの行動を把握できない空白の2時間があった。
北朝鮮当局は後に、人物特定の困難な人影が壁から額縁を外すさまをとらえた不鮮明な監視カメラ映像を公開した。当局の主張が正しいなら、あの空白の2時間にオットーはホテルの立ち入り禁止区域に忍び込んだことになる。だがそうではなく、お土産用の宣伝ポスターをオットーが買ったというだけの出来事から、北朝鮮がすべてをでっち上げたのではないか─そんな推測も、グラットンは語った。
目は見開かれたまま焦点が合わず、何を語りかけても反応がなかった。
オットー・ウォームビアの解放に至るまで
2016年1月2日、オバマ政権の北朝鮮人権問題担当特使のロバート・キングは、オットー・ウォームビアが拘束されたことを早くも知った。7年間の在職の間に12人以上のアメリカ人を解放してきたキングには事態がどう進展するのかが先読みできた。キングは、ウォームビア夫妻に連絡を取り、それまでの経験から「短距離走ではなくマラソンを覚悟してください」と夫妻に告げた。また、何をしでかすかわからない北朝鮮を下手に刺激しないために言動にも注意するようにと念を押した。
アメリカには北朝鮮との国交がなく、メールと電話を何週間も待つばかりというスウェーデン経由でのじれったい伝言ゲームをする以外に手はない。しかし、裏ルートがないわけではない。俗に「ニューヨーク・チャンネル」と呼ばれるのがそれだ。ニューヨークには北朝鮮国連代表部の公館があり、その人員が接触の窓口になるのだ。
この裏交渉を実際に担ったのが、敵対政権や犯罪組織に拘束された米国人の解放に関わる「グローバルエンゲージメントのためのリチャードソンセンター」の専任補佐官で、イスラエル軍空挺兵の前歴もあるミッキー・バーグマンだ。16年9月に彼は、北朝鮮の洪水被害者に対する人道的援助とオットーの解放について協議するという約束のもと訪朝し、北朝鮮当局と初の顔合わせを実現する。オットーが訪れたプエブロやレストランなどを4日間かけてまわり、最終日に北朝鮮外務次官の隣の席に座るときまで、バーグマンは肯定的な結果を期待していた。しかし、オットーに会うことはかなわず、北朝鮮側から返ってきたのは、「木を切り倒すには斧を100回振るわねばなりません」という答えだった。
そんな一見、取りつく島もない言葉の裏に、北朝鮮がオットー・ウォームビア解放の交渉条件を模索しており、秋の大統領選の行方を見守ってもいる気配をバーグマンは感じた。
そして2017年1月、トランプが大統領に就任し、オットーの解放交渉はロバート・キングから、韓国生まれのジョセフ・ユン北朝鮮担当特別代表に引き継がれた。ユン就任直後はオバマ政権との話し合いを依然として拒否していた北朝鮮だったが、物腰穏やかで切れ者でもあるジョセフ・ユンは「ニューヨーク・チャンネル」を通じて北朝鮮と接触し、綿密に根回しをして、4月までにはティラーソン国務長官に直接交渉を進言するまでの地盤固めを終えていた。ところが、6月になったところで突然、オットーが昏睡状態にあることが北朝鮮側から告げられたのだ。「まったくの青天の霹靂でした」とユンは語る。そしてトランプ政権は、事前交渉なしで救出チームを北朝鮮に送り込んだ。
ベテラン救急救命医師のマイケル・フルッキガーは、ジョセフ・ユンとともに平壌の空港に降り立った。病院2階の集中治療室に案内されると、オットー・ウォームビアが、鼻孔に栄養補給チューブを通され、青白い顔の昏睡状態で横たわっていた。その姿は写真で見たオットーとはまるで別人のようで、これは本当にオットー・ウォームビアなのかとフルッキガーは訝しんだ。オットーの耳元で手を叩いてみるが反応はない。そこに2人の北朝鮮人医師が説明に現れ、このアメリカ人青年が1年以上前に今と変わらない状態で病院に運び込まれ、幾度かの脳スキャンの結果、それ以前に深刻なダメージを脳に受けていたことが判明したのだと語った。さらに医師たちは、オットーがこの病院で万全なケアを受けていたことを証明する書類にサインしてほしいとまで求めてきた。フルッキガーはつかのま、それが解放交渉に有利に働くのなら自分を欺いてでもサインしようかと考えたが、よくよくオットーの状態を観察してみると、医師たちの言葉通りにオットーが手厚く看護されてきたことがわかった。これほど長期間植物状態にありながら、基本的な設備しかないにもかかわらず(部屋のシンクは機能しなかった)床ずれひとつなかったのだ。先進国の病院でさえ、床ずれには手を焼くというのに……。
その間にジョセフ・ユンは解放交渉を進め、オットーの身柄引き渡しがその場で決まった。
「あの青年がいなければ、この首脳会談が実現することもなかったのだから」
どうしてオットーは昏睡状態になったのか?
ウォームビア夫妻はオバマ政権への陳情を何度もくり返したが、成果はなかった。そこにトランプ政権が誕生したことで、潮目が変わる。ドナルド・トランプが観るに違いないFOXニュースの番組に夫妻は出演し、「ウォームビア家の戦略的忍耐の日々は終わった」「あなたなら状況を変えられる」と訴えかけたのだ。すばらしいインタビューだったとトランプはツイートで夫妻を称賛し、北朝鮮は彼を拷問したのだと明言して、対決姿勢を強めていった。そして2017年11月、「今日の我々の行動と考えはオットーとともにある」と述べたトランプは北朝鮮をテロ支援国家に再指定した。
だが、そうした動きに逆行するような反論が医療界からあがる。ウォームビア夫妻がテレビに出演してから10日後に、オットーの死に立ち会った検死官のひとりであるラクシュミー・サマルコという女医が記者会見を開き、彼が肉体的拷問を受けた痕跡は見当たらず、病院で手厚い看護を受けていたのは明らかだと語った。さらに、「歯をペンチで再配置していた」というフレッドの説明についても、歯列はきれいに整っていたと断言したのだ。そして脳については、心肺停止で酸素供給が断たれた場合に典型的に見られるように両側が等しくダメージを受けており、暴行によるものとは考えにくいと述べた。ならば何が真相なのかと記者から問われると、「その時その場に居合わせた者たちが進み出て彼の身に起きたことを物語る以外に、真相を知るすべはないのです」ときっぱり言った。
いったいどういうことなのか?
ひとつ言えるのは、たとえ肉体的拷問がなかったとしても、激しい精神的拷問にさらされることはありえるということだ。これまでに北朝鮮に拘束されたアメリカ人のうち、2人が自殺を試みている。2013年に敵対行為で15年の刑を言い渡された韓国系アメリカ人のケネス・ベは「囚われの身の上は寂しく、孤立無援で、ストレスの募るものです」と、北朝鮮による拘束の日々をふり返る。「全アメリカを一身に背負って裁判を受けているような心地でした」。毎日15時間以上の取り調べを受け、アメリカはお前を見捨てたと耳元で囁かれ続けるうちに、目の前が真っ暗になってしまうのだ。
北朝鮮で起こった出来事の真実を突き止めることは、アメリカの諜報機関でさえ苦労している課題だ。しかし、しばしば描写されているように、これはブラックホールなどではない。政府関係者や北朝鮮の脱北者、1996年以降、北朝鮮に拘束されていた他の15人のアメリカ人の経験を通じて(数名がオットーと同じ場所にいた)オットーが過ごしたであろう日々を述べることができるはずなのだ。
オットー・ウォームビアはつかのまの冒険のつもりで訪れた北朝鮮で労働教化刑15年という信じがたい判決を受け、銀行員としての前途洋々たる未来も、美しい彼女も一挙に失った。たしかに拘束したアメリカ人は北朝鮮にとって重要な外交カードで、プエブロ号事件を最後に暴力をふるわれた事例はないし、拘束した外国人はいずれ相手国に返さねばならない人質であることから、きまって手厚く保護される。しかし、だからといって彼らが拘束下にあることに変わりはなく、精神的に耐えがたい責め苦を受けないとは限らないのだ。
北朝鮮の医師たちが示した脳スキャン画像で一番古いのが2016年4月のものであり、オットー・ウォームビアが昏睡状態になったのはそれより数週間前であると思われる。3月16日の労働教化刑15年の判決と、ぴったり時期が符合するのだ。彼が絶望のあまりに自殺を試みた可能性も、そこから見えてこないわけではない。
経済制裁で追い詰められた北朝鮮は2018年になると「ほほ笑み外交」へと一転し、6月には米朝首脳会談が開かれた。その流れのなかでオットーの悲劇はホワイトハウスの中心課題から外れていき、トランプは金正恩への感謝の言葉すら会談後に述べた。オットー・ウォームビアに死をもたらした独裁者に感謝するとは何事かと記者から問われると、トランプはオットーの死が無駄ではなかったのだと繰り返し、最後にはこんな言葉で追求をかわしたのだ。「彼は何より特別な人物だ。あの青年がいなければ、この首脳会談が実現することもなかったのだから」。
文・ダグ・ボック・クラーク
米国生まれの作家、写真家。『GQ』のほか、『The New York Times』などで記事を執筆。ジャーナリズム活動による受賞も多く、2019年には、竹槍でクジラを狩る先住民族と過ごした3年間を記録した著書『The Last Whalers』が出版される。
EDITOR'S NOTE
この悲劇は事件当時、日本の一部メディアでも報道されていたが、今年6月に行われた米朝首脳会談の陰にすっかり隠れてしまった。北朝鮮への観光旅行に無邪気に旅立ったアメリカの一青年の運命に、どんな合理的な解釈ができるだろうか。