すごい男がいたもんだ! 話を聞きながら、昔流行した、ビールのコマーシャルのワンフレーズが、脳裏をかすめた。 遠藤光男氏、75歳。戦後、黎明期の日本ボディビル界を語る上で欠かすことのできない人物であり、まだ方法論が確立されていなかったウェイトトレーニングに、独自の合理的なメソッドを導入した、パイオニア的存在でもある。ここに示すのは、そんな知られざるヒーローの物語。
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レフェリーは「見よう見まねで」==
国際プロレスのレフェリーは、結局6、7年やっていました。最初は地方も行っていましたが、最後はテレビマッチのときだけですね。国際プロレスが会社として大変なのは分かってたんで。実は、最後の1年間はノーギャラでやったんです。会社が潰れそうだなんて、誰も教えてくれなくてね。選手たちが給料もらいに行ったとか聞いて、自分が行ったら「遠藤さん、会社はもう潰れてないですよ」って言われちゃった。そういうこともありました。
レフェリーのやり方は、実は特に勉強したわけじゃないんです。見よう見まねで(笑)。ただ、動きだけ敏捷にしてやろうと思っていました。床からリング上がるときに、階段なんか使わないで、パーンとジャンプして飛び上がっていましたから。
レフェリーをやっていて、試合が噛み合っているときはいいんです。人によっては、噛み合わない試合もあるでしょう。そういうときが一番大変でした。試合を引き立てるのはレフェリーの仕事ですから。
カウントを取るときも、手の上げ方とかね。例えば、スリー行く前に肩浮いたときっていうのは、難しいんですよね。その辺の配慮っていうか、呼吸は難しかったです。試合を盛り上げないといけませんから。盛り上げるってことは、ある程度、お客をイライラさせるのがコツなんです。
国際プロレスのレフェリーとして活躍。レフェリーは特に勉強せず、見よう見まねだった。
国際プロレスのレフェリー時代に、新日本プロレスと全日本プロレスの選手を呼んだりして、対抗戦というのをやったことがあるんです。ヤマハ・ブラザーズとか、ジャンボ鶴田とか、その面々で日本全国巡業しました。そんなことで、プロレス界の人脈が広がりましたね。他の団体でも、相撲界から行ったプロレスラーも結構いましたし。大日本プロレスの小鹿雷三、グレート小鹿ね。同い年で、元力士ですから。あと天龍源一郎も元力士でしょう。そういう意味で結構、知り合いが多いんです。
巡業中、時間があるときは、レスラーをトレーニングに行かせていたんです。私が北海道から沖縄までの全国のジムの名簿を持っていて、宿舎や試合場から一番近いジムに電話するんです。そうすると、「遠藤さんからのお話しですから!」って、そこのジムのオーナーが車で迎えに来て、連れてってくれて、全部無料でトレーニングさせてくれました。よくしてくれたんです。プロレスラーたちは驚いていましたよ、遠藤さんの名前出したら、何もかもタダで全部やらしてもらえた、って。彼らの間で語り草になっていましたよ。
プロレスの興行には、手打ち興行と売り興行っていうのがあるんですよ。プロレス団体が自前で行うのは手打ち興行、各地の興行主にいくらいくらで、その興行権を買ってもらうのが、売り興行。
売り興行の場合は、地元の興行主が、試合後にお座敷を用意してくれるんです。興行主は、ラッシャー木村とか、グレート草津とか、アニマル浜口行くと、みんな「浜口」「草津」「木村」って呼び捨にされるんだけども、私には「遠藤さん」って言うんです、みんな、なぜか。どういうわけか、一目置かれてみたいですね。年齢的には、グレート草津は同い年だし、ラッシャー木村は一つ上なんですが。2人とも、亡くなっちゃいましたけど。
夜は、そうやってみんなで外で食べて飲んで、朝になると、自分は食事のとき、必ずビール飲んでいました。巡業のときは毎回、ビールを1ケース(笑)。みんなにもビール、飲ませてました。
外国人プロレスラー、猪木、坂口とも交流
外国人プロレスラーっていうのは、レフェリーを大事にするんです。自分の試合を盛り上げてくれるのはレフェリーでしょう。試合終わると必ず「どうだった?」って来るんです。で、「グッドジョブ」って言うんです。すると「サンキュー」って。だから、来日するとき必ず、なんかお土産持ってきてくれるんです。ほとんどお酒ですけど、バーボンとか、ウイスキーとか(笑)。
来日中、ウチのジムにトレーニングしに来ていたレスラーも何人もいましたよ。まず、ダイナマイト・キッド。ダイナマイト・キッドは、最初は国際プロレスのリングに上がって、阿修羅・原と対戦したんです。それから、日本に来るといつもウチのジムに来るようになりまして。その後、新日本プロレスに行って、デイビーボーイ・スミスとタッグ組んだりしてて、そのつながりでデイビーボーイも、いつもジムに来るようになりました。その他に、国際プロレスに来たプロレスラーは、ほとんどうちのジムでトレーニングやっていきました。
バーン・ガニア、ニック・ボックウィンクル、ロード・ウォリアーズとかね。あとは誰だ。いろいろな人が来たから、全部名前が、ぱっとは思い浮かべるのは大変なんですけども。そうだ、スコット・ノートンね。彼も来てました。スコット・ノートンは、ウォリアーズの2人がアメリカでやっていたジムでコーチをしていたんです。
アンドレ・ザ・ジャイアントも来ていましたよ。アンドレは、あの体でしょう。スクワットでも腕立てでも、自分の体重だけで十分、体鍛えられるんです。体重50~60キロの人の腕立てと違うから。200キロ近くある体重ですから。それとか、スーパースター・ビリー・グラハムも、私のジムに来て、一緒にトレーニングやりましたね。彼はベンチプレスで270キロ上げたんです。
海外のレスラーのほうが、日本のレスラーよりも体を鍛えてる感じでしたね。向こうは大体、アメフトやってた人たちがプロレスに転向してるケースが多かったんですよ。アメフトのオフのときにプロレスラーやったりして、二足のわらじ履いてる選手も多かったんですよね。初期の頃は、レオ・ノメリーニっていう選手がいたんです。タッグ組んで、力道山と戦った選手もそうじゃなかったかな。
猪木さんとか、坂口さんとは今でもお付き合いあります。私の先輩で、ボディビル世界大会に行く途中ロスでお世話になったジョージ土門は、猪木さんがアメリカに行ったときに、自宅に泊めてお世話していましたし、ウィレム・ルスカと猪木さんが戦ったときに、ジョージ土門が1日だけのレフェリーやったことあるんです。
アントニオ猪木さんとも古くから交流があり、今でも付き合いがある。
そういえば、ジョージ土門と3日前に電話しました。「おお、エンちゃん、久しぶりだよ。87歳になったよ。股関節が悪くて人口股関節で、杖ついて歩いてるけど、今度ジム、遊びにいくから」って言ってました。とてもエネルギッシュな人で、特に女性に対しては、すごいエネルギッシュです。今でも(笑)。
第13回に続く
Text=まつあみ靖
第11回 プロレスラーとの深い絆
第10回 念願のジム開設
第9回 ボディビル世界大会で3位に