すごい男がいたもんだ! 話を聞きながら、昔流行した、ビールのコマーシャルのワンフレーズが、脳裏をかすめた。 遠藤光男氏、75歳。戦後、黎明期の日本ボディビル界を語る上で欠かすことのできない人物であり、まだ方法論が確立されていなかったウェイトトレーニングに、独自の合理的なメソッドを導入した、パイオニア的存在でもある。ここに示すのは、そんな知られざるヒーローの物語。
==
ジム開設当時、苦労の連続==
今も大変ですけど、ジムを開いた当時は大変なことがいろいろありました。そもそも、開設のきっかけは、何人かの友達から、ジム開こうよって声がかかってきたから。自分はお金が一銭もないから、「開きたくてもお金ないから駄目だよ」って言ったら、「自分たちでお金出し合うから」って言って、あの当時で1人50万円ずつ出して、150万円を元手にしてジムを開いたんです。借りるお金とか、給料分とかも含めて。
オープンして最初の月は、100人ぐらいの入会があったんです。次の月が45名ぐらい。それからパタッと止まっちゃって、大変な目に遭いました。出資した連中も1人去り、2人去りで、お金返してくれって言われて。こっちから、頼んだわけじゃないのに。でも結局、その150万を返したんです、毎月頑張って。家内と結婚する前でしたから、毎朝、私はジムに泊まって、6時か7時に起きる。ジムは10時からだったかなあ、その間にポスターとチラシ持って、墨東地区を全部回ったんです。
昼間はアルバイトの子にジムを頼んで、女房も一緒に回ってくれて。食べるお金もなかったので、実家が亀戸でしたから、チラシ配りに出たら実家に昼ごろに行って、そこまで来たからって、昼ご飯ごちそうになったりして、それが半年ぐらい続きました。
あの当時は、まだいい人がいっぱいいて、お願いすると、一戸建ての塀の所にポスターを貼らしてくれたんです、「どうぞ貼ってください、いいですよ」って。そんなこんなで結構、人が増えてきて、それで何とか乗り越えたんですけどね。軌道に乗ってくるのに2年ぐらいかかりましたね。
月刊ボディビルディング1968年10月号の表紙を飾る。右が私。
さまざまなジャンルのアスリートを指導
力士に指導した話はしましたが、他のスポーツ選手もジムに来ていました。一般的には体を鍛える目的の人がほとんどでしたが、運動選手に関しては、やっぱり責任ありますから、鍛える目的によって、どういうトレーニングがいいかってことを考えながら、ずっとマンツーマンで教えてました。
プロ野球だと、ジャイアンツの選手も何人か来ていました。キャッチャーやってた高田誠選手、外野手でホームランバッターだった井上真二選手、あとは早稲田から入った、キャッチャーの阿野鉱二選手。その3人は、ずっと教えていました。みんな現役の頃でしたから、もう35年くらいぐらい前ですかね。高田誠選手は、今、ジャイアンツのチーフスコアラーになっていますね。今でも連絡ありますよ。
あとは、サッカーの松木安太郎さん。大学生のときでしたね。誰かの紹介とかじゃなくて、自分で探して、ウチのジムに来ていました。サッカー選手の場合は、筋持久力も高くないといけないんですが、より重要なのは瞬発的な筋力ですね。必要な筋肉をとっさに動かす能力を高めるために、体幹とか下半身、ダッシュ力、そういうものと並行して、背筋の運動とか下半身を鍛える運動をメインで教えました。ベンチプレスなんかよりも、やはりおなか周り、腰周り、あと、下半身っていうのを中心に。
今はサッカー解説で活躍している松木安太郎さんは、大学生の時から指導していた。©Getty Images
数々のプロレスラーを指導
国際プロレス(1967年に旗揚げし、1981年に解散したプロレス団体。アメリカで活躍していた日本人レスラー、ヒロ・マツダ、サンダー杉山、グレート草津、ラッシャー木村らが在籍し、一時代を築いた)で、レフェリーをやっていたこともあります。国際プロレスの吉原功社長さんからの依頼だったんです。
その前に、私のジムにアニマル浜口とか、元三保ヶ関部屋の幕内力士で国際プロレスに転じた大位山とかが、トレーニングに来ていたんですが、その2人から「吉原社長が、会長にレフェリーをお願いしたいって言ってるんですけど、どうでしょうか」って頼まれたのが、がそもそもの始まりなんです。
アニマル浜口は、もともとボディビルをやっていました。自分より5歳ほど年下ですが、19か20歳で、兵庫県の大会で2位ぐらいに入ってるんです。だから彼は、私のことはよく知っていたんです。私も、地方の大会にゲストで出たりして、日本中回っていましたから。
それで、彼が21か22歳ぐらいのとき、国際プロレスに入るんですが、そのときトレーニングしたいって、ウチのジムに来たんです。それからうちのジムでずっと、40いくつまでやってましたね。浅草に自分のジムを、開くまで。
阿修羅・原は、ラグビーで活躍していたんですが、スカウトされて国際プロレス入るんです。そのときにも、ウチのジムでトレーニング教えていました。
彼のことを取材してもらおうと思って、ジムに新聞記者を呼んだんです。ところが全く筋力なくて、腕立て伏せやらせたら10回できなかったんです。6回目でつぶれちゃって。そのくらいなまってたってことです。こっちが恥ずかしい思いをしましたよ。
その他にもメキシコのプロレスラーや、小さな女子プロレス団体の選手が全部来ていたこともありました。それから、アメリカのプロレス団体WWEで人気があった、毒霧吹くTAJIRIって知ってます? あれなんかも、自分のジムで、いろいろ指導しました。
最近のプロレスラーでは、関本大介っているんですよ。日本人プロレスラーの中で1番すごい体してる。彼がときどき来ますね。
あとは大仁田厚選手。彼はプロレス界では自分よりずっと若い世代の人間ですから、最初は、自分が国際プロレスのレフェリーをやったりしていたことを、向こうが全日本プロレスのレスラーだったころから、一方的に知っていたわけです。彼は、トレーニングに来ていたわけじゃなかったんですが、FMWという団体を立ち上げたときに電話があって、「会長、今、お金が一銭もなくて、手元に2000円しかないんです。記者会見を開きたいんですけど、ジムの受付のロビーを使わせてもらえませんか?」って頼まれまして。当時のジムは、錦糸町の北口にあって、ロビーのスペースが結構広かったので、いいですよということで、そこに新聞記者呼んで、記者会見をやったんです。だから、今でも試合会場で会うと、大仁田選手は“気をつけ”の姿勢になりますね(笑)。
その記者会見のとき、ウチのジムでバーベルかなんかやらしたら、「会長、これ、どうやってやるんですか。やったことないんですよ」なんて言うんで、びっくりしたんですよ。
驚いたことに、プロレスの選手は、トレーニングあまりやらないですね。どんな練習やっても、自分に勝ったのは一人もいなかった。本当にプロとしての自覚があるのかなあ、と思うようなことがいっぱいありました。
彼らにしてみれば、体って商売道具でしょう。商売道具は大事だから、パフォーマンスを高めるには、これは鍛えないと。肉体そのものや、肉体の躍動を見に来るお客さんもいるわけですから。その意味では、ちょっとがっかりしたものがあります。
第12回に続く
Text=まつあみ靖
第10回 念願のジム開設
第9回 ボディビル世界大会で3位に
第8回 ボディビル世界大会珍道中