それは、1957年に行われた晩食会での出来事でした…。
Sophia Loren Jayne Mansfield pic.twitter.com/Ta1j0raMRz
— History in Moments (@historyinmoment) 2017年10月18日
1967年6月29日、34歳でこの世を去った薄命の美女ジェーン・マンスフィールドに向けて、大女優ソフィア・ローレンが鋭い視線をおくる有名な画像がこちらです。
ジェーンの豊満なバストに、卑劣と言える冷ややかな視線をおくるソフィアをとらえた一枚の写真(1957年撮影)は、この後もハリウッドで語り継がれる名シーンとなっています。あまりのインパクトに、一度見たら忘れられない人も多いことでしょう。
晩餐会で同じテーブルに座ったソフィア・ローレンとジェーン・マンスフィールド。この日ジェーンは、「誰よりも目立つために」という明確な目的をもちながら、胸をあらわにしたキワどいドレスで晩餐会に臨んだそうです。
米『ピープル』誌の編集長ジェス・ケイグル氏によれば、「パラマウント・ピクチャーズは当時、契約を結んだばかりのソフィアを祝福するため、ビバリーヒルズでウェルカムパーティを開催しました。そして、そのゲストのひとりにジェーンも含まれていたのです」とこと。
そんな当事者のひとり、というよりも、その会の主役であるソフィアが、57年の時を経て沈黙を破りました。当時の心境に関して、初めて口を開いたのです。
⦅それではソフィアのコメントとともに、
ジェーンとはどんな女優か?を振り返ります⦆
ソフィア・ローレンとジェーン・マンスフォールド
米『エンターテイメント・ウィークリー』誌の取材に対して、ソフィアはこう応えています。
「彼女(ジェーン)は私のテーブルまで来て、隣に座ったの。そのとき彼女は、会場内でいちばんの注目を自分が集めていることは分かっているようだったわ。それで彼女を見たら……」
ソフィア・ローレンとジェーン・マンスフォールド
米『エンターテイメント・ウィークリー』誌の取材に対し、ソフィアはさらに続けて…。
「あの写真に写っている私の視線の先を見ればわかるでしょう? 私は彼女の乳首を見ていたのよ。乳首が私のお皿に飛んでくるんじゃないかって…」
ソフィア・ローレンとジェーン・マンスフォールド
ソフィアは続けて、米『エンターテイメント・ウィークリー』誌に対して語りました。
「私の顔を見れば、怖がっているのがわかるはず。いきなり彼女のドレスの中からすべてがボーンって飛び出して、テーブルの上に広がる気がして怖かったのよ…」
ソフィア・ローレンとジェーン・マンスフォールド
さらには、2人がにこやかに握手している写真についても…。
「他にも写真はあるかもしれないけれど、その写真だけは当時の様子をもっともよく表しているわね」
…と、実はジェーンと険悪な関係ではなかったことも明かしました。
ソフィア・ローレンとジェーン・マンスフォールド
そして60年を経た今もなお、ソフィアに対してファンからサインをお願いされるとき、色紙代わりにこの写真のコピーを渡されることを告白しています。
「何度もこの写真を渡されたわ――でも、写真にはサインをしないようにしているの。あまり関係性をもちたくなし、(1967年に亡くなった)ジェーンにも敬意を示したいから…」
…と語っています。ジェーンに対する嫉妬と思いきや、実は彼女を心配していたと話すソフィア。そんな優しい一面も、彼女の魅力のひとつなのかもしれませんね。
ジェーン・マンスフォールドとは?
Jayne Mansfield
ジェーン・マンスフォールド
(1933年4月19日生 ~ 1967年6月29日没)
アメリカ合衆国・ペンシルベニア州ブリンモア出身の、ブロードウェイおよびハリウッドで活躍した女優。マリリン・モンローとならび、1950年代を代表するブロンドのセックスシンボルの1人として人気に。『PLAYBOY』誌の1955年2月号でプレイメイトになるなど、当時、多くの雑誌のグラビアを飾ってきました。以後、30回以上『PLAYBOY』誌に登場しています。
ジェーン・マンスフォールドとは?
Jayne Mansfield
ジェーン・マンスフォールド
(1933年4月19日生 ~ 1967年6月29日没)
ブロンドの髪、細くくびれたウエストを起点に妖艶な曲線を描くボディ、そして露出しがちな胸の谷間により、彼女はハリウッドでのポジションを確立。数本の人気ハリウッド映画に主演しました。しかし、1960年代に入ってからは、ブロンドの悩殺的美女の需要が下降したアメリカ。その後は低予算のメロドラマやコメディへと出演内容を変えていきましたが、その人気は衰えなかったようです。
ジェーン・マンスフォールドとは?
Jayne Mansfield
ジェーン・マンスフォールド
(1933年4月19日生 ~ 1967年6月29日没)
彼女の出生時の名前はヴェラ・ジェーン・パーマー。ジェーンは若い頃から女優になることを強く志望していました。ハイスクールを卒業後は南メソジスト大学へ入学。そこで演劇と物理学を学んだとのこと。1950年にポール・マンスフィールドと結婚し、ジェーン・マンスフィールドとなるわけです。彼女の演技への願望は1950年11月、17歳で最初の子供を出産したことで、休止状態になりました。
その後ジェーンは母親業と両立しながら、テキサス大学オースティン校の学生にもなります。さらに、1953年の夏の間はカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) に通ったり、再び南メソジスト大学へ通うなど勉強好きだったことも有名です。そして1953年10月22日、ようやくジェーンは、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』で初舞台を踏んだのでした。
ジェーン・マンスフォールドとは?
Jayne Mansfield
ジェーン・マンスフォールド
(1933年4月19日生 ~ 1967年6月29日没)
テキサスに住む間には、数々のミス・コンテストで優勝した彼女。その美貌とともに、頭脳明晰(公称IQ163)の合わせ技により、彼女の人気はうなぎのぼりに。彼女は5カ国語を話し、クラシックピアニストはプロ並みの腕前、さらにヴァイオリンも…。そんな多彩な魅力あふれるジェーンでしたが、ファンが見つめるのはやはり…スリーサイズの数値が描く曲線美。なんとバストは40、ウエストは21、ヒップは35(インチ)、約102×53×89cm。それをジェーン自らも知っていたのでした。IQ163ですから…。
彼女の(クレジット表記のある)スクリーンデビューは、1954年『Female Jungle(フィメール・ジャングル ) 』になります。その後、ジャック・ウェッブ 主演の『Pete Kelly's Blues(皆殺しのトランペット ) 』(1955年) にも端役で出演しています。さらに1955年には『The Burglar』で印象的な役を担い、注目度をアップ。以降の出演作はコミディものが多くなりますが、ジェーンの曲線美を効果的に活かした作品も多かったようです。このように性的な魅力を最大限に利用したものばかりではなく、正統なドラマティックな作品でもジェーンは成功を収めています。
そして1967年6月28日の夕方、ジェーン一家が乗る1966年型ビュイック・エレクトラ225はニューオーリンズへ向けて出発していました。そこで翌朝のテレビ取材に出演するために…。そして6月29日の午前2時25分頃、U.S.ハイウェイ、ルート90で減速した大型トレーラーの後部に彼らの車は衝突。そこでジェーンは即死。
この日、ハリウッドは将来有望な若き(34歳)の女優を失ったのでした。現在、ハリウッド大通り6828の「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」には彼女の星型プレートが飾られています。また、亡くなる直前には日本で公演がありました。そしてその合間に、日本テレビ系の番組『11PM』にも出演しています。
最後に彼女の魅力が全面に出ている作品、『Too Hot to Handle(地獄の罠 ) 』(1960年)の一部をご覧ください。
From Harper’s BAZAAR UK
Courtesy of History Moments
Photograph / Getty Images
Translation / Reiko Kuwabara
編集者:小川和繁