暮らしやお金、友人関係に悩んだとき、誰かの「言葉」に支えられたことはありませんか?中でも特に多くの人を救った言葉を、人は「名言」と呼びます。「世界一受けたい授業」(日本テレビ系列)などに出演する教育学者・齋藤孝さんは、著書『100年後まで残したい 日本人のすごい名言』(アスコム)で、「名言は声に出して覚え、暮らしの中で使えば一生の宝物になる」と言います。今回は同書から選出した、人生の糧となる6つの言葉を連載形式でお届けします。
初めて自分で自分を褒めたいと思います。
有森裕子
元マラソン選手。1966年生まれ。1992年バルセロナで銀メダル、1996年アトランタで銅メダルと2大会連続で五輪メダルを獲得した。2007年東京マラソンでプロランナーを引退。
1996年のアトランタオリンピックで、女子マラソン選手の有森裕子さんは3位でゴールしました。1992年のバルセロナでは銀メダルを取っており、2大会連続でメダル獲得という快挙です。
そのときのインタビューに答えた言葉が「初めて自分で自分を褒めたいと思います」でした。前回の銀メダルには及ばなかったけれども、「終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし......」と涙を湛えながら語り、「初めて自分で自分を褒めたいと思います。」と結んだ姿は日本中の感動を呼びました。当時この言葉は大変に流行し、みんなマネして言ったものです。1996年の流行語大賞(ユーキャン)にもなりました。日本の言葉の歴史の1ページに刻まれたと言ってもいいくらいの言葉なのです。
それほどまでに人々の心をとらえたのは、単に感動的な言葉であるというだけでなく、当時の日本人が「自分で自分を褒める」というあり方を求めていたということでしょう。
他人が褒めてくれなくても、自分で褒めてあげれば少しは心がラクになるのではなかろうかと思ったのです。そして、多くの人が採用した。同じ頃、「自分へご褒美」も流行り始めました。自分で自分に何かプレゼントをするのです。頑張った自分のことを誰も認めてくれなくても、自分で褒めたりプレゼントしたりするわけです。
私は日本人はもっと自己肯定感が高くていいと思っているので、いい流行だったと感じます。2013年に内閣府が実施した日本を含めた7カ国(ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、スウェーデン、韓国)の若者(13~29歳)への調査では、「自分自身に満足しているか?」の質問に対して、日本で「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」と回答した人の割合はたった4割程度。他の6カ国は70~80%ですから、だいぶ差があります。
また、2017年に国立青少年教育振興機構が日本、アメリカ、中国、韓国の高校生を対象に調査したところによると、「私は価値のある人間だと思う」と答えた日本人は4割強で、やはり他の国の8割程度と比べて極端に低いという結果でした。
実際、何か仕事をやらせてみたら日本人はけっこう上手にやると思います。仕事のうえで価値を出すことは、それほど難しいわけではない。だったら、もうちょっと自信を持っていいと思うのですが、なかなか自信を持てないようです。控えめで謙虚というのは日本人の美徳でもありますが、能力発揮のブレーキになってしまってはもったいない。もっと自分を褒めてあげるべきでしょう。
結果を褒めるのではなく、プロセスを褒める
自分で自分を褒めるとき、重要なのはプロセスです。有森さんも、頑張って走った結果メダルを取れたから「自分を褒めたい」と言ったのではありません。悔いのない走りができたからです。自分よりもっと速い選手がいることはどうにもできないけれども、今の自分のベストを尽くすことは自分一人でできる、それができたかどうか、ということです。
インドに伝わるヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』には、「行為の結果を捨てよ」といった言葉が出てきます。何かをした結果、成功するか失敗するかは自分ではコントロールできません。大事なのはプロセスに集中することであって、結果に執着するな、それが「知性のヨーガ」だというのです。
有森さんは、悔いがないように走るということをひたすら続けました。苦しい闘いに心が折れそうになっても、乗り越えて走りました。約2時間半、肉体の限界に挑みながら、知性のヨーガを続けていたようなものです。
そこまで過酷な闘いでなくても、理想や目標に向けて頑張っている中で、心が折れそうになるときはあるでしょう。そんなときは、自分で自分を褒めることです。何か小さな一つでいいから「これだけは悔いのないようにやろう」というものを決めて、クリアしたら「今日はいい日」とする。「自分で自分を褒めたいと思います」ということにするのです。
ダイエットなら、マイナス5キロといった結果にフォーカスするのではなく、「30分間ウォーキングする」「21時以降はお茶だけにする」といった課題をクリアすればいい。手帳を使えば簡単に、続けやすくなります。自分で四角いチェックボックスを書いて、課題をクリアしたらチェックを入れます。「今日はよくやった!」という気分です。同時に、ニコニコマークを描いたり、「パチパチパチ」などと書いたりして、自分を褒めるのです。
自分へのご褒美を設定しておいてもいいですね。
声に出して褒めるのでもいいですが、文字に書き残すと次への意欲につながります。一つ乗り越えた、また一つ乗り越えた......ということが自信になり、自己肯定感を育むことにもなるでしょう。
他人に褒めてもらえなくても、全然かまわないのです。そりゃあ褒めてもらえればもっといいかもしれませんが、他人に褒めてもらおうとしてやる、というのはちょっと違う。自己肯定感が強ければ、他人の評価はたいして気にならなくなります。
人に褒めてもらいたい、励ましてほしいという気持ちは、強く表に出ると良い結果を生まないものです。「自分はダメだ」とか「こんなに頑張っているのに」とばかり言っている人は、周りを疲れさせます。
「自分はすごいんだぞ」アピールもそうです。さらには、アピールしても褒めてもらえないと、不機嫌になったり落ち込んだりするものだから、周りの人は距離を置きたくなってしまいます。何かと相手にしてほしい「かまってちゃん」は、まず自分で自分を褒める習慣をつけるといいでしょう。
不遇の時代を支えた、フォークシンガーの詩の一節
有森さんの名言とされる「初めて自分で自分を褒めたいと思います」ですが、フォークシンガー高石ともや氏の「自分をほめてやろう」という詩の一節がもとになっています。
有森さんが高校1年生のときに始まった全国都道府県対抗女子駅伝で、有森さんは3年連続補欠でした。出場叶わず、不遇の時代があったのです。その駅伝大会の場で、高石氏が参加選手に向けて朗読した詩に感動した有森さんは「いつかこれを言える選手になろう」と決意しました。この言葉が苦しい練習の支えになっていたのです。まさに、心が折れそうなときを支えてくれる言葉であり、それが有森さんを通じてアスリートのみならず日本中の人に伝わったのでした。
「心が折れそうなとき」「背中を押してほしいとき」など5つのシーンで思い出したい30の名言がつづられています
齋藤 孝(さいとう・たかし)
1960年、静岡県生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒後、東京大学大学院教育学研究科博士課程等を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。代表作『声に出して読みたい日本語』(草思社)はシリーズ260万部のベストセラーに。文化人としてテレビをはじめとする数多くのメディアに出演する。