「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉知ってる?鈴木春信の浮世絵に見る江戸時代の梅の花
『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という言葉をご存知ですか?
これは樹木の剪定についての言葉で“桜はいたずらに枝を切ると断面から腐食菌が入って痛みやすく、梅は枝を切らないと枝数が増えずに翌年花が咲かない”という意味です。
しかし筆者がこの言葉を聞いて、頭に浮かんだのはこの絵でした。
梅の枝を手折ろうとしているのは、多分裕福な家の娘でしょう。振り袖の着物の模様は雪を被った松と竹。梅を手に取れば“松竹梅”です。帯の竹の柄の縦の線と、壁の横線のもようが対照的でこの絵を引き締めています。
橘の吉祥文様の帯からも娘の両親の気持ちが分かります。“橘”はみかん科みかん属の日本固有の柑橘であり、また常緑樹であることから“永遠”や実をつけることから“子宝に恵まれる”などの意味があるからです。
でもこの行為には少し驚かされませんか?梅を手折ろうとしている娘は、多分娘より年上の女性の背中の帯のあたり、もしくは肩に足をかけて梅を取ろうとしているのです。下の女性は多分振袖を着ている娘の世話係の女性かと思うのですが。
嫌々娘を担いでいるのかと思って表情を見ると、どちらかというと面白がっているような感じに見えます。
女性の上に乗っている女性は、びくびくする様子もなく冷静に辺りをうかがって、梅を手折ろうとしています。脱ぎ散らかした草履もひっくり返って相当なお転婆娘です。
何もそこまでしなくてもと思いますが、江戸時代の花見は“梅に始まり菊に終わる”といわれるほど、現在の“桜の花見”と同じくらい、“梅見”も人々にとっては春の到来同様に喜ばれたのです。
夜の梅
「探梅」という言葉があります。私は“ふっと梅の香りがして、その香りを頼りに梅の花を探すこと”と教えてもらったのですが、調べてみると「探梅」は冬の季語で意味は“まだ冬の景色が色濃く残る山中に、早咲きの梅を探しに出かけること”とありました。
上掲の『夜の梅』の少女は梅の香りに誘われて、夜に外出したような風情ですね。暗闇の中に白梅が辺りを照らすようにポッポッと咲いていて、手にした燭台も少女や白梅を照らし出すようです。
しかし、この少女の足元が見えるでしょうか?よく見ると草履を履いていません。この足元は“空摺”という方法で、版木に紙を押し当てて凹凸で形を表現したものです。
そして片手で長い着物を汚れないようにたくし上げています。
この少女は外へ外出したのではなく、梅の香りに誘われたのか、自分の住む家の欄干のついた広い縁に出て、梅の花を眺めているのです。これは筆者が聞いた「探梅」の意味に近いのではないでしょうか。
それとも夜の方が梅の香りを強く感じることを知って梅を愛でているのでしょうか。
江戸時代の梅事情
梅は、新元号の“令和”の典拠である日本最古の和歌集“万葉集”の梅花の歌の序文にもあるように、古くから日本人に親しまれてきたことが分かりますが、元は中国から日本に伝来した樹木であり、“春告草”とも呼ばれました。ちなみに旧暦の2月は“梅見月”とも呼ばれます。
桜は元は山桜という日本原産の樹木ですが、梅はもともと日本にはなかったものなので、庭や庭園などに植えて愛でられることが多い花木でした。
江戸時代の冬は今よりとても寒く、小氷河期に入っていたとも言われています。江戸中期以降は隅田川が三度も凍りつきました。江戸の人々はとても寒い冬を過ごしていました。早く春が来てほしいという思いは切実であったと思います。
江戸の“梅の盛り”の時期は現代とは比べ物にならないくらい、梅は切り花や盆栽・庭木として愛でられ、人々は「梅見」に繰り出しました。多くの花梅の品種は江戸時代に作られたと言われています。
江戸の梅は通人が好むとされ、梅の名所としては、亀戸の梅屋敷や新梅屋敷(向島百花園)、蒲田の梅屋敷などが有名でした。特に「江戸名所花暦」には、亀戸の梅屋敷の〈臥竜梅〉こそが絶品と書かれています。
上掲の浮世絵ですが立て札に“臥龍梅”書いてあるように、ここは亀戸の梅屋敷内でしょう。その臥龍梅の前で、煙草入れから煙管に刻み煙草を詰めて女性の方から、まだ頭を剃っている少年とも言えるような男性に煙草の火をもらっている場面です。
男性のそばには小僧さんがいて、旦那さんの履き替え用の下駄を持っています。そのような小僧さんを連れ歩くとは相当のお金持ちです。
ただこの女性、振袖は当時少女と言える年頃の娘が着るものでした。それが煙草を吸うとは、しかも男性からのもらい火とは遊女でしょうか。しかし浮世絵はただ事実を描くものではありませんので、そこをつついても意味はないかも知れません。
しかしこのように煙管や煙草のもらい火から、人間同士の会話が始まり、気が合えば恋に落ちたりするという、「梅見」も一つの出会いの場であったのでしょう。
また、少年の袖に描かれている源氏香は「花の宴」という名前がついています。このことからも「梅見」が人々の大切な行事であったことが分かります。
さいごに

先程の季語としての「探梅」という言葉は冬の季語ですが、「梅」や「梅見」は春の季語です。同じ“梅”という言葉が入っている季語でも、その行動の内容で季語の季節が変わるほど、日本人は季節のうつろいに敏感だったのです。
梅は鈴木春信以外の浮世絵作者にも沢山描かれた題材です。浮世絵は人々が好むものを描きますから、それだけ人々に愛されたということでしょう。
筆者が常々訪ねたいと思っている長浜盆梅展など、滅多に観られない「梅見」もあります。皆さんも着物など着て、今年は梅を見にいきませんか。
でもくれぐれも梅を枝を切るなどということはしないで下さいね。
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あんこ好きさん必見!日本あんこ協会が、あんこ好きをアピールできる手ぬぐいを発売
日本あんこ協会が、同協会員が1000名を突破したことを記念して、あんこ好きをアピールできる「あんこ部の手ぬぐい」の販売をスタートしました。
あんこな食べ物が散りばめられたデザインの可愛い手ぬぐい♡
…で、「日本あんこ協会」って何?となるわけですが、日本あんこ協会は、あんこを通じて世界平和を実現するために作られました…と、かなり壮大な目標を掲げた協会なのです。設立は2018年。日本あんこ協会は存在の象徴としてあんこを掲げ、あんこを通して、皆が餡心できる社会の実現を目指します。
1月22日(水)に発売されたのは、日本あんこ協会が全国で開催するあんこ菓子食べ比べ部活動「あんこ部」の公式手ぬぐい。表デザインには、かわいいどら焼き、豆大福、たい焼きたちがたくさん描かれています。裏面は一般的な手ぬぐい同様、無地。

サイズは、長さ約98cm、幅約34.5cmになります。使いみちは、ハンカチやタオル代わりとして汗を拭いたり、テーブルに少しこぼしてしまったあんこを拭いたり、ギフトのラッピングとして包んだり、和菓子を食べるときのランチョンマットとして使うなど。
あんこ好きさんは是非チェックしてみてはいかが?
日本あんこ協会
日本あんこ協会
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目力ハンパなさそう!「日本書紀」に登場する豪族・物部目の武勇伝を紹介【上】
子供が生まれた時、大人はその幸せを願って名前をつけるもの。そこで古くから様々な名前が記録に残されていますが、今回ピックアップするのは『日本書紀(※1)』に登場する豪族・物部目(もののべの め)。
目の字なら「まなこ」「さかん(律令制度における国司の階級)」などと読んだ方が語呂もよさそうですが、あえて「め」というシンプルさが、接する者に強烈なインパクトを叩き込みます。
命名の由来は不詳ながら、生まれた時によっぽど目がぱっちりクリクリと輝いていたのかも知れませんね。視力もマサイ族並みに5.0とかありそうです。
さて、そんな「出オチ(※2)」っぽい名前の物部目ですが、その活躍もちゃんと記録に残されており、今回はそちらを紹介したいと思います。
(※1)にほんしょき。日本に現存する最古の正史(正統な歴史書)。
(※2)登場の瞬間にクライマックスを迎え(オチがつき)、以降の内容が薄い状態(作品など)。
伊勢国で叛乱を起こした朝日郎の征伐に
物部目は物部伊莒弗(もののべの いこふつ)の子として生まれ、雄略天皇(※3)が即位した安康天皇三457年11月13日、天皇陛下の政治を補佐する大連(おおむらじ)の姓(かばね)を賜ります。
穏和な性格と公正な態度で、時に「大悪天皇」とも言われた気性の激しい雄略天皇をよくなだめましたが、決して文弱に偏ることなく、醜の御楯(※4)として武勇にも優れていました。
雄略天皇十八474年8月、伊勢国(現:三重県)で起きた朝日郎(あさけの いらつこ)の叛乱を討伐するため、雄略天皇は物部宿禰菟代(もののべのすくね うしろ)を総大将、物部目を副将に軍勢を派遣しました。
朝日郎は「官軍何するものぞ」と伊賀国にある青墓(現:三重県伊賀市、御墓山古墳と推定)まで進軍、そこに立て籠もって迎え撃ちます。
「そなたらに勝ち目はない……降伏すれば命だけは……」
お決まりの和平交渉があっさり決裂すると戦闘開始、数に勝る官軍の圧勝かと思いきや、朝日郎は弓の名手。
「我が矢を受ける勇気はあるか(朝日郎手、誰人可中也)!」
百発百中の腕前で次々に官軍の兵士を射殺し、鎧を二枚重ねに着込んだ者まで仕留められると、菟代は慌てて全軍に後退を命じます。
「……うぅむ、朝日郎の弓勢(※5)を前にすると、皆が怯んでしまう……さて、どうしたらよいものか……」
菟代は考え込んだまま戦闘は中断、そのまま日が暮れてしまいました。果たして物部目たちは、朝日郎を倒すことが出来るのでしょうか。
(※3)ゆうりゃくてんのう。第21代天皇陛下。在位西暦457年~479年
(※4)しこのみたて。尊く美しい者(天皇陛下)の守護役を意味する謙譲語。
(※5)ゆんぜい。弓を引いて矢を射る力の強さ。弓の威力。
【下に続く】
※参考文献:
福永武彦 訳『現代語訳 日本書紀』河出文庫、2005年10月5日
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不倫したら男女とも死刑!日本における不倫の恐ろしすぎる歴史を紹介
かつて、日本では不倫は重罪でした。今回は、日本の不倫について歴史をご紹介します。
鎌倉時代
日本の不倫に関する罪の歴史は、鎌倉時代にまで遡ります。御成敗式目第34条において不倫に関する処罰が規定されました。その名も密懐法(びっかいほう)です。それによると不倫は所領半分没収の上職務罷免とされ、日本の歴史において初めて、不倫が厳しく処罰される対象となったのです。
御成敗式目の34条に書かれている内容は、以下の通りです。「姦夫は強姦・和姦を問わずに所領の半分を没収し、出仕を止め。所領を持っていない場合には遠島とする。姦婦も同罪」。いかがでしょうか、厳しいと思うか、妥当と思うか、はたまたは軽すぎると思うか。
室町時代以降
室町時代になると、更に不倫に関する考え方は厳しくなります。本夫が姦夫を「宿世の敵」として討ち取る婦敵討(めがたきうち)を行なっても、無罪として容認される例が出てくるようになったのです。
戦国時代になると、「姦夫姦婦殺害」の容認は戦国大名それぞれの領地の法律の中に続々と導入されました。
有名なところでは、土佐国の戦国大名である長宗我部元親が制定した長宗我部元親百箇条があります。「武家の夫は妻が密通を行った場合、妻を殺害すべし。しない場合は夫、妻、姦夫の三者すべて処刑とする」。なんと、本夫が姦婦を殺害しない場合には、姦夫・姦妻・本夫全て死刑!
ヤバすぎる…!
江戸時代
江戸時代の不倫に対する処罰を見てみましょう。江戸幕府の定めた「御定書百箇条」によると、「密通いたし候妻、死罪」。
いやはや単純明快。今では考えられない重罪です。もちろん相手も死刑です。そして相変わらず、本夫が姦夫を殺しても無罪でした。
実際、現場を押さえられて走って逃げる妻と姦夫を、とある御家人が走って追いかけてまで殺害した例などもあったのだとか。更に驚くのは、娘が姦通した場合、父親が娘を殺害することも許されていたようです。
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観光庁が外国人旅行者向けに公開したマナー啓発動画がけっこう頑張ってるぞ!
国土交通省 観光庁が、外国人旅行者向けに日本のマナーを紹介するムービーを公開しました。無難な堅苦しい内容かと思いきや、とてもユーモアたっぷりのマナー啓発動画になっているのです。

公開されたムービーは10種類で、ショートバージョンを含めると全15種類。それぞれのムービーには英語版、中国語(簡体字)版、中国語(繁体字)版、韓国語版が用意されています。
例えば写真撮影編では、黒子と侍、舞妓が登場し、キャッチーなビジュアルで日本における写真撮影時のマナーを紹介しています。
この他にも、「歩き方編」「神社仏閣・伝統的建築物編」「温泉・宿泊施設編」など、空手家や力士なども登場し、外国人旅行者が興味を持ってくれそうなビジュアルでマナーを紹介しています。
日本でのマナーが面白く紹介されているので、日本人向けの日本語バージョンがあっても良いですね。
今回公開されたムービーは、さまざまな場所で自由に放映できるように公開されており、「データ利用届出書」を送付することで、自由にダウンロードして使うことが可能となっています。東京オリンピック・パラリンピックも控えているので、利用シーンはけっこうありそうですね。
観光庁による「訪日外国人旅行者向けマナー啓発動画」はYoutubeでも公開されていますので、是非チェックしてみてください。
- THE RESPONSIBLE TRAVELER 英語版再生リスト – YouTube
- 訪日外国人旅行者向けマナー啓発動画 – 観光庁
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伊右衛門でおくりびと。大河「麒麟がくる」で斎藤道三役のモッくんの怪演ぶりに注目集まる
1月19日(日)に放送スタートしたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。初回の視聴率は関東地区で19.1%、関西地区で19.3%と、好評のようですね。そして昨日、2話が放送されました。2話の平均視聴率は17.9%でした。

1話ではビビットなカラーの衣装が注目されていましたが、2話においても話題に事欠かない内容となりました。
今回の放送で最も注目を浴びたのが、斎藤道三役の本木雅弘さんの怪演ぶり。斎藤道三(本木雅弘)が、娘・帰蝶(川口春奈)を嫁がせた美濃国の守護・土岐頼純(矢野聖人)を毒殺するのですが、その毒殺の方法はなんと”自ら点てたお茶に毒を盛って殺す”というもの。
本木雅弘さんは現在サントリーのお茶「伊右衛門」のCMに出演しており、このシーンで「伊右衛門」を思い浮かべた人は少なくなかったようです。Twitterには「伊右衛門」が急上昇ワードに入るほどでした。
Twitterでは「こんな恐ろしい伊右衛門あるか」「(キリン)生茶を売るための麒麟の罠」「伊右衛門でおくりびと」などのツイートのほか、サントリーの風評被害を気にかけるツイートまで。
さらに、「麒麟がくる」で語りを担当している市川海老蔵さんは、伊藤園の「おーいお茶」のCMに出演していたこともあり、麒麟(キリン)・生茶、サントリー・伊右衛門、伊藤園・おーいお茶…という、”お茶の大河”に注目する人も続出しました。
ストーリーの本筋とは違う部分での盛り上がりでしたが、2話では早くも合戦シーンが登場し、戦国大河を待ち望んでいた人たちを中心に1話同様に好評だったようで、今後の展開にも注目が集まりそうです。
2020年 大河ドラマ「麒麟がくる」
大河ドラマ 麒麟がくる
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日本絵画好きは必見!青の世界がテーマの切手「美術の世界シリーズ」が素敵
日本郵便からはさまざまなデザインの切手が発売されていますが、今回紹介するのは、日本絵画に興味のある人ならきっとそそられるであろうデザインの特殊切手です。
発表されたのが、特殊切手「美術の世界シリーズ」です。
特殊切手「美術の世界シリーズ」は、魅力的な名作絵画などの美術品を題材とした切手セットで、日本絵画を中心とした名画が切手という小さなサイズで美しく再現されています。
今回発表されたのが青の世界をテーマにした第1集。63円切手10枚シートと、84円切手10枚シートの2種類がラインナップされています。
洋の東西を問わず、美術のなかで青は高貴な色とされ、青色の顔料として用いられたラピスラズリは、高価な素材でした。近代のヨーロッパで青色の絵の具が化学的に調合できるようになると、世界中に広がりをみせ、葛飾北斎の浮世絵など庶民向けの絵画にも用いられるようになりました。
今回は 19〜20 世紀の、日本絵画と工芸、ヨーロッパ絵画の中から、青が特徴的な作例をピックアップ。同じ青でも、濃淡の変化や他の色彩との対比によって、まったく異なる表情を漂わせます。季節や時間によって変化する水面や空気の表情を、東西の芸術家たちはそれぞれの感覚でとらえ、表現しています。
特殊切手「美術の世界シリーズ」は3月19日(木)から、全国の郵便局やネットショップなどで発売されます。
特殊切手「美術の世界シリーズ」
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2年ぶりに展示中!北斎の娘・葛飾応為の名作「吉原格子先之図」の魅力【後編】
東京都・原宿という都会のど真ん中にありながら、常設的に浮世絵を楽しむ事ができるという事で、長年愛され続けている美術館、太田記念美術館。現在開催中の展示会は「 開館40周年記念 太田記念美術館所蔵 肉筆浮世絵名品展 ―歌麿・北斎・応為」(開催期間:2020年1月11日(土)から2月9日(日)まで)です。
今回は、前回に引き続き、目玉作品の1つ、葛飾応為の代表作「吉原格子先之図」の魅力をご紹介します。
2年ぶりに展示中!北斎の娘・葛飾応為の名作「吉原格子先之図」の魅力【前編】


魅力②光と陰の効果
この「吉原格子先之図」で最も印象深いのはなんといっても光と陰の効果でしょう。
さて、ここで突然問題です。この「吉原格子先之図」の画中には、行灯と提灯がいったいいくつあるでしょう。提灯は簡単です。花魁道中から戻ってきた花魁の背中を照らす円筒状の大きな提灯が1つ。中央手前で禿(かむろ)が手にしている丸提灯が1つ。その左に、遊女と話しこむ客が提げている筒状の提灯が1つ。
一方、行灯の方に目を向けると、店の名前の入った掛け行灯が1つ。ちなみにこの文字からこの妓楼は「いつみ屋」である事が分かります。
もう1つの行灯が、一番分かりやすいようで実は少し見つけづらいのですが、お気付きでしょうか。そうです。客が覗き込む格子状の籬(まがき)の奥に、大きな行灯が1つ、張見世のシンボルのように立っているのです。
以上から、この絵は3つの提灯、2つの行灯が発する光をもとに巧みに陰を描き出し、幻想的な世界を造り上げている事が分かるのです。
魅力③隠された文字
実は、この作品にはある秘密が隠されています。前述した3つの提灯にご注目です。それぞれ、一文字ずつ文字が入れられている事にお気付きでしょうか。
花魁道中から戻ってきた花魁の背中を照らす円筒状の大きな行灯には「應(応)」。中央手前で禿(かむろ)が手にしている丸行灯には「為」。その左に、遊女と話しこむ客が提げている筒状の行灯には「栄(応為の本名はお栄さんでした)」。
作品の中に、こっそり自分の名前を溶け込ませるお茶目な応為の姿が想像され、ますます好きになってしまいますね。
開館40周年記念 太田記念美術館所蔵 肉筆浮世絵名品展 ―歌麿・北斎・応為
太田記念美術館
太田記念美術館公式ホームページ
参考文献:太田記念美術館編集・発行「葛飾応為 鑑賞ガイドブック 」(平成27年5月)太田記念美術館
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本当にみんな平等だったの?縄文時代が決してユートピアではなかったシンプルな理由
学校の日本史で縄文時代の授業を受けたとき、皆さんはどんなイメージを持ったでしょうか。
「縄の文様をつけた土器や、炎のような土器が流行った(多く出土した)」
「食糧は狩猟や採集によって調達、自然と共生していた」
そんな中、先生から特に強調されたであろう「身分や貧富の差がない、平等な社会だった」というイメージ。
やがて稲作が伝わって弥生時代に入ると、人々に財産を蓄える概念が生まれ、そこから貧富や身分の差が生まれていった……そんな歴史ストーリーを組み立てる上で、古き良き「ユートピア(理想郷)」として語られがちな縄文時代。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。今回はそれを検証していきたいと思います。
身分制度がなかった?シンプルでシビアな理由
まず、縄文ユートピアの裏付けとしてよく語られるのが「狩猟はみんなが力を合わせないと出来ないから、身分や獲物の分け前=貧富に差がなく平等だった」という説。
確かにクマやイノシシ、あるいはオオツノジカやナウマンゾウといった猛獣を一人で狩るのは難しく、多くの者が力を合わせたであろうことは想像に難くありません。
しかし、狩猟に参加した者すべてが同じだけの働きをしたとは考えにくく、危険を顧みず勇敢に挑みかかった者がいる一方で、元より技量や胆力に欠け、後方で震えていた者だっていた筈です。
当然、働きの大きな者ほど肉の分け前が多かったり、美味しい部位を貰えたりなど厚遇されたでしょうし、その積み重ねによって信用を築き上げ、コミュニティの中で存在感を発揮した(そして多分、女性にもモテた)事でしょう。
そうした能力の差が身分制度にまで発展した形跡がないのは、仮に特権階級を設けたところで、そこに安座できるほど社会的な(人員・物資の)余裕、つまり身分制度を設ける意味がなかったと言えます。
縄文時代に身分制度がなかった(ように見える)のは、優秀な者ほど現場の最前線でリーダーシップをとらないとコミュニティが存続できない厳しい環境だったためと考えられます。
終わりに
稲作が伝わった弥生時代以降、食糧事情が大きく改善され、その結果として生まれた社会的な余裕と共に身分格差がハッキリしていったことは確かです。
しかし、だからと言って狩猟採集によって食糧を得ていた縄文時代が「みんな平等なユートピア」だった訳ではなく、むしろみんなが力を合わせなければ生きていけない厳しい環境だからこそ、食糧をめぐるシビアな生存競争が繰り広げられた事でしょう。
それこそ足手まとい(元から劣った者以外にも、怪我や病気で障害を負った者など)を切り捨てたり、村八分にしたり……。
まだ文字が使われていなかったため、そうした残酷な記録は残されていないものの、少なくとも「みんな揃って仲良しこよし」なユートピア(※この主張もまた、文字なきゆえの憶測に過ぎません)よりはリアリティが感じられるのではないでしょうか。
※参考文献:
山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019年1月17日
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大相撲の外国人力士の中にはエクステやストパーをして髷を結っていた人もいた
力士の髷、実は髪質によっては結いにくい!?
大相撲の力士は、現代でも地毛で髷を結っています。「禿げて髷が結えなくなったら、力士を引退しなければならない」という噂も時たま耳にしますが、実際にはそのような規定は存在しないことは、既に過去の記事でもお伝えしたとおり。
あの噂は本当なの?相撲の力士は髷(まげ)が結えなくなったら引退しなくてはいけない?

でも同じように髷を結おうとしても、人にはそれぞれ髪質の違いがあります。中には髪の毛の量が元々少なかったり、反対に天然パーマでボリューミーすぎたりして、髷が結いにくい力士もいます。
ましてや外国人力士の場合は、日本人のように髷を結うことが難しいケースが少なくありません。

そんな髷の結いにくい髪質の力士たちは、少しでも髷を結いやすくするためのに「髪の毛への工夫」をすることがあるのですよ!
兄弟子の髪の毛でエクステをした把瑠都
エストニア出身の元大関・把瑠都(ばると)は、スウェーデン系ということもあり髪はブロンド、しかも髪の毛自体が細くて切れやすい上に伸びが遅い、髷を結うのが難しい髪質でした。
さらに出世が早かったこともあって、初土俵から2年で幕内に上がっても大銀杏を結うことができず、ちょんまげ姿で土俵に上がっていました。

そんな彼が大銀杏を結うために使ったのは、なんと当時の兄弟子の髪の毛を使った「人毛エクステ」。実は、髪質や髪の量が少ないなどの理由で地毛で髷を結うことが難しい力士の場合、「付け毛」を使うことが可能なのです。
ちなみに日本相撲協会の規定では、髪の色についての決まりは特にありません。
しかし協会の上層部からは、当時
「相撲界の伝統を重んじるなら、黒く染めたほうが良いのでは」
という声も上がっていたのだとか。
そんな事情もあり、把瑠都はその後、黒い色をつけた鬢付け油を使って髷を結うようになりました。だから本場所で見る大関・把瑠都の髪は、ブロンドというよりは暗い茶色のような色の大銀杏だったのです。
縮れた髪にストレートパーマをかけてきれいな大銀杏を結った
さて、髪質が原因で髷が結いにくいといえば、くせ毛や天然パーマの力士も同じです。
元大関・小錦や元横綱・曙など、恵まれた体格と圧倒的なパワーで大活躍したハワイ出身力士たちを悩ませたのが、くせの強い髪質でした。
小錦と同じ高砂部屋所属で、床山の最高位である特等床山まで昇りつめ「伝説の床山」とまで呼ばれた床寿(とこじゅ)さんの技術でも、小錦の大銀杏はなかなかきれいに結えませんでした。
そんなとき、元美容師だった床寿さんの奥さんのアイディアで取り入れられたのが、ストレートパーマでした。

ストレートパーマの効果は抜群でした。だから、私たちの知る本場所での小錦の髪型は、いつもきれいな大銀杏になっていたのです。
小錦より後に入門した元横綱・曙や武蔵丸も、現役力士時代はストレートパーマをかけ、髷を結いやすくしていたのだそうですよ。


















