前回は吉原遊廓で働く人々をご紹介しましたが、今回は花魁とその周りの女郎たちにフォーカスしてみましょう。
こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々
花魁
江戸時代後期以降の吉原遊廓では、最高級の女郎の事を「花魁(おいらん)」と呼びました。妹女郎や客が「おいらんとこの姐さん、綺麗だろう」と自慢したから「おいらん」なんて説もありますが、語源ははっきりしておらず、漢字は当て字です。
花魁は張り見世を行わず、引手茶屋というお茶屋まで花魁道中で向かい、お客と対面しました。1回の揚げ代は時代や見世のランクなどによっても変動しますが、後期ではだいたい10万円前後。よく「1度目は口もきけず、2度目でようやく少し話し、3度目でようやく触れられる」と言いますが、それは長い江戸時代の中でほんの初期の話。いくらツンデレ好きの江戸の男でも、10万円払って口もきいてもらえずにツンツンされるのでは客足が遠のくというので、江戸の後期になると最高級花魁でも初回からデレてくれたようです。
画像:花魁 Wikipediaより
振袖新造
女郎には水揚げという、男性客とはじめて床入りする儀式があります。振袖新造は、まだ若く水揚げをする前の見習い女郎を指しました。水揚げの年齢は時代背景や見世ごとで違うので一概には言えませんが、だいたい16~17歳くらいとすると、振袖新造は13~15歳くらいでしょうか。
名前の通り、花魁道中では振袖を着て姐さんである花魁につき従います。姐さん女郎の座敷に一緒に上がったり、三味線の稽古を見てもらったりして、女郎の見習いとして日々学んでいったのです。
ちなみにこの振袖新造の中で将来有望な子は、楼主が見込んで売り出し、初めて客を取る時には「突き出し」といって花魁道中のように華やかな道中をしました。当然豪華な衣装をまといましたが、その費用の捻出などはすべて姉女郎が面倒を見ました。
画像:作・十返舎一九/絵・喜多川歌麿「青楼抄年年中行事 新造突出しの図」国立国会図書館蔵
番頭新造
花魁に付いて、身の回りの世話や外部との交渉役をするマネージャー的役割だったのが番頭新造です。略して「バンシンさん」なんて呼ばれたりもしました。
番頭新造はすでに年季(何年間奉公しますという契約)が明けており、だいたいが30歳前後の良い姐さんでした。吉原遊廓の勝手を知り尽くしているので、花魁に厄介な客のあしらい方を教えてくれたりして、大変頼りになる存在でした。花魁道中では、この番頭新造も地味めの着物を着て列の後方に付いて花魁の歩みを見守りました。
画像:作・十返舎一九/絵・喜多川歌麿「青楼抄年年中行事 仲の町年礼の図」(文字加筆、筆者)国立国会図書館蔵
禿
禿(かむろ)とは新造になる前の、少女たちの事です。吉原内でこっそり出産した女郎の子供など、生まれた時から禿として育てられる子もいれば、10歳くらいまでの間に山村、漁村、農村から売られてくる子供も多くいました。女衒(ぜげん)というスカウトの男性が貧しい村から幼い女の子を買って、遊廓や岡場所等に売りさばくのです。貧しい村から吉原遊廓に売られてきた子供たちは、妓楼で売れっ子になれば、三食きちんと白米が食べられて、布団はふかふか、お風呂にも入れるという事に驚く子供も多かったと言います。
画像:「花魁と禿」wikipediaより