cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_01b3bccda023_鳴かぬなら…戦国三武将を表現した有名なあの詩は誰が詠んだか知っていますか? 01b3bccda023 01b3bccda023 鳴かぬなら…戦国三武将を表現した有名なあの詩は誰が詠んだか知っていますか? oa-japaaan

鳴かぬなら…戦国三武将を表現した有名なあの詩は誰が詠んだか知っていますか?

2018年6月22日 22:37 Japaaan

有名だけど誰が詠んだ?
新渡戸稲造の歴史的名著【武士道】を読んでいたときのこと。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康三人の大名の性格を言い表した狂歌として有名な3句が、引き合いとして出されていました。


「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(織田信長)
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」(豊臣秀吉)
「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」(徳川家康)

あまりにも有名ですが、そういえば誰が詠んだのかを聞いたことがないなぁ・・・とふと思い立ち、調べてみると「松浦静山」という名前がキーワードとして浮上しました。


第九代平戸藩主・松浦静山とは?
平戸藩世嗣・松浦政信の長男として江戸に生まれます。平戸は現在の長崎県ですね。彼が生きた時代は宝暦10年(1760-1841)。静山が生きている間、江戸幕府の田沼意次が老中となったり、天明・天保の大飢饉が起きたり、晩年は大塩平八郎の乱があったり。全国が乱れ、財政が非常に苦しい藩があった時代でもありました。

側室の子だった静山。父が早世し、12歳で祖父の養子となり16歳で家督を相続します。幼い頃から記憶力に優れ学問ができましたが、病弱だったため文武両道を目指し、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)免許皆伝の腕前を持つほどになりました。

君主として維新館という大胆な名前の藩校を設立したり(幕府に咎められたが古代中国の詩経の一説です、といって難を逃れたそう)、身分にとらわれない人材登用も行い、藩政改革を成功させます。

蘭学やキリスト教にも関心を寄せたというので、好奇心あふれる殿様だったのでしょう。

あっさり47歳で家督を譲ったあとは、随筆『甲子夜話』を書き綴ります。1821年の甲子の日に起草したあと、20年間書きためた甲子夜話はなんと278巻にものぼります。

ちなみに「こうしやわ」でもなく「きねやわ」でもなく「かっしやわ」と読みます。その甲子夜話に記されたのがこの記事の本題である「ホトトギス」の詩。

ホトトギスは読み人知らず
それはこんなくだりです。

夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。

郭公を贈り参せし人あり。

されども鳴かざりければ、なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府

鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤

なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様

このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。

なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす

なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

杜鵑、時鳥、郭公は全てホトトギスと読みます。この鳥は他に杜宇、蜀魂、不如帰、子規などもあり非常に異名が多い。ややこしい!

仮託というのは「他の物事を借りて言い表す」こと。静山は要するに夜誰かと談話しているときに「郭公(ほととぎす)を(3人に)贈ったら何と詠むか」という他人が詠んだ狂歌を記しただけ。

この訪れた「誰か」というのがとっても気になりますね!あとの二首も「憚る」と言って、誰に仮託して詠んだのかすらも伏せています。幕府の耳に入ったら危ない人なんでしょう。と・くれば、徳川将軍の誰かを想定して詠んだ可能性が高まりますね。

本当は静山自身が詠んだのに、それを伏せているだけだったりして・・・と思ったら、更に古い文献『耳嚢』〈1784(天明4)年頃~1814(文化11)〉にこの狂歌が記されていたので、それは違いました。

3句を静山が詠んだという説もありますが、一大名が記した文献として甲子夜話が有名なことや、娘の愛子が明治天皇の祖母で、静山は明治天皇の曾祖父としても知られていることなどもあって、静山の名前が一人歩きしてしまったのでしょうか。

なんにせよ、有名な狂歌として今後もずっと伝えられていくのでしょうね。

勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし
彼が記した有名な言葉があります。それが

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」

こちらは静山が書いた剣術の指南書「剣談(けんだん)」の中にある言葉。勝負に勝つときは偶然や運もあるが、負けるときは必ず原因がある・・・という意味で、スポーツ界や棋界ではよく使われる格言になりました。野村監督が発して広く一般にも知られるようになりました。

教科書には載らないが日本人なら誰しもが知っているこの三句。その部分だけではなく、一から甲子夜話を読んでみたい気もしますが、278巻は気が遠くなりますね!

参考文献:『武士道』新渡戸稲造、『甲子夜話』松浦静山

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_891f9d4f6667_あの甘じょっぱさを表現!ココナッツサブレから和の味わい<みたらし団子味>が新登場 891f9d4f6667 891f9d4f6667 あの甘じょっぱさを表現!ココナッツサブレから和の味わい<みたらし団子味>が新登場 oa-japaaan

あの甘じょっぱさを表現!ココナッツサブレから和の味わい<みたらし団子味>が新登場

2021年9月27日 15:38 Japaaan

1965年から発売されているロングセラーブランド「ココナッツサブレ」から、和の味わいが楽しめる「ココナッツサブレ みたらし団子味」が発売されます。

ココナッツサブレは定期的にユニークなフレーバーの期間限定商品を発売しており、これまでもJapaaanで紹介してきましたが、今回登場するのはなんと”みたらし団子味”です。

「ココナッツサブレ 」は、京都が発祥の地とされ(諸説あり)、老若男女問わず多くの方に人気の“みたらし団子”をモチーフにした商品で、「ココナッツサブレ」ならではのおいしさで再現した、甘じょっぱい味わいが特長。

日清シスコ創業の地である関西にちなんだ味わいで、関西限定での発売。味付けには、関西で親しまれている薄口しょうゆを使用しているそうです。

パッケージも関西を象徴するイラストを使用しており、とことん関西にこだわったフレーバーとなります。内袋は4種類のイラストをデザインしています。

「ココナッツサブレ <みたらし団子味>」は、10月4日(月)から関西エリアで新発売。

ココナッツサブレ <みたらし団子味>
 

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_c163506b7986_日本で最初の探偵・岩井三郎が挑んだ大正時代の収賄事件「シーメンス事件」の真相【前編】 c163506b7986 c163506b7986 日本で最初の探偵・岩井三郎が挑んだ大正時代の収賄事件「シーメンス事件」の真相【前編】 oa-japaaan

日本で最初の探偵・岩井三郎が挑んだ大正時代の収賄事件「シーメンス事件」の真相【前編】

2021年9月27日 11:44 Japaaan

戦後最大の大事件と呼ばれる「シーメンス事件」は、ご存じでしょうか?

この「シーメンス事件」には、日本最初の探偵「岩井三郎(いわいさぶろう)」が大きく関与していました。そこでこの記事では、戦後最大の大事件に立ち向かう、日本初の探偵社「岩井三郎事務所」について紹介します。

日本最初の探偵事務所


明治28年、「岩井三郎」と呼ばれる男性が、30歳の時に東京日本橋で日本最初の探偵事務所「岩井三郎事務所」を設立しました。

当時、探偵と呼ばれる人は多くいましたが、企業間のスパイ活動を主軸に恐喝などを繰り返す犯罪者というイメージが強かったそうです。

そんななか、三郎が初めて民間調査会社を設立したと言われています。

そこに、推理作家として有名な「江戸川乱歩」が入社を志望し、面接に訪れていたとも言われています。この時は不合格でしたが、その後、何とか入社して働いていたのだとか。

「岩井三郎事務所」は、昭和52年の合併により「株式会社ミリオン資料サービス」と名称が変わったものの、現在も存続する調査会社です。

岩井三郎が探偵になったキッカケ


三郎は生まれつき正義感が強く、警察官を志して警視庁に入庁し、若くして警視となって日露戦争時のスパイ摘発活動などで活躍しました。

担当していた事件の容疑者を追いかけて日本中を飛び回っていた三郎でしたが、容疑者が北海道に逃げ込んでしまったことで、捜査が強制的に中止となってしまいます。

当時の北海道は、警察を含めた官公庁全てが独自に機能しており、本庁の警察官といえども手出しはできませんでした。

捜査の邪魔をされたことに憤慨した三郎が、権力に縛られず、自由に捜査をおこなえる私立探偵を志したことが、探偵として活躍するキッカケとなっています。



「シーメンス事件」


三郎が探偵となって解決へ導いた有名な事件の中に「シーメンス事件」というものがあります。

ドイツの兵器会社シーメンス社の贈賄事件をキッカケに、シーメンス社の代理店であった三井物産や三井物産を介していたイギリスのビッカース社の贈賄が次々に摘発されたた事件のことです。

この事件には、最後の輸入戦艦として知られる「金剛」の贈賄について、旧日本帝国海軍の癒着が暴かれ、当時の第一次山本内閣を総辞職まで追い込み、戦後最大の大事件と言われています。

今回は、日本最初の探偵「岩井三郎」の紹介と、三郎が探偵になったキッカケ、「シーメンス事件」の概要について紹介しました。

次回の後編では岩井三郎が「シーメンス事件」にどう立ち向かったのか紹介したいと思います。

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_9833d4d0b122_マッチのように擦って火をつけるお香「hibi」に”金木犀の香り”が新登場 9833d4d0b122 9833d4d0b122 マッチのように擦って火をつけるお香「hibi」に”金木犀の香り”が新登場 oa-japaaan

マッチのように擦って火をつけるお香「hibi」に”金木犀の香り”が新登場

2021年9月27日 11:28 Japaaan

秋の訪れを感じる金木犀の香り。ステキな香りですよね。

神戸マッチ株式会社が手がける着火具のいらないオリジナルお香「hibi」シリーズに、新たな香り「Fragrant Olive(金木犀)」が登場します。

着火具のいらないオリジナルお香「hibi」シリーズは2015年4月のデビューし、これまでに〈定番の香り〉全7種、〈和の香り〉全3種、〈hibi deep.〉全3種が登場しています。

「マッチのように擦って火をつけるお香」というユニークなスタイルが人気の「hibi」シリーズの新作は金木犀。

爽やかさとオリエンタルな甘さ漂う金木犀の香りは、日本の秋の風物詩ですが、近年は国内外問わず金木犀の香りを取り入れた香水やコスメが人気を集めており、注目度の高い香りとなっています。

今回の新製品は、この金木犀の香りを大人っぽい落ち着いた風情に仕上げたもので、hibiの7番目の〈定番の香り〉として通年販売されます。

また、hibiの2021年のクリスマスギフトボックスは、ラベンダー・イランイランに金木犀を加えた新しいラインナップになるそうです。

クリスマス限定ギフトパッケージ
hibiシリーズ新作「Fragrant Olive(金木犀)」は2021年10月1日新発売。クリスマス限定ギフトボックスは10月1日~12月24日の期間で発売されます。

お香「hibi」シリーズ 金木犀
 

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_54aa2a112622_キュートな表情がたまんない♡秋田犬の子犬たちがモフモフなぬいぐるみ&自立ポーチになったよ! 54aa2a112622 54aa2a112622 キュートな表情がたまんない♡秋田犬の子犬たちがモフモフなぬいぐるみ&自立ポーチになったよ! oa-japaaan

キュートな表情がたまんない♡秋田犬の子犬たちがモフモフなぬいぐるみ&自立ポーチになったよ!

2021年9月27日 09:14 Japaaan

フェリシモが展開しているユーモア雑貨を取り扱うブランド「YOU+MORE!」から、 秋田犬がモチーフのアイテム「いっしょに暮らそうよ もふもふ秋田犬ぬいぐるみ〈子犬〉」と「秋田犬の子犬がおすわり 自立するダイカットポーチ」が登場。

本商品は、秋田犬保存会監修のもと作られた、リアルな見た目のぬいぐるみとポーチで、どちらも、まだあどけない子犬のかわいさを存分に再現しています。

いっしょに暮らそうよ もふもふ秋田犬ぬいぐるみ〈子犬〉

1個 ¥5,500(+10% ¥6,050)。もふもふ秋田犬ぬいぐるみ〈子犬〉は、ファーにフルカラープリントして、もふもふな毛並みを再現。太くて立派な脚に、肉球の位置までリアルです。くるりと巻き上げたしっぽもチャームポイント。

「遊んでほしいな~」と言っているような表情にも癒やされます。まるで、本物の秋田犬がおうちにいる気分に♡

秋田犬の子犬がおすわり 自立するダイカットポーチ

月1個 ¥2,300(+10% ¥2,530)。表情や毛並みもリアルに再現した自立するダイカットポーチ。デザインは〈白毛〉〈虎毛〉〈赤毛〉の3種類がラインナップ。ポーチ部分も子犬たちの毛色に合わせたナチュラルでやさしいカラーになっています。月齢2ヵ月の子犬をモデルにしているとのこと。

使い勝手も良く、なでなでしたくなる絶妙なサイズ感です。文房具ならペン類やマスキングテープなど、中身はたっぷり入りますよ!

ポーチはオフィスのデスクに飾って自慢したくなっちゃう可愛さ♡秋田犬の子犬たちに存分に癒やされちゃってください!

「いっしょに暮らそうよ もふもふ秋田犬ぬいぐるみ〈子犬〉」と「秋田犬の子犬がおすわり 自立するダイカットポーチ」は、フェリシモにて販売中です。

もふもふ秋田犬ぬいぐるみ&自立するダイカットポーチ
 

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_7afc6a957805_口は禍のもと?江戸時代の武士道バイブル『葉隠』が教える”物言いの肝要”とは? 7afc6a957805 7afc6a957805 口は禍のもと?江戸時代の武士道バイブル『葉隠』が教える”物言いの肝要”とは? oa-japaaan

口は禍のもと?江戸時代の武士道バイブル『葉隠』が教える”物言いの肝要”とは?

2021年9月27日 08:35 Japaaan

古来「病は口より入り、禍は口より出ずる」とはよく言ったもので、人間、要らぬものを口にして病気になったり、要らんことを口にして信用を失ったりするのはよくある話しです。

前者であれば我が身一つ苦しむばかりですが、後者に至っては他人様に迷惑をかけたり、傷つけてしまったりすることも少なくありません。

(もちろん、病気であっても重篤であれば看護や葬儀など、迷惑をかけてしまうこともありますが……)

そんな失態は今も昔も変わらぬようで、江戸時代の武士道バイブルとして知られる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』にも、このような教訓が書いてありました。

物言ひの肝要は……

一二五 物言ひの肝要は言はざる事なり。言はずして済ますべしと思へば、一言もいはずして済むものなり。言はで叶はざる事を、言葉寡く道理よく聞え候様云ふべきなり。むさと口を利き、恥を顕はし、見限るゝ事多きなりと。
※『葉隠』巻第十一より

物を言う時、最も理想的なのは何も言わないことです。

「何のこっちゃ?」と思われるかもしれませんが、言わずにすむならそれに越したことはなく、言わないなら言わないで、大抵のことはどうにかなるもの。

逆に言えば、日ごろ私たちがどれだけ無駄口を叩いて無用の誤解を招き、それがトラブルの火種となっているか、ということでもあります。

とは言うものの、さすがに一言も発しないではいられない、意思が伝わらない場面も実際にはありますから、そういう時だけは必要最小限の言葉で筋道を立てて理解しやすいように伝えるのがいいでしょう。

むさ(むざむざ)と考えなしの口を利いたがために、恥をかいてしまい、周囲の者から失望されてしまうことは昔から多いもの。

ちなみに、むざむざとは「不注意なさま」「価値あるものが失われる(無残な)さま」などを表し、本来は重い価値を持っていた言葉が、不注意に使われたためにその価値を失ってしまうことを『葉隠』は嘆いています。

終わりに

確かに言葉はその人を表すと言いますから、慎重に選んで使うべきなのですが、何事も即レスを求められる現代社会では、なかなか一返事ごとに沈思黙考とは行かないもの。

とは言っても、ひとたび口にすれば取り返しがつかないのもまた事実ですから、ひと呼吸おいて節度ある受け答えを心がけたいものですね。

※参考文献:

古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月

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炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」

2021年9月26日 16:20 Japaaan

「不謹慎」発言も本気の本気

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。死者・行方不明者あわせて10万人が犠牲になった巨大地震です。

先般の東日本大震災では、公人私人を問わず「不謹慎」な発言な発言をした人がネット上などで叩かれる光景をよく目の当たりにしましたね。

ところがこの関東大震災では、「不謹慎」な発言を堂々と復興計画書の中に記して、そして壊滅状態にあった帝都・東京を本当に蘇らせてしまった人物がいたのです。

その人物の名は、後藤新平(ごとうしんぺい)[1857~1929]。

彼は震災の翌日に作った『帝都復興ノ議』という文書の中で、「震災を理想的帝都建設の為真に絶好の機会」だとする文言を書き込んでいました。

現代だったら、これは「炎上」すること間違いなしです。

しかし後藤は、冗談や軽口でそう書いたのではありません。本気の本気だったのです。当時の政府で東京復興を任された後藤は、当時の国家予算の二倍の額である「30億円」の予算を提案し、土地を買収して区画整理を行う計画をぶち上げました。

彼はなぜ、こんな大胆な計画を立てられたのでしょうか。

実は、後藤は以前から「理想的帝都建設」の準備を進めていたのです。

この記事では、後藤がそのような構想をするに至った経緯と、その結果について辿ってみたいと思います。

医師として、そして統治者として

後藤の大胆な「理想的帝都建設」構想の源流を知るためには、まず彼の経歴を見る必要があります。

もともと彼は医者でした。1857年、現在の岩手県奥州市の水沢生まれ。水沢といえば戊辰戦争で敗れた藩で、後藤の家は「朝敵」のレッテルを貼られていました。しかしそんな境遇をはね返すかのように後藤は猛勉強して医者になります。

そして彼は内務省で衛生局長にまで上り詰めました。それから、当時の陸軍次官だった児玉源太郎との出会いがきっかけとなって、台湾の民政局長や南満州鉄道の初代総裁となり、「統治者」としての才覚を発揮していくことになります。

 

彼の都市改革の手法は、病人に治療を施すような手付きで社会体制を改善するというものでした。特に当時の台湾は財政破綻、抗日ゲリラの活動、アヘンの蔓延などの問題を抱えていましたが、これを「治療」し、産業の振興や鉄道の育成を果たしています。また、現在の台北の街の基礎を造ったのも彼です。

こうした経歴を経て、1920年に彼は東京市長に就任します。当時の東京は都市化が急速に進んでおり、近代産業や交通の発達、人口の急増に整備のスピードが追い付いていないという課題を抱えていました。

そこで後藤は、就任の翌年には大改造計画『東京市政要綱』を発表。予算の問題から現実化には至りませんでしたが、その後も道路を舗装したり、市政調査会を設けて海外の学者からアドバイスをもらったりするなど東京の改造のために精力的に活動します。



関東大震災…そして“あの人”も全面協力

そこで関東大震災が発生しました。

この時政界ではちょうど新しい内閣づくりが進められており、声をかけられていた後藤は東京復興のための入閣を決意。震災翌日には内務大臣と「帝都復興院総裁」を兼務することになりました。そして就任した日の夜にさっそく復興の方針を構想し、『帝都復興ノ議』として提出します。

その中で、冒頭でご紹介した「震災を理想的帝都建設の為真に絶好の機会」だとする文言が出てきたのです。

しかしやりたい放題というわけにはいきません。反対勢力の猛反発に会い、予算も大幅カットを余儀なくされました。それでも後藤は当時の東京市長とともに復興のために邁進します。

実はあの渋沢栄一も、震災直後から全面的に後藤をバックアップしています。後藤は9月4日に渋沢に協力を求め、被災者の救護や経済対策について相談しています。渋沢は後藤の依頼をその場で承諾し、程なく罹災者収容や炊き出し、臨時病院の確保などに向けて動き出します。渋沢は当時83歳。日本橋で被災したものの、彼自身も罹災者の食糧確保や都市の保安のために直後から動いていました。

 

こうして復興は進んでいきました。東京の大通りと言われて私たちがすぐに思い浮かべる幹線道路や墨田川の六橋、隅田・錦糸・浜町の三台公園が造られます。また神田駿河台、神田淡路町・須田町、浅草雷門、築地なども、震災後の区画整理事業で生まれ変わりました。交通網や下水道も整備されています。東京は以前よりも災害に強く、人間の命が守られる都市へと変貌しました。

きっと後藤の目には、震災直後の東京は瀕死の怪我人のように映ったことでしょう。しかし彼はやりました。一度は、壊滅した首都を捨てて「遷都」する案まで出た東京を、見捨てることなく救ったのです。

後藤の計画は壮大に過ぎ「大風呂敷」と酷評されましたが、しかし現在の東京の土台である部分が整えられたのは、ほとんど彼の実績です。医者・統治者・東京市長などの彼の経歴を見ると、全てはこの関東大震災の復興のために用意された運命だったのではないかと思わずにはいられません。

歴史的に、都市や人の生活は災害がきっかけで生まれ変わるとよく言われます。しかし、破壊されたものを現実的に蘇らせるのは、やはりナマの人間の行動力です。東日本大震災と原発事故から10年半が経った今、もしも現代に彼のような政治家がいたらその後の復興はどうなっていただろう? ついそんなことを想像してしまいます。

参考資料

  • 越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』(筑摩書房)
  • 北岡伸一『後藤新平』(中公新書)
  • 事業構想「関東大震災から東京を復興させた「国家の医師」後藤新平」
  • 知っていましたか?近代日本のこんな歴史「帝都再建 ~関東大震災からの復興~」
  • 公益財団法人渋沢栄一記念財団「”民”の力を結集して震災復興を – 渋沢栄一に学ぶ / 木村昌人」

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「出世より妻が大事!」武田信玄に物申した戦国武将・小幡上総介の妻に対する愛

2021年9月26日 15:10 Japaaan

戦国時代、家同士の利害によって望まぬ男女が縁づけられる政略結婚が当たり前で、家同士が対立すればたちまち破引き裂かれてしまうのも、これまた当たり前でした。

とは言っても、事情はどうあれひとたび迎え入れた以上、少しでも妻を幸せにしてやりたい、守り抜きたいと思うのが、夫として、男性としての当然の心情と言うもの。

そんな思いは今も昔も変わらなかったようで、今回は「甲斐の虎」こと武田信玄(たけだ しんげん)公に仕えた小幡上総介信貞(おばた かずさのすけのぶさだ)のエピソードを紹介したいと思います。

科なき妻を去り、路頭に立たせ候ては…上総助、かく語りき

小幡信貞(以下、上総助)は天文9年(1540年)、上野国国峯城(現:群馬県甘楽郡)城主・小幡尾張守憲重(おわりのかみ のりしげ)の子として誕生。

当初は関東管領の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)に仕えていたものの、やがて対立すると信玄公についてその上野進攻を手引きし、ほか三増峠の合戦(永禄12・1569年)や三方ヶ原の合戦(元亀3・1573年)など数々の武功を立てます。

そんな上総助の正室は上杉家の家臣・長野信濃守業正(ながの しなののかみなりまさ)の娘だったのですが、信玄公によって長野氏が滅ぼされると、家老たちがやって来て言いました。

「上総助よ、そなたの武功は御屋形様も高くご評価されているが、仇敵たる長野の娘と縁づいておっては、今後の栄達に差し障る……そこで相談じゃが、御内儀を離縁し、新たに武田譜代の娘を娶るのはいかがか」

確かに、我が身の出世を考えるのであれば、ケチのついた妻を捨てて、せっかくの縁談に乗り換えた方が得でしょう。

しかし、上総助は違いました。



「武門に生まれ生きる以上、いつもよい時ばかりとは参らぬ。父親が敵であったからと言って、何の罪もない妻を捨てて路頭に迷わせるようでは、武士として一分が立たぬ。武士は不義を恥とする者なれば、たとい主君の命令としてもお受けしかねる。もしこの上総助が、舅の怨みを抱えているとお疑いならば、今この場にて腹を切っても構わぬ(意訳)」

【原文】
「侍のちなみは、よき時ばかりにてなし。この場に及んで科なき妻を去り、路頭に立たせ候ては、上総助が一分立たず。侍は不義を以て恥とす。それともに主命は力及ばず。御内意の分にては罷り成らず候。又主を妻に思ひかへ、逆意あるべき上総助と思召さば、この座にて切腹すべし。」
※『葉隠』巻第十、一二三より

※ただし『葉隠』では上総助の父を小幡駿河守(するがのかみ。不詳)としており、伝聞される内に内容が変わっていた可能性があります。

……確かに、いっときの出世に目が眩んで糟糠の妻を捨てるような男は、武士の風上にもおけない。その場でこそよい思いが出来ても、いつか武田家が傾いた時に

「アイツは目先の欲につられて義を忘れ、妻を捨てた男だ」

と軽んじられ、一生涯の恥を忍ばねばなりません。それは武士として、もはや死んだも同前です。

こうまで堂々と反論されてしまってはぐうの音も出ない家老たちは、そのことを信玄公に報告。

さすがの信玄公も「上総助こそは武士の中の武士ぞ。彼を手放さぬよう(縁づけようと)焦ってしまった我が過ちである」と非を認め、上総助に手厚く褒美を与えたということです。

終わりに

その後も上総助は妻を愛して忠勤に励み、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後は上野国へ侵攻してきた北条氏直(ほうじょう うじなお)に降りましたが、武田の名将(武田二十四将に数えられることも)とあって尊重されます。

やがて北条氏が天正18年(1590年)に滅ぼされると、かつて武田旧臣として伝手のあった真田昌幸(さなだ まさゆき)を頼って余生を送り、文禄元年(1592年)に53歳で世を去りました。

上総助の正室がいつまで生きていたかは不明ながら、上総助に愛された生涯が幸せであったことを願います。

※参考文献:

古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月

黒田基樹『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年2月

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cat_oa-japaaan_issue_01b3bccda023 oa-japaaan_0_6d8013c0e92a_わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【後編】 6d8013c0e92a 6d8013c0e92a わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【後編】 oa-japaaan

わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【後編】

2021年9月25日 08:10 Japaaan

医学が未発達であった20世紀以前、現代では治療方法が確立されている病気によって多くの人々が命を落とした。中でも感染症の脅威は別格で、地球規模でパンデミックが起こった例も存在する。

今回は【前編】に続き、主に性行為によって感染を引き起こす「梅毒(ばいどく)」が日本に及ぼした影響についてご紹介する。

前半の記事はこちら




わずか20年で世界を席巻し日本を襲った「梅毒」の猛威。日本史上の有名な人物も感染【前編】



国内上陸から感染拡大へ

1512年、国内で初めて梅毒に関する記載が認められて以降、京都や大阪を中心に感染は拡大した。その後、感染は江戸に広まりさらに多くの国民が罹患した。

梅毒感染者は江戸期に入ると増加し、原因には風俗文化が深く関係している。

1600〜1700年代の日本には、太平の世を背景として遊郭が増加し、風俗業に従事する遊女を集めた地域も現れ、庶民に人気を博した。

性風俗の需要拡大に伴って梅毒感染者も増加し、有効な治療方法の確立していない当時では命を落とす者もあった。

江戸時代の蘭学医であった杉田玄白は、著書である形影夜話の中で年間に診察する患者のうち、7〜8割は梅毒患者であったと記述している。

梅毒罹患が疑われる歴史上の人物

梅毒による死亡説が残っている著名な人物は多く存在する。

・松平秀康(まつだいらひでやす)戦国末期から江戸初期の大名。徳川家康の次男。側室の子。江戸初期に成立した書物には秀康の死因が梅毒と記載されている。

・加藤清正(かとうきよまさ)

戦国末期の大名。熊本藩初代藩主。好色であったとされ、梅毒に罹患していたとする説がある。

・間宮林蔵(まみやりんぞう)

江戸後期の密偵であり、探検家。間宮海峡を発見し樺太が島であることを確認した人物。死因に梅毒説がある。



幕末から明治にかけて

1860年には、長崎の地で梅毒検査が実施されている。これは当時長崎に寄港していたロシア人乗組員の相手をすることになっていた遊女に対して実施された検査で、日本初の梅毒検査であった。

江戸末期から明治初期にかけて江戸で遊女をしていた美幾という女性は、梅毒に罹患し死亡した。美幾は自身の遺体解剖に同意しており、日本で初めての献体者とされている。

その後も国内では全国で梅毒の検査が実施され、患者には強制入院が義務付けられた。

1940年代に入ると、抗生物質であるペニシリンの普及によって国内での発症は激減し、現在でも一定数の罹患者は存在するものの、重篤症例は少なくなっている。

〈参考〉

人類と感染症との闘い 梅毒

外部リンク

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アニメ「鬼滅の刃」の日輪刀がモチーフの菓子切と羊羹セット第弐弾が登場

2021年9月24日 18:45 Japaaan

昨年、大人気TVアニメ「鬼滅の刃」に登場する”日輪刀”をモチーフにした”菓子切”を紹介しましたが、


アニメ「鬼滅の刃」で炭治郎たちが鬼を討伐するために携える”日輪刀”が菓子切になったぞ!



本商品の第弐弾となる『鬼滅の刃 日輪刀菓子切・羊羹~其の弐~』が登場。予約受付がスタートしています。

本商品は、テレビアニメ「鬼滅の刃」の隊士達が鬼を討伐するために携える“日輪刀”をモチーフにした金属製の“菓子切”と、隊士達をイメージした和菓子の“羊羹”のセット商品。

菓子切の刀身は、実際に羊羹を“斬る”ことができる全長約140mmの金属製仕様で、金属食器で名高い新潟県燕市で製造されたものとなります。

本弾では炭治郎に加えて新たにしのぶ・カナヲ・煉獄の日輪刀をラインナップ。



4種の日輪刀は、それぞれ刀身だけでなく鍔・柄においても忠実に再現。また、しのぶの蝶の髪飾りをイメージした菓子切置も付属します。

さらに前弾で好評だった炭治郎の黒刀は、黒光りの映える“黒酸化発色”加工に加え、本弾では持ち手にマット彩色を施しています。禰豆子の竹筒をイメージした菓子切置は、パール成型仕様に。

なお、羊羹は、個箱入りの食べ切りサイズで、ずんだ・黒糖・紫いも・塩・さつま芋の5種類の味が楽しめるとのこと。

菓子切とともにマットコート処理を施したパッケージに詰め合わせた、プレミアム感のあるセット『鬼滅の刃 日輪刀菓子切・羊羹~其の弐~』は、7,990円(税込)(送料・手数料別途)で予約受付中です。

鬼滅の刃 日輪刀菓子切・羊羹~其の弐~
 

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