cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_808398a21d1e_欅坂46、シングルの発売延期を運営会社が発表。「制作を進める上でより良い作品を追求して行きたい」 808398a21d1e 808398a21d1e 欅坂46、シングルの発売延期を運営会社が発表。「制作を進める上でより良い作品を追求して行きたい」 oa-huffpost

欅坂46、シングルの発売延期を運営会社が発表。「制作を進める上でより良い作品を追求して行きたい」

2019年12月8日 15:46 ハフポスト日本版

アイドルグループ・欅坂46は12月8日、2019年内の発売を予定していた9枚目のシングルの発売日を見直すことを運営会社の公式サイトで発表した。
延期の理由は、「より良い作品を追求して行きたい」という考えに至ったとしている。

欅坂46は今年2月、8枚目のシングル『黒い羊』をリリース。2019年内、冬ごろをめどに9枚目のシングルを発売する予定だった。
「第70回NHK紅白歌合戦」や年末の民放音楽特番への出演を控える中、運営会社がシングルの発売延期を発表したことについて、SNSではファンとみられる人から「やっぱり延期か」「対応が遅い」「より良い作品を待っています」のほか「きっと他にも何らかの理由があるのでは?」など様々な声が寄せられている。
同グループは昨年12月、新たに加入した2期生9人を含む26人となり、9枚目のシングルとなる今作は、初めて”選抜制”が導入された。

選抜メンバーを17人に絞り込み、そのうち2期生の7人が初選抜されていた。また、センターのポジションは、9作連続で平手友梨奈さんが務めることが決まっていた。

《9thシングル発売に関しまして》と題した運営会社からの発表全文は、以下の通り。

いつも欅坂46を応援頂き、ありがとうございます。
ご案内しておりました9thシングルに関しまして、当初この冬年内のリリースを予定しておりましたが、制作を進める上でより良い作品を追求して行きたいという考えに至り、発売日を見直す事になりました。
 
楽しみにお待ち頂いている皆様には大変申し訳ありませんが、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
 
発売日につきましては、また改めてご案内させて頂く予定です。
 
今後とも、欅坂46の応援を宜しくお願い致します。

Seed & Flower合同会社

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_b6d02b82a31a_中村哲さんの棺、ガニ大統領が自ら担ぐ 遺体が帰国へ b6d02b82a31a b6d02b82a31a 中村哲さんの棺、ガニ大統領が自ら担ぐ 遺体が帰国へ oa-huffpost

中村哲さんの棺、ガニ大統領が自ら担ぐ 遺体が帰国へ

2019年12月8日 14:52 ハフポスト日本版

アフガニスタンの首都カブールの空港で12月7日、銃撃され亡くなったNGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さんの追悼式が行われた。式典では、ガニ大統領が軍兵士らと並んでアフガン国旗に覆われた中村さんの棺を担ぎ、多くの功績を残した中村さんを偲んだ。
中村さんの遺体は家族とともに帰国の途につき、NHKニュースによると、8日午後には日本に到着する予定だ。

<ガニ大統領のTwitterには、追悼式を撮影した動画も投稿された>

中村さんは12月4日、アフガニスタン東部で車で移動中、武装集団に襲われ殺害された。アフガン人運転手や護衛の5人も亡くなった。
アフガニスタンで飲料水・灌漑(かんがい)用の井戸事業を始め、農村復興のため大がかりな水利事業に携わってきた中村さん。
長年の功績を称え、2018年2月にはガニ大統領から国家勲章が贈られた。
同年2月28日発行の朝日新聞によると、ガニ大統領は、中村さんが執筆した灌漑方式の教科書を読了し、「探し求めていた答えをやっと見つけた。アフガン復興のかぎだ」と語ったという。

中村さんの活動はアフガニスタン国内でも高く評価され、現地でも追悼の集会が開かれるなど、悲しみが広がっている。

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_8a01cd82a629_中村哲医師の肖像画を尾翼に掲げた写真、アフガニスタンの航空会社が投稿。「いつまでも恩義を感じることでしょう」 8a01cd82a629 8a01cd82a629 中村哲医師の肖像画を尾翼に掲げた写真、アフガニスタンの航空会社が投稿。「いつまでも恩義を感じることでしょう」 oa-huffpost

中村哲医師の肖像画を尾翼に掲げた写真、アフガニスタンの航空会社が投稿。「いつまでも恩義を感じることでしょう」

2019年12月8日 12:06 ハフポスト日本版

アフガニスタンの航空会社が、飛行機の尾翼に中村哲医師の肖像画を掲げた写真を投稿したことが、ネット上で話題になっている。
中村さんはNGO「ペシャワール会」の現地代表として長年、アフガニスタンで人道支援に取り組んできたが12月4日、同国東部で進めている灌漑(かんがい)工事の現場に車で向かう途中、銃撃を受けて亡くなった
アフガニスタンで国内線や国際線を手がけるカーム航空は12月5日、中村さんへの追悼を示すために、同社の航空機の尾翼に中村さんの肖像画を掲げている写真をFacebookに投稿した。
 
この写真と共に、ペルシャ語で以下のように書かれていた。
「アフガニスタンの人々のために奉仕してきた人物が、残念ながら活動中に亡くなりました。故人となった中村医師、アフガニスタンの人々はいつまでもあなたの貢献に恩義を感じることでしょう」
現地テレビ局「TOLOnews」も12月6日、カーム航空のエアバス340の尾翼に中村医師の肖像画が描かれている様子を動画で投稿している。

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_1befb1c08284_「我々は自分たちを誇りに思っています」ダウン症のスタッフが働く料理店、ブリュッセルで首位に。 1befb1c08284 1befb1c08284 「我々は自分たちを誇りに思っています」ダウン症のスタッフが働く料理店、ブリュッセルで首位に。 oa-huffpost

「我々は自分たちを誇りに思っています」ダウン症のスタッフが働く料理店、ブリュッセルで首位に。

2019年12月8日 11:45 ハフポスト日本版

ベルギーの首都ブリュッセルにあるフランス料理店が、旅行情報の価格比較サイトのトリップアドバイザーで同市内の“最高のレストラン”に選出された。
ロイター通信などの海外メディアが、11月25日に報じた

ロイター通信によれば、ブリュッセル市内で最高のレストランに選ばれたのは、高級フランス料理店の「65デグレス」だ。
トリップアドバイザーに掲載されている2000店舗を超えるレストランの中でトップになった。
同店は、ダウン症の人々をスタッフとして数多く雇用している。料理と社会福祉の2つの背景を持つ4人の起業家によって設立されたためだ。
レストランで働くラマルシェさんは、「たくさんのプレッシャーがありますが、我々は自分たちを誇りに思っています」と話した。
トリップアドバイザーの評価では、特にスタッフへの賛辞が多かったという。

日本では、スタバで聴覚障害者が中心となって働く「手話店舗」も先述の「65デグレス」は、先天性の疾患であるダウン症の人々をスタッフとして多く雇用していたが、日本でも、障害者雇用促進法が改正され、企業での障害者の雇用が促進されるようになった。
大手チェーンのスターバックス・ジャパンは、7月に1日限定で耳の聞こえない聴覚障害者がスタッフとして働く「サイニングデー」を東京都小金井市の東小金井店で実施。
「手話」を通じての接客となったが、ネット上では「素晴らしい取り組み」「これが1日限定とかじゃなくて。日常の一部であってほしい」などの声もあがった。

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_134f18ad27d3_なぜ外国人はすぐ辞めるのか? 彼らが日本企業をあきらめた、本当の理由。 134f18ad27d3 134f18ad27d3 なぜ外国人はすぐ辞めるのか? 彼らが日本企業をあきらめた、本当の理由。 oa-huffpost

なぜ外国人はすぐ辞めるのか? 彼らが日本企業をあきらめた、本当の理由。

2019年12月8日 09:37 ハフポスト日本版

外国人労働者の受け入れ拡大に向けた「改正入管法」が成立して12月8日で1年。 外国人労働者の受け入れが進む中、「外国人はすぐやめる」という声をしばしば耳にする。
実際、様々な理由で辞めてしまう外国人はあとを断たない。技能実習生に対する待遇の問題は言うに及ばず、日本で学位を取得した留学生であっても、日本企業の社風に馴染めず離職する割合は高い。(2006年を最後に同様の調査は実施されていないが、外国人労働者の2006年時点での離職率*1は44.5%だ。)
アメリカ、オーストラリアでの海外生活を経て、現在は日本で翻訳などの仕事をする筆者の周りでも、日本企業を辞めて独立したり外資系企業に転職したりする外国人は珍しくない。
母国語に加え日本語・英語を流暢に話し、成長意欲も高く、日本に根を下ろして生きていきたいと希望している、まさに日本企業が求める「グローバル人材」。日本の煩雑な「シューカツ」をくぐり抜け、自分の強みを活かせるようなポジションを勝ち取ってもなお、半年や1年といった短い期間で彼らに退職を決断させてしまうのは、一体どこに原因があるのだろうか? 
こうしたミスマッチを防ぐために、留学生と企業とは、どう歩み寄るべきなのだろうか? 世界各地から日本にやって来た外国人労働者たちの声を聞いた。
(プライバシーに配慮し、文中の名前は全て仮名を使用)

「やめたくてやめるんじゃない」出せなかった、社長への手紙

まず話を聞いたのは、中南米出身の30代、ダビドさん。日本の大学院でMBAを取得し、食品・飲料業界の中堅メーカーに就職した。創業100年を超える老舗企業である。語学力を生かして海外市場を開拓する営業職は、ダビドさんがやりたかった仕事だった。しかし入社してみると、ほとんど何の研修も指導も受けさせてもらえず、困惑したと言う。
「配属先の海外営業部に外国人は僕1人。みな、僕をどう指導したらいいのかわかっていない感じでした。明確な目標も戦略も無く『自分で考えて』と丸投げ。僕の担当は新規市場でしたが、他の地域でのノウハウややり方を教えてくれたら、応用ができたはず。いきなり一人で営業して来いと言われて、自分のやり方が正しいのかわからず、すごく不安でした。国内営業担当の他の新人は、先輩に同行して指導してもらっていたのに…」

なんとか状況を打開しようと、ダビドさんは真剣に上司に相談した。しかし、事態が好転するどころか、そこから上司の“パワハラ”が始まった。 
「上司からは常に、僕の仕事を責められ続けました。『お前が入って来てから、トラブルばかりだ!』と怒鳴られたり、見込み客を見つけて来ても『信用が低い企業だ』などと理由をつけて、サンプルを送らせてくれなかったり。僕がやることを却下するばかりで、どう改善すればいいのか教えてくれなくて。信頼していた上司にことごとく否定され続け、当惑し、悲しくなりました」
もっともショックを受けたのが、ビザの更新について相談に行った時だったという。
「1年間のビザしか出せないと言われて、もう少し長い期間のビザはもらえないのか、相談しに行ったんです。そうしたらいきなり、『文句があるなら辞めろ』と言われました」
話し合いの余地の無い上司の態度と、頼んでも教えてくれない周囲からのサポートの無さに、ダビドさんは泣く泣く退職を選んだ。 
「あまりにも理不尽だと感じたので、退職する前に社長宛ての手紙を書きました。やめたくてやめるわけではないということを訴えたかったのです。でも…出せなかった。出したところで、戻れるわけではないと思ったから」

せっかく日本に来たのに、なぜ毎日嫌な思いをするの?

日本に来て12年になるイワンさんは、インドネシア出身。日本の語学学校を出て最初に採用されたのは、大手の流通・小売商社だった。人間関係には恵まれたものの、土日出勤を含むハードな働き方が原因で退職した。
次に勤務したのは地方に本社をおく機械関連製造業。いわゆる典型的な日本の中小企業で、中途採用されたのは彼が初めて。日本では未だ馴染みの薄いイスラム教徒のライフスタイルに対して周囲は理解を示したという。
「職場に礼拝のためのスペースを設けてくれたり、飲み会の時には豚肉以外も選べる店を予約してくれたりと、ムスリムを受け入れてくれていると感じました。酔っ払った上司にアルコールを無理強いされた時は嫌だったけど、それは宗教関係なく飲めない人にとってはみんな迷惑ですから」

では、なぜ退職にいたったのだろうか。
「何社か経験して思うのは、日本企業は営業成績などの目に見える結果が評価されやすく、ヒューマンスキルを軽視しすぎている気がします。営業成績が良い人がマネジメントにも長けているとは限らないと思います」
「この会社でも、直属の上司が、リーダーシップスキルに欠けていたことがストレスになりました。彼には日本語のメールを細かくチェックされました。確かに私は日本語ネイティブではありませんから、N1(日本語検定試験1級)を持っていても、日本人のように完璧な日本語のメールを書くことは難しい。でも業務上支障がない程度に意味が通じるなら、それでいいんじゃないかと思ったんですが…一言一句添削されて、神経をすり減らす毎日。地獄でした」
マイクロマネジメントに耐えきれなくなり、1年で離職。転職を決意した瞬間を、今でもはっきりと覚えているという。
「同僚に言われた一言がきっかけです。『せっかく日本にいるんだから、もっと楽しめる仕事を探したら?』と言われて目が覚めました。確かに、毎日がちっとも楽しくなくて、何のために頑張って来たんだろうって」
慣れ親しんだ文化や、愛する家族を離れて日本にやってきた外国人労働者。家族や地縁を持たない彼らは、仕事の内容が自分自身のためになるかどうかという点に対して、日本人よりもシビアとも言えるのかもしれない。人によって仕事を続けるモチベーションは報酬だったりやりがいだったりするのだろうが、イワンさんの場合は「良い時間」だった。
現在はインドネシア企業の日本支社で働いているイワンさん。インドネシアからの技能実習生受け入れのサポートを行っている。新しく日本に来る技能実習生たちに、自らの経験を踏まえてこんなアドバイスをしている。
「文化の違いや言葉の問題で、コミュニケーション不足にならないようにすること。言いたいことや指導内容がうまく伝わらず、誤解して雰囲気が悪くなるケースが多いんです。相手の文化や性格を、お互いに理解するよう努力することが大切だと伝えるようにしています」 

 「外国人」としてではなく、一人のプロフェッショナルとして見てほしかった 

インド出身のジャスプリートさんは、日本で人文系の修士号を取得後、日本の大学の海外オフィスで、留学アドバイザーとして働いた。上司は海外駐在経験の長い日本人。一緒に働く上で不愉快に感じたのが、上司がインド人に向ける人種差別的な発言だった。
「何かにつけて『インド人の仕事は適当だ』『これだからインド人は…』『インド人のくせに経費が高い』など、ことあるごとにステレオタイプな発言をする人でした。日本人の中には、インドのことを新興国として無意識に見下している人がまだまだ多いのではないかと思います。一人のプロフェッショナルとしてではなく、単なる安い労働力として見られているように感じることが多々ありました」
表向きは「他にやりたいことが出来た」という理由で退職したものの、もし職場環境が違っていれば辞めてはいなかっただろうと、残念そうな顔をのぞかせた。
「留学を志すインドの学生たちに日本の素晴らしさを伝える仕事に、すごくやりがいを感じていました。でも、彼らが実際に日本で勉強して、やっと就職できた時に経験するのが自分のような環境だとしたら、なんだか自分が彼らを騙しているように感じられてしまったんです」

 
日本が大好きだと語るジャスプリートさんだが、日本は外国人にとって働きやすい国だとは思えないと言う。
「外国人を受け入れる企業や団体にひとつ提案できるとすれば、長期休暇にオプションを増やすことでしょうか。年に1度くらいは故郷に帰り家族の顔を見たい。でも、日本で与えられる休暇は短いですし、それは日本人と同じように自分のために使いたい。それならば、無給で構わないので、年に1度くらい帰省休暇があれば良いのになと思います。もちろん、お金を稼ぎたい人は帰省せずに働けば良いですし」

日本に定着している人は、どこが違うのか?

それでは逆に、外国からやってきて日本企業に定着し、働き続けている人々はどうだろうか。何か秘訣はあるのだろうか?
韓国出身のキムさんはアニメーターとして、日本で10年以上働いている。いわゆる「外国人枠」などではなく、通常の中途採用に大学の卒業制作作品を送って応募。面接を経て採用された。
日本で働き続けられた理由は、「日本人と同じ業務をこなせる語学力に加えて、代わりのきかない専門職としての技術を磨いてきたから」だと振り返る。
さらに会社の人事制度にも魅力を感じており、長くキャリアを続けてこられた要因として以下のような点をあげた。
「弟子と師匠のように、ペアになって後輩を育成する仕組みができていました。会社の方針として『人を育てる』という姿勢があり、5年ほど同じ監督の元で先輩方にみっちりと教えてもらえて、とてもラッキーだったと思います。同期も半数以上、今も同じ業界で働いています」
「アニメーターの仕事では、男女とも、経歴関係なく基本単価が同じです。出来高なので、仕事を早く良い質でこなせる人にはどんどん仕事が集まり、給料も上がります。完全に実力で判断される世界なので、女性だけ男性のサポート役を押し付けられたり、長い経歴の人だけ賃金が高かったりということがなく、公平さを感じられました」

オランダ出身のテッドさんは、プログラマーとして日本企業で働いて3年になる。1年間のインターンシップを経て、会社との相性を見極めた上で正式入社したという。
「いちばん助かったのは、何かちょっとしたことを聞ける相手がいること。『インターネットのプロバイダどこがおすすめ?』とか、『日本語の契約書ってどう書けばいいの?』など、ほんのちょっとした疑問なんですが。業務に関係があるなしに関わらず、そういう些細な相談事を誰かに聞けば教えてもらえるというのが、会社に対する信頼関係の構築につながりました。込み入った話の時は、社内通訳もつけてもらえます。一人の人間として、きちんと扱ってくれていると感じられていることが、安心して働ける理由です」
会社が手配してくれた就労ビザは3年間。1年ごとに更新しなければならない外国人が多い中、腰を据えて働けることに感謝していると語ったテッドさん。今のところ、転職は特に考えていないそうだ。
“頼ってもいい相手”がいること。会社が自分に対して、公平だと感じられること。こうしたことは、外国人労働者のみならず、全ての労働者が安心して働くために不可欠な要素とも言えるのではではないだろうか。

「労働力」ではなく、「一緒に働く仲間」として

2018年に日本の大学・大学院を卒業し、日本国内で就職した留学生の数は約22万人*2。外国人の就労ビザ要件が緩和された2019年、働き手としての外国人への期待は大きく高まっている。
しかし受け入れ企業側にも、価値観や文化の異なる人間を受け入れることに対する、戸惑いや葛藤は当然ながら存在する。人材開発に時間やコストを割くだけの余裕がある大企業とは異なり、中小企業の多くは社員教育にかけられるリソースが少なく、ノウハウも蓄積されていない。
もちろん雇う側からすれば、「郷に入っては郷に従え」と言いたくなる瞬間もあるかもしれない。しかし、「郷に入っては」ということわざ自体、隣国中国から交易を通じて日本にもたらされた知恵だったという事実を、忘れてはならないだろう。
日本は海外から新たな価値観や技術を柔軟に取り入れることで、自国の文化を発展させてきた国なのだ。
外国人労働者が退職していく理由を、ただのワガママだと片付けるのか、それとも、日本人を含む多様な人材が働きやすい職場環境のヒントを得る機会だととらえるか。
少子化による生産人口の減少が不可避であるこれからの日本において、外国人労働者の声に耳を傾け、より良い労働環境へと「カイゼン」していく真摯な姿勢こそが、日本が誇るべき「日本文化」なのではないだろうか。

(インタビューを終えて)
今回、日本で働いている外国出身の人たちに、たくさんの話を聞かせてもらった。記事中では、日本で就労するうえでビザを必要とする立場にある人のことを、便宜上「外国人」と呼称している。しかしインタビューをまとめるうちに、一人一人に「外国人」というレッテルを貼ることや、「彼ら」という代名詞を使うことに対して、メディアに携わる人間として違和感を覚えたことも追記しておきたい。
「外国人/日本人」という対比をしてしまうと、逆にステレオタイプなバイアスを助長しかねないと感じた。この記事の目的は、外国人労働者が日本企業で働いた際に体験した問題点をシェアすることで、雇用主と外国人労働者とのより良い相互理解を促すことであり、記事中で語られた事例は国籍に関係なく起こりうる問題点であるという点を強調したい。
日本が真に国際化し、多様性を重んじる社会になった時、この記事が全く意味をなさないものになることを、切に願っている。

(取材・文:Chiyo Watanabe Kamino/ 編集:南 麻理江)
*1 厚生労働省発表 外国人雇用状況報告(平成 18 年 6 月 1 日現在)の結果について 
*2 平成29年における留学生の日本企業等への就職状況について
 

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_02ce3fa02155_ビーチテニス本間江梨は「世界一になりたい」を諦めない。挑戦し続けるための心構えとは 02ce3fa02155 02ce3fa02155 ビーチテニス本間江梨は「世界一になりたい」を諦めない。挑戦し続けるための心構えとは oa-huffpost

ビーチテニス本間江梨は「世界一になりたい」を諦めない。挑戦し続けるための心構えとは

2019年12月8日 07:31 ハフポスト日本版

ビーチテニス。みなさんはこの競技を知っているだろうか。
その名の通り、ビーチコートでテニスをする競技で、「ビーチバレー」と「テニス」の特性を併せ持っている。この新しいスポーツで世界一を目指しているのが、本間江梨選手(38)だ。もともとはバレーボール選手で、ビーチバレーに転身し、現在はビーチテニスに挑戦の場を移した。
3つのスポーツを渡り歩き、どれもトップ選手として活躍するマルチアスリート。海外挑戦にも積極的で、バレーボールでは世界最高峰イタリア・セリアA時代にヨーロッパ王者に輝き、ロシアリーグにも参戦した。
「1つにとどまることが本当にできなくて...」
そうあっけらかんと語るのだが、一体どうやったら、そんなに挑戦し続けられるんですか?
本間選手に秘訣を聞いた。

春高バレーで賞総なめ、でも「転向」本間選手は小学1年でバレーボールを始めた。高校時代は春の高校バレーで準優勝し、最優秀選手賞(MVP)を始め賞を総なめにした。卒業後はVリーグのイトーヨーカドーで活躍し、順風満帆に見えたスポーツキャリアだったが、1年で退社。ビーチバレーという新しいフィールドに移った。
「もともと枠におさまれない人間なので、それまでは本当に自由にさせてもらってきたんです。でもやっぱり、企業に入るとすごく枠があって、そこからはみ出ることが許されない。自分が本当に好きなスタイル、バレーボールができないのなら、やる必要はないと思いました」
ビーチバレーでも頭角を現し、21歳以下ジュニア全日本代表に選ばれ、ジュニア世界選手権9位、アジア選手権ベスト8の成績を収めた。
「団体ではなく2人なので、自分が努力すれば勝てるし、自分のスタイルを貫ける。そこに面白さを感じました」
「私のプレー見て!」突っぱねられても掴んだセリアA行きビーチバレーに転向して半年ぐらいして、バレーボールの海外挑戦の話が舞い込んだ。イタリアのチーム「モデナ」で監督を務める、元中国代表で五輪金メダリストの郎平(ろう・へい)さんが、レシーブ専門職のリベロができる日本人を探していた。

本間選手が紹介・推薦されたが、年齢を理由に突っぱねられた。それを知らされ怒りがこみ上げた。 
「『若すぎるからダメ』と言われたことがちょっと頭にきて。冗談じゃない、ちょっと私のプレーを見てみろって」
ちょうどビーチバレーの大会で中国に訪問するのに合わせて、自ら監督の元を訪ねて、“トライアウト”を申し出た。勢いに任せて、持ち合わせていたビーチバレー用の水着と外履きシューズでプレーを披露した。 するとその場で「気に入った。イタリアに来て」。世界最高峰リーグのセリエA行きを勝ち取った。
「なにくそ、という気持ちがそうさせた。自分がすごく前向きにいろんなことに挑戦している時期だったと思うので、『そうなんだ、仕方ない』という選択はもちろんなかった。駄目でもいいから1回トライはしないと納得がいかなくて行きました」

たった1年で欧州王者にこの決断は、モデナ側にとっても大成功となった。
その年の2002年シーズン、モデナは国内リーグ優勝に止まらず、ヨーロッパ選手権も制覇。全試合に出場した本間選手は、ベストリベロ賞、MVPを受賞した。日本人が世界最高峰のセリエAでプレーするのが珍しかった時代に、主力としてたった1年で頂点に上り詰めた。
「日本人としては誰も行きついたことがない、世界最高峰といわれるセリエAでトップを見たい」と高く掲げた目標を、現実のものにした。いち選手としても「プロとは何か」を叩き込まれ、それが結果につながったと振り返る。
「例えば最初の1本目のボールは、コートのどこに落ちても私がとらなきゃいけない。日本では誰がこのエリアをとるみたいなのがあったのですが、本当にびっくりするぐらいとらなくて、戸惑っていると『あなたの仕事でしょ』と怒られました」

あえて2部リーグへあくなき挑戦は続く。翌シーズン、セリエAのチームからのオファーを蹴ってロシアに渡った。
「掲げた目標を達成できたのでもっと違う国を見てみたかった。ロシアという国は未知数で、バレーボールの歴史もすごくあるし、世界ランキングもいつも上位にいたのに惹かれました」
しかも、オファーをもらっていた1部リーグのトップチームではなく、2部リーグの最下位のチームだった。
「1部リーグのトップチームは、私が入ってもきっとトップのまま。変化がないことがすごく嫌で、だったら2部リーグの最下位の方が面白い。どこまでできるのか自分へのプレッシャーでもありました」
そこでも、「1部リーグ昇格」という目標どおりの結果を残した。

「社会経験したい」スポーツ界を退く当時は海外でプレーする選手がほとんどいなかったことから、全日本代表への選考は、国内でプレーしている選手を前提とする「ルール」が存在していたという。
本間選手は、その「ルール」についてメディアを通して言及していた。全日本代表から声がかかり、合宿には参加したが、日の丸背負って戦うモチベーションを見出せなかった。 
「ロシアにいたときは『日本のバレーボール協会を抜けて行ってくれ』と言われて、『一切ノータッチ』という扱いでした。それがメディアで放送されると、『管轄に入らなければいけなくなる』といった言い方をされて...」
そこからビーチバレーに活躍の場を移し、アメリカに渡って現地プロリーグに参戦。その後日本に帰国すると、バレーやビーチバレーを一切やめて、一般企業に就職する。その時、20代の前半。プロリーグのない日本バレーボール界での引退後を考えた上で、将来やセカンドキャリアも見据えた選択だった。
「例えば30歳を過ぎて引退して、社会を知らない人間がそこからいきなり飛び込めるかといったら、多分プライドも邪魔して駄目になる。だったら今の時点で社会を経験しておこうと思いました」
トップアスリート生活から一転、スポーツの第一線から離れた日常を3年間過ごした。働きながら通信制の大学に通い、「40歳になったら社長になりたい」と経営学を専攻した。
すると早速、大学バレー部の監督からコーチの誘いを受けた。無心にボールを追いかける学生を見ると、忘れかけたバレーへの情熱が蘇ってきた。学生と組んでビーチバレーで選手としてインカレに出たのをきっかけに、もう一度、ビーチバレーの世界に復帰した。
「駄目なんですよね。止まっていられなくて、常に変化がないと頑張れないんです」 

「できなくて面白い」だからビーチテニスビーチバレー選手として約5年間。ブランクをはねのけアジア大会の日本代表にも選ばれたが、けがで断念。オリンピックを目指していたが「どうあがいても世界の頂点には絶対に行けない」と、日本と世界との差から、限界を感じていた。
そんな時、練習場所だった神奈川県の鵠沼海岸でビーチテニスと出会った。飛び込み参加し、初めてラケットを握ってみたが、飛んできたボールを全て手で受けてしまう。 
「あれ?何もできなくて面白い」
初めての感覚だった。ラケットの扱いもおぼつかないのに、その週末の国際大会でトップ選手のプレーを見た時、「やり方次第で世界を取れるかもしれない」と可能性を感じた。
新たな目標を見つけ、水を得た魚のようにビーチテニスの世界にのめり込んでいった。気づくとビーチバレーそっちのけで、商売道具が「手」から「ラケット」に変わった。
「一番大きい目標は世界の頂点というのは変わっていません。まずはとにかく、日本で一番にはならなきゃいけない」
テニスからの転向者ばかりの中、32歳で新しい競技に飛び込んだ。現在は国内ランキング1位の大塚絵梨奈選手とペアを組み、頂点を目指している。

ペア競技がベストビーチテニスは、砂浜のビーチコートで、ボールをバウンドさせずに空中でラリーをしながら得点を取り合うペア競技。「パドル」と呼ばれるラケットはテニス用よりも短く、表面は羽子板のように平らで、ボールも柔らかい。
「単純にビーチでやる開放感が魅力。自然の中だと、いろんな感情を素直に出せる状態になれるのが好きなところです」
練習にお邪魔させてもらうと、白砂を敷き詰めたビーチコートで、目にも留まらぬスピードで宙を行き交うサーブやラリーの応酬に圧倒された。

本間選手が披露した、ビーチコートならではの豪快なダイビングキャッチは、バレーボールのリベロの姿と重なった。
活動的な性格から「絶対、個人競技向き」と人から言われるというが、「ペア競技がベスト」と言い切る。
「やっぱり、仲間、人が好きなんです。お互い足りないものを補いながら、相手の倍の力を引き出す。『本当にこの人』という人と向き合って、同じ目標に向かって戦える。2人が究極なのかな」 

「どっちがワクワクする人生か?逃げるのもあり」本間選手は、どうしてここまで挑戦し続けられるのか。
不安がないわけではない。人生の帰路に立たされ、選択を迫られた時、いつも「どっちがワクワクする人生なのか?」と、自身に問いかけている。
人並み外れた運動能力から、時には超人扱いされるトップアスリート。彼らもひとりの人間として、壁や悩みにぶち当たり、迷い落ち込んだ時、自分なりの方法で向き合い、乗り越えている。
本間選手の場合は「環境を変える」こと。スポーツの競技や拠点とする国・場所を変えたり、時にはスポーツ界から離れて、また戻ってきた。
「いま何をしたいのか見えなくなった時に、まったく違うカテゴリーの人と会って話したり、生活したりてみたら、何かが見えるんじゃないか。行き詰まったら、違うことをしています」
「人から言わせたら逃げているのかもしれない。だとしたら、逃げるのも1つの道で全然あり」
「いっぱい外れて、いろんな嫌な思いやつらいこと、もちろん傷ついたりする人生も、自分で選んでいることが大きい」
本間選手の原動力や考え方は、「いいも悪いも必ず自分で決める」という、母親の教えが大きく影響しているという。
ビーチテニスで世界一を目指すかたわら、「40歳になったら会社をつくりたい」という目標も叶えつつある。ビーチテニス男子の牧篤矢選手と会社を立ち上げた。
アスリートが独り立ちする難しさを実感した経験から、「アスリートじゃなくても、夢を追いかける人の応援ができる会社をつくりたい。社会とのつながりを持ちながら夢を追える環境を作りたい」と考えている。
その信念が、本間選手の絶え間ないチャレンジを支えている。

cat_oa-huffpost_issue_808398a21d1e oa-huffpost_0_a78254ec6b81_真珠湾攻撃から78年。太平洋戦争が始まったあの日、現地で何が起きていたのか(画像集) a78254ec6b81 a78254ec6b81 真珠湾攻撃から78年。太平洋戦争が始まったあの日、現地で何が起きていたのか(画像集) oa-huffpost

真珠湾攻撃から78年。太平洋戦争が始まったあの日、現地で何が起きていたのか(画像集)

2019年12月8日 07:22 ハフポスト日本版

1941年12月7日午前7時55分(日本時間8日午前3時35分)。日本軍による真珠湾攻撃で、アメリカ海軍基地から白煙が立ち上った。
太平洋戦争の開戦の火蓋を切ったあの日から、きょう12月8日で78年目を迎えた。
当時、現地では何が起きていたのか。現存する資料写真とともに振り返る。
最初の攻撃対象とされているのは、真珠湾内にあるフォード島基地や、オアフ島本島のヒッカム飛行場。日本軍の航空部隊が奇襲で爆弾を投下すると、爆発・炎上し、白煙が立ち上った。
●奇襲攻撃を受けるフォード島基地

●真珠湾に臨むヒッカム飛行場から、白煙が立ち上った

●ヒッカム飛行場の11番格納庫

●爆破された後、ヒッカム飛行場にたどり着いたアメリカ軍の爆撃機

その後、太平洋艦隊が誇る「カリフォルニア」「ウェストバージニア」「オクラホマ」そして「アリゾナ」といった戦艦、駆逐艦「ショー」も標的となった。
日本軍機が投下した爆弾や魚雷によって爆撃され、辺りはまたたく間に黒煙に包まれた。犠牲者はアメリカ側の約2400人に対し、日本側は約60人だったという。
●戦艦「ウェストバージニア」が炎上

●爆撃され、沈む戦艦「アリゾナ」

●駆逐艦「ショー」爆発の瞬間

真珠湾攻撃に向けて、日本軍は入念な準備をしていた。主要基地である真珠湾を攻撃することで、アメリカ人の戦意を喪失させ、短期決戦を狙っていた。後に真珠湾攻撃で撃墜された日本軍機からは、アメリカ軍の戦艦の配置を示した図も見つかっている。
奇襲により、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または行動不能とする戦果を挙げた。だが、その後に引き上げられた「ウェストバージニア」を始め、6隻が戦列に復帰。空母3隻はハワイを離れていたため無傷で、決定的なダメージを与えることはできなかった。
●空母から出発の準備をする日本海軍の九九式艦上爆撃機

●真珠湾攻撃に向かう戦闘機を見送る空母「翔鶴」の乗組員

●山本五十六海軍大将(1940年)

●アメリカ軍の船艦の配置を示した図

開戦通告が遅れて「騙し討ち」となった真珠湾攻撃は、アメリカの士気を高める結果となった。アメリカ政府は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」とスローガンを掲げ、開戦ムードへと傾いた。
そして真珠湾攻撃の翌日8日。フランクリン・ルーズベルト大統領は日本への宣言布告の署名をし、ここから3年9カ月に及ぶ太平洋戦争に突入して行った。
●フランクリン・ルーズベルト大統領

【参考文献】
・「図説 太平洋戦争 16の大決戦」(編:太平洋戦争研究会、著:森山康平、河出書房新社)
・「図説 太平洋戦争」(編:池田清、著:太平洋戦争研究会 、河出書房新社)

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「この会場を大聖堂に変えよう」U2が中村哲医師を追悼。13年ぶりの来日公演で

2019年12月7日 17:26 ハフポスト日本版

世界的なロックバンド「U2」が5日、13年ぶりの来日公演で、アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲医師を追悼した。
観客らが撮影したとみられるTwitterに投稿された動画によると、会場のさいたまスーパーアリーナは照明が落とされ、ボーカルのボノさんが「この会場を大聖堂に変えよう。携帯をキャンドルに変えよう」と呼びかけた。呼びかけに応じた観客が、スマートフォンのライトを点灯させ、無数の光が揺れた。
長年にわたって灌漑(かんがい)事業などの人道支援にあたってきた中村医師は4日、アフガニスタン東部で何者かによって銃撃されて死亡した。中村医師が殺害されたことに対しては、国連の報道官が厳しく非難したほか、アフガニスタンのガニ大統領が声明を発表するなど、各国に悲しみが広がっている。
ボーカルのボノさんは5日のライブ中に「偉大な中村医師を追悼するひとときを持とう」「中村哲さんのために」と中村さんを追悼。ボノさんは、楽曲の合間にも何度も「テツ・ナカムラ」「ペシャワール会」と祈るようにつぶやいた。
ライブでは、アメリカの公民権運動の指導者で、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げて作ったと言われる「プライド」も歌われた。「プライド」には「彼らは命を奪ったが、誇りまでは奪うことはできなかった」という歌詞がある。

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羽生結弦の滑走時間は?グランプリファイナルでネイサン・チェンとのライバル対決

2019年12月7日 12:54 ハフポスト日本版

史上初の5度目の優勝か、3連覇か。
イタリアのトリノで開かれている、フィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズのGPファイナル。5度目のGPファイナル優勝を目指す羽生結弦選手は、5日のショートプログラムを終え、2連覇中のライバル、ネイサン・チェン選手に大差のリードを許して2位。日本時間7日夜に行われるフリーで逆転を目指す。
羽生選手は、5日のショートプログラムで、4回転サルコーやトリプルアクセル(3回転半)を見事に決めたが、4回転トーループからの2連続ジャンプができないミスが出た。一方でチェン選手は完璧な演技を見せ、ショートプログラムの自己ベストを更新。羽生選手に12.95点リードした。 
チェン選手と羽生選手は因縁のライバル関係だ。日本開催だった昨季の世界選手権で、チェン選手はショートプログラム、フリーでも羽生選手をリードし、優勝した。今シーズン初の直接対決となるGPファイナルを前に、羽生選手は「ファイナルはネイサン・チェン選手との戦いみたいな感じでしか思っていない。やっぱり勝ちたい」と語っていた。 
日本時間7日夜に開かれるフリーでは、羽生選手は5番目に、チェン選手は6番目に滑走する。テレビ朝日系列で午後7時54分から放送予定。
 
滑走順と時間(日本時間)は以下の通り。

午後9時7分  金博洋(中国)
午後9時15分 ドミトリー・アリエフ(ロシア)
午後9時23分 アレクサンドル・サマリン(ロシア)
午後9時31分 ケビン・エイモズ(フランス)
午後9時38分 羽生結弦(日本)
午後9時46分 ネイサン・チェン(アメリカ)

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「タダでとり放題」デマが広がり...農家の畑から500トンのダイコンが消えた。

2019年12月7日 11:59 ハフポスト日本版

あまりに残酷なデマというほかない。
中国・武漢市で、「タダでダイコンとり放題」とデマを拡散された農家の畑に近隣住民らが殺到し、出荷を控えた500トンのダイコン全てが引き抜かれる事件があった。
地元の警察はデマの発信元について調べるとともに「ダイコンを抜いた人は自ら名乗り出て、農家に賠償してほしい」と呼びかけている。

■出荷ためらっていたら...被害にあったのは武漢市の村に住む農家、陳さん。現地メディア上遊新聞によると、陳さんの畑ではダイコンが順調に育ったものの、市場では値崩れ気味だったため、出荷をためらっていたという。
11月末、それを見た村民が「ダイコンを分けてくれないか」と提案。同じ村の住民ということもあり、陳さんは一部の育ちが悪かったダイコンなら抜いてもいいと話したという。
しかし事態はここから急変する。
12月1日、陳さんが畑に出ると、10人ほどがせっせとダイコンを抜いている。その中には陳さんが知らない人の姿もあったため、警察に通報。駆けつけた警察官がその場をとりなした。
だがこれで終わらなかった。ネット上ではすでに「タダでダイコンとり放題」というデマが広まっていたのだ。
2日、3日と日にちが経つにつれ、畑を訪れる人は増えるばかり。畑のそばに車が長蛇の列をなしていた。中国新聞週刊によると、多い時には数千人がダイコンを抜きに来たという。
結果、500トンものダイコンは全て抜き取られてしまった。陳さんは地元メディアにこう語る。
「ネットは恐ろしい。ダイコンを育てるのに21万元(約325万円)かけたのに...今は損失を減らすため、空になった畑で小麦を育てています」
地元の警察も捜査を開始。デマの発信元について調べるほか、ダイコンを抜いた人に対して「自ら名乗り出て、農家に賠償してほしい」と呼びかけている。
陳さんの元には、すでに謝罪したうえで代金を支払う人も出てきているという。