「日本は興味もないし、知らない国だったけど『行きます』と即答しました。家族のため。とにかくお母さんを楽にしてあげたかったから。でも、お母さんは日本に行くなんておかしくなったのかと嘆き、1週間、口をきいてくれなかった」
「東京に住めると思っていたらよみうりランドのホテル住まいで、あのへん(東京・稲城)は、何もなく夜は真っ暗。4月だったから寒いし、毎日泣いてたね。ムリ、すぐに帰ろうと思った」
1989年、国立競技場でプレーするラモス瑠偉
■松木がいなかったら3カ月で帰国していた
「赤坂や六本木のディスコに連れて行ってくれてね。ネオン大好き(笑)。とにかく楽しくって日本に残ることにした。松木がいなかったら、3カ月でブラジルに帰ってた。ポルトガル語も覚えてくれた松木は恩人、兄弟だと思ってるよ」
「日本から追い出せという声も多かったなか、読売クラブは私を守ってくれました。クビも覚悟していたので、このときの感謝の気持ちが、今も私の心の根底にあるんです」
「誰よりもうまくなりたい」
「出場停止になったときに社長に『必ず恩返しをします』と約束したから、絶対に結果を出したかった。その後、香港プロリーグから当時のお給料の3〜4倍でオファーが届いたけど、行かなかった。読売クラブを愛していたから」
「初音ちゃんもブラジル行きに賛成してくれてね。当時の読売クラブのコーチで元ブラジル代表のジノ・サニに相談したら『お前の夢は何?』と聞かれ、自分がどこまで通用するかブラジルでやってみたいと話しました。
ただ、ふと考えた。初音ちゃんは一人娘。ブラジルに連れて行っちゃったら、誰が両親の面倒をみるの? って」
「そこまで決心したなら最後は恩返し、日本人に帰化しなさいと。そうすればもう一人、外国人枠で選手を連れてこられるからアジアクラブ選手権を獲りにいこうと。
「その年に今の奥さんと再婚し、一緒に暮らし始めた。(脳梗塞で倒れたときに)彼女が早く発見してくれなかったら、今この場に立ってないと思う。
「コロナの時代に思うのは、親孝行を、おじいちゃん、おばあちゃん孝行をしなさいということ。家に帰ったら家族で会話をしようよ。コンビニに行くなら『おばあちゃん、何か欲しいものない?』って聞こうよ。離れて住んでいるなら、なんで電話一本かけられないの? 思いやりが大切だよ。コロナがあったことで、いろいろな行動の反省に繋がればいいと思っています」
らもするい
1957年2月9日生まれ ブラジル出身 1977年に来日し、読売サッカークラブに加入。1983年に日本サッカーリーグ初優勝、翌年の連覇に貢献した。1993年にJリーグが開幕すると、ヴェルディ川崎でプレーし、同年、1994年にリーグ連覇を果たす。また、日本代表としても1992年にAFCアジアカップで優勝するなど活躍。引退後、ビーチサッカー日本代表監督、Jクラブでの監督などを経て、その功績を認められ、日本サッカー殿堂掲額者となる。2016年末には、脳梗塞で生命の危機に陥るも奇跡的な回復と懸命なリハビリで復帰。現在は競技活動以外にもパラスポーツ・バリアフリー応援大使、コメンテーター、タレント、教育などさまざまな分野で活躍している
【シュハスカリア キボン! 新虎通りCORE店】
住所/東京都港区新橋4-1-1 新虎通りCORE 2F
営業日時/月曜日~金曜日11:00~15:00(L.O.14:30)、17:00~23:00(L.O.22:00) 土曜日17:00~22:00(L.O.21:00)
休日/日曜日・祝日
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写真・野澤亘伸、今井恭司(読売サッカークラブ時代)
(週刊FLASH 2021年8月10日号)