▲左が三橋さん、右が私です。めちゃ日当たりのいい会議室。
――入社以来ずっと「レタスクラブ」編集部一筋!のみっちゃんですが、編集者を志したのはいつ頃からなんですか?
三橋 私は元々空想好きで、夢見がちな子どもだったんです。作文や絵を描いたり、自分で作るという作業が好きで、小学生の時は校内新聞を作ったり、放送委員会をやったりしていました。中学・高校も新聞部に所属して、毎年夏休みには合宿と称し、小田原の名産を取材たりする活動をしていました。
――そんなほのぼの中・高校時代を経て、大学を選ぶときはやっぱり新聞学科とかのマスコミ系を考えたのですか?
三橋 そうですね。でも同時期に心理学に興味があって、どちらにいくか迷っていたのですが、推薦をいただいたのが心理学を学べる大学だったので、心理学を学びながら、そこでまた学内誌を作る編集委員会に入りました。幼いときから好きなことが変わっていないんです。その好きなことをずっと続けていられているのは幸せだと思っています。
――自分の好きなことを明確に分かっているってすごい強みだと思います。大体若い時って、自分は何が好きなのか分からないじゃない。何に向いているかも、何がしたいかもわからないから。そういうのが一切なかったんですね。そんなみっちゃんですが、長年「レタスクラブ」に携わって、山あり谷ありを身をもって経験してきたと思うけど、入社したころは雑誌が一番売れていた頃ですよね。その頃のレタスクラブの雰囲気ってどんな感じでしたか?
三橋 その頃は編集部員も今の2倍くらい人がいたと思います。料理、リビング、読み物の3班体制でした。それと別に広告ページの担当がいたので潤沢でした。なので、1企画に対して全力投球できたので、大変ではありましたけど練り込んで企画が作れた良い時代でしたね。
――私がレタスクラブの編集長として入ってきて、雑誌全体の方向性や編集部の雰囲気も変わった時は、さすがにヒヤッとした? 今、当時を振り返ってみてどうですか?
三橋 そこはさすがに一番の激震でしたね(笑)それまで会社は少しずつ変わっていきましたが、媒体の方向性が大きく変わることはなかったので、根底から変わるんだと感じました。
――私としても急な辞令だったから最初はとまどったけど、みんなの編集ぶりを見ていくうちに “レタスクラブ愛”が育っていきました。
三橋 私、大げさじゃなく、レタスクラブは世界を救える雑誌だと思っているんです。みんなが生活するうえで必要な情報を、ラクに楽しくできたらハッピーになれるじゃないですか。でも、役立つ情報を地道に発信しているだけでは、より多くのみなさんに届かないんだということを学んだので、今年の目標は臆せずに色々な所で「レタスクラブ」をアピールしていこうと思います!
▲みっちゃんのレタスクラブ愛は深い…。編集者の愛は誌面に伝播する!
――誌面を作るうえで、これだけは大切にしていることはありますか?
三橋 ズボラな私でもやりたいと思うかどうかを考えています。「レタスクラブ」は生活実用誌なので実用として役立たないといけないから、一つでもハードルがあると読んだ人もやってくれないし、私自身もやらないと思うんです。読者の方に「コレいいじゃん! やってみたい」と思ってもらうにはどうしたらいいか、もしくは少しハードルを下げて「こんなに簡単でラクな方法でもいいんですよ」という提案を心掛けています。
▲みっちゃんは無類の珈琲好き。いつも片手にカップを持っています。
Text 根津香菜子
松田紀子(まつだのりこ)編集長
リクルート九州にて『じゃらん九州発』の編集に携わった後、メディアファクトリーにてコミックエッセイを立ちあげ、『ダーリンは外国人』などのミリオンを創出。KADOKAWA合併後の2016年6月より、コミックエッセイ・レタスクラブ編集課 編集長。書籍と雑誌両方の編集長を務める。
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