1939年頃のアインシュタイン(左)と、1971年10月のフランス領ポリネシアでの核爆発(右)。
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・ドイツ出身の物理学者アルバート・アインシュタインは平和主義者として有名だったが、1939年にはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトに宛てた、原子爆弾の開発を求める書簡に署名した。
・アインシュタインやその他の科学者たちは、ナチス・ドイツが核エネルギーを使って、港全体を破壊できる「新しいタイプの極めて強力な爆弾」を作ることを懸念していると述べた。
・この書簡が、広島、長崎に投下された原爆の開発「マンハッタン計画」へとつながった。
・のちにアインシュタインは、アメリカに技術開発を勧める以外に当時は選択肢がないと感じていたと語ったが、ドイツが原爆の開発間近だったことはないと知り、この書簡は「大きな誤り」だったと話した。
第二次世界大戦が勃発する1カ月前の1939年8月2日、ドイツ出身の物理学者アルバート・アインシュタインはアメリカの大統領フランクリン・D・ルーズベルトに宛てた、2ページにわたる書簡に署名した。これがアメリカを核軍拡競争へと引き入れ、歴史を変えることになった。
アインシュタインは当時、ナチスが権力を掌握したドイツを逃れ、すでにアメリカにいた。そして、ドイツの科学者たちが「核分裂」を発見したことを知った。
書簡は、この発見によって「新しいタイプの極めて強力な爆弾」が作られる可能性がある —— そして、爆弾は港とその周辺地域全てを破壊し得る —— と、ルーズベルトに警告した。
のちにアインシュタインが「大きな誤り」と呼ぶことになるこの書簡は、ルーズベルトにアメリカにおけるウラン研究を加速させるよう求めた。
書簡の全文がこちら。
アインシュタインが署名したルーズベルト宛の書簡。
Atomic Heritage Foundation
アインシュタインの警告は、アレクサンダー・ザックス(Alexander Sachs)によってルーズベルトに伝えられた。爆弾に関する同様の警告を伝えたのもこの人物だと、当時のニューヨーク・タイムズが報じている。
ルーズベルトはこう言った。「アレックス、君が望むのはナチスが我々を吹き飛ばさないことか」
ザックスはひと言、「その通りです」と答えた。
すると、ルーズベルトは側近を呼び、「これは行動を必要とする」と伝えた。
世界初の核爆発によるキノコ雲の写真(ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティー試験場、1945年7月)。
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ユダヤ人のアインシュタインは、ハンガリー生まれの物理学者レオ・シラード(Leo Szilard)の勧めでルーズベルトに書簡を書いた。シラードは、この新たに発見された技術をドイツが武器を作るのに使うだろうと考えていた。
シラードと、ハンガリーの物理学者でともに難民となっていたエドワード・テラー(Edward Teller)とユージン・ウィグナー(Eugene Wigner) は、彼らの深刻な懸念をアインシュタインに伝えた。ルーズベルトに宛てた書簡を書いたのはシラードだが、署名したのはアインシュタインだった。これは最も権威があるのはアインシュタインだと彼らが考えたからだ。
アインシュタインとシラード。
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アトミック・ヘリテージ財団のプレジデント、シンシア・ケリー(Cynthia Kelly)は2017年、ナショナルジオグラフィックに対し、アインシュタインの有名な"質量とエネルギーは形の異なる同じもの"という発見がこうした武器開発の土台を作った一方で、「彼は間違いなく、この理論を武器として考えてはいなかった」と語った。
そして、アインシュタインはエネルギーがいかにして利用できるかについて詳細を明らかにしたことはなく、かつて「自分自身を原子エネルギー解放の父とは考えていない。わたしが果たした役割は非常に間接的なものだ」と語っていた。
アインシュタイン。
AP
アインシュタインの書簡は、効果があった。ルーズベルトは1939年10月、アインシュタインの書簡を受け取った同じ月にウラン諮問委員会(Advisory Committee on Uranium)を作った。この時点で第二次世界大戦は始まっていたが、アメリカはまだ関与していなかった。
諮問委員会はその後、マンハッタン計画へと姿を変えた。アメリカのこの極秘プロジェクトが原爆を開発し、それが1945年8月、広島と長崎に投下され、数多くの犠牲者を生んだ。
原爆投下の数日後、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をし、実質的に第二次世界大戦が終わった。
原爆投下後の広島(1945年8月6日)。
AP
ナチス・ドイツは核兵器を開発しなかった —— 本格的に開発しようとしたこともなかったようだ。
アインシュタインは原爆の開発には携わっていない。ドイツ人で、左派寄りの政治活動家であったことから、アインシュタインは安全上のリスクが高すぎると見なされ、マンハッタン計画への参加を許されなかった。
だが、日本で原爆が投下されたと聞いたとき、アインシュタインは「なんということだ」と言った。
その後、アインシュタインは「ドイツが原爆の開発に成功しないと知っていたら、爆弾のために何かをすることはなかっただろう」と語っている。
「我々はこうして前代未聞の大惨事へと徐々に向かっていった」とも、アインシュタインは警告した。
アメリカの大統領ルーズベルトと会談するイギリスの首相ウィンストン・チャーチル。この会談で、両首脳は原爆に関する計画を決めた(1942年6月)。
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2005年に公開された手紙で、アインシュタインは日本人の友人に対し、「わたしは日本に対する原爆の使用を常に非難してきたが、わたしはあの運命の決断を阻止するために何もできなかった」と書いている。
また、1952年には日本の雑誌に「こうした実験が成功すれば、全人類にとって恐ろしい危険となることを十分認識していた」と書いた。
「他の解決法が思いつかなかった」と、アインシュタインは書いている。
(敬称略)
※この記事はもともと2019年8月6日に公開されたもので、タイトルの一部を更新して改めて公開したものです。
[原文:Albert Einstein wrote to the US pleading with the government to build an atomic bomb 80 years ago. Here's what he said.]
(翻訳、編集:山口佳美)