デジタル庁の創設が発表され、行政のデジタル化に向けた議論が活発化してきた。教育分野でも、教科書のデジタル化やオンライン授業についての議論が注目を集めているが、省庁との間では温度差もある。
報道によると、平井卓也デジタル改革相は、10月6日に行われた萩生田光一文科相、河野太郎行政改革相との意見交換で、オンライン学習を授業時数に含めることを提言した。しかし、荻生田文科相は「全ての授業がオンラインで代替できることは、今の段階では考えていない」と話し、意見の違いが浮き彫りになった。
教育情報化を専門とする国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)の豊福晋平准教授は、「教育のデジタル化への動きは30年間足踏みしている。根幹である教育の基盤を刷新しないと意味がない」と話す。デジタル庁は、どのようなスタンスで取り組むべきか。豊福氏に詳しく聞いた。(武藤祐佳)
●既存の官庁にかわって、横槍を入れていくべき立場
ーーデジタル庁はどのような役割を果たすべきでしょうか。
既存の官庁がそのままだと、その枠組みを壊せないので、横槍を入れていくことです。ただ、今のままだと、問題の核心の迫ることは難しいと思います。
例えば、10月15日に河野大臣がTwitterで「縦割り110番に多くの声が寄せられていた保護者と学校の間のやり取りに関して、文科省が動きます」と書いていました。そういう提言はできるのでしょうが、デジタル化のボトルネックを根本的に解消する方向にドライブできるかは疑問です。
文科省は自ら体制を変えることを苦手としています。情報化をはじめとする新しいものについては、できるだけ大騒ぎせずに、既存の枠組みを部分的に改変することで丸め込みたいという姿勢です。教育情報化は大きなポテンシャルを持っているはずなのに、それを既存の枠組みに押し込むので、角をためて牛を殺してしまいます。これを30年ほど繰り返してきたのが教育情報化の失策ともいうべき、今の状態なのです。
本来のDX(デジタル・トランスフォーメーション)の考え方からすると、官庁が二転三転するくらいインパクトのあることをしなければ、情報社会に対応する大変革は起こりません。
デジタル化に向けた学校教育の課題としては、授業形態やカリキュラムといった教育のあり方に関わるコア部分と、その周囲のものがあります。本当は前者が重要なのですが、デジタル庁は、おもに後者の側から上手に本質に斬り込んでいくような提言が求められるでしょう。
ーー具体的に、どのような点を変えていくべきでしょうか。
現時点の分かりやすい目標は、「学びのデジタルモビリティ」の実現だと考えています。例えば、GoogleなどのクラウドIDでログインすると、スマホでもノートパソコンでも自宅のパソコンでも、すべて同じ作業環境が呼び出せます。
2019年から開始されたGIGAスクール構想で、小中学校段階の1人1台学習者端末整備と、校内のネットアクセス環境整備が急ピッチで進められているので、これをもう一歩進め、子どもも大人も、いつでもどこでも学べるデジタル環境をもっと大胆に構想すればいい。
学びのデジタルモビリティが実現すると、インプットのためのリソースがデジタル化されるのはもちろん、学校・保護者・子どもたちの間の連絡がすべてオンライン化されたり、自分で何かを作ったりまとめたり発表したりというアウトプットの部分もデジタルのプラットフォーム上で可能になります。これまでの学校のような、特定の授業時間や場所の制限が軽減されれば、学びの機会はずっと広がります。
●世界的な未来教育の潮流と日本の教育には大きなギャップがある
ーー授業やカリキュラムなど、コアとなる部分についてはどう考えていますか。
教育方法に限っていうと、明治時代以降、学校では基本的には板書と問答だけで、一教室40人の子どもを相手に授業をしてきました。そうすることが当時としては一番合理的かつ効率的だったからです。教員が一方的に教え、子どもたちはそれを受け入れる姿勢が強化され、カリキュラムは標準化され直線的に消化されるものになりました。
情報化はリアルな学校の制限を大幅に取り除くので、カリキュラムはより個別化され柔軟なものに変化すると見られています。教員の役割も一方的に情報を伝達する立場から、児童生徒個々人の特性や傾向を読み取って、きめ細やかなサポートをする側面が強化されるでしょう。これに伴って教職養成に必要とされる事柄も大幅に変わるはずです。
このようなポテンシャルをきちんととらえて、最適化された制度構築ができればよいのですが、もともとの学校教育の枠組みが大きすぎて、何をどう扱えばいいか当事者さえ十分わかっていないというのが大きな課題です。
ーー他の国では議論が進んでいるんでしょうか。
学校教育がどう変わっていくべきか、という未来教育のための国際的議論が行われています。その中でICTの位置づけは重く、より複雑化し増大するカリキュラム内容を効率良く伝達する手段としてはもちろん、データの取り扱いも含めたリテラシーがこれからの社会で必要とされる資質や能力のひとつであると認識されています。
一方で、今の日本の教育では、ICTは個人の資質・能力とは関係ない余計なものと捉えられていて、パソコンなしで手計算で問題を解けなくてはダメという裸一貫主義です。デジタルが教育と個人の資質能力にどれだけ深く関わりうるかという能力観の部分だけでも、世界的な未来教育の潮流と日本の教育との間には、まだ大きなギャップがあります。
デジタルを教育に取り入れて世界の潮流に乗るためには、授業の形態はもちろん、カリキュラムや教職課程も含めて全部検討し直さなくてはいけません。
しかし、過去日本は教育大国だと言われ続け、OECD/PISA(生徒の学習到達度調査)でも常にトップランカーです。そのため、従来の日本型学校教育を過信して「我々はこのやり方でいいはずだ」とおごっているのではないでしょうか。
しかし、2018年のPISAでは、日本の読解力の項目の順位は37ヵ国中11位に落ちてしまっています。以前、2003年2005年に30カ国中12位に落ちたときには大騒ぎになって対策がとられましたが、今回は目立った動きがありません。順位の下落については、たとえば読解力テストがコンピュータ使用型調査に移行した影響が指摘されていますが、放置すれば、次の調査ではもっと下がるでしょう。
実は、学校教育のコアに関わるデジタル化にこそ課題があるのに「とりあえず国語の授業でICTを使う機会を増やせばいい」とか、そんな簡単な話では済ませられない状況になりつつあります。
●自ら動けない文科省の「膝を崩せ」
ーーコアの部分を変えることはできないのでしょうか。
情報社会のありようにあわせて、カリキュラム・授業形態・教職課程を柔軟に変えることが教育情報化の本丸ですが、今の文科省には学校教育の骨組みを大幅に変える余力がないので、教育については門外漢のデジタル庁がどんなに外からはたらきかけても、大きな影響を与えるのは難しいと思います。
ーー成果を残すにはどうしたらいいのでしょうか。
デジタル庁は、誰の目にも明らかな合理的・機能的な部分については、いくらでも進言できますし、保護者サイドからの後押しを得る事も容易です。
たとえば、「連絡・通知・文書のやりとりを全部オンライン化すれば、圧倒的に利便性が向上する」とか「紙教科書・副読本資料をデジタル化すれば、通学時の荷物を大幅に軽く出来る」とか「教員用端末1人1台整備とフルクラウド環境を整備すれば、執務環境が大幅に改善する」といったことを積極的に提言すべきでしょう。
こういう事を「立っている人の膝を崩す」と私は表現しています。立っている人の膝の裏をポンと叩くような、急所をうまく探すのがコツです。
重要なのは、先ほどお話したような、子どもたちも教職員も保護者も、いつでもどこでもデジタルで学びが継続出来る「学びのデジタルモビリティ」の実現です。こうした分かりやすいビジョニングとともに具体的方策を示せるか否かで、デジタル庁の真価が問われるのではないでしょうか。