松山英樹、人目をはばからずに流した涙の「理由」とは

2018年1月11日 11:00 LINE NEWS編集部

苦笑いをしてみせようとして、うまくいかなかった。こらえながら、何とか絞り出す。

「悔しいです」

自らの言葉でせきを切ったように、涙が頬を伝った。
インタビュアーに肩をたたかれ、労をねぎらわれると、ついに嗚咽(おえつ)が止まらなくなる。しゃがみこみ、顔をタオルで覆う。
肩幅の広い背中が、いつまでも小刻みに震えていた。

出典: YouTube

プロゴルファー松山英樹は16-17年シーズン、世界最高峰の米ツアーで3勝を挙げた。世界ランクは一時、日本勢史上最高の2位まで上がった。そして海外メジャー最終戦、全米プロでは最終日の後半10番まで首位を走った。

誰もが日本勢初のメジャー制覇を予感した。しかし、そこから逆転を許し、終わってみれば5位。夢はついえた。

それにしても、人目もはばからず涙を流す姿は、松山には似つかわしくなかった。良くても、悪くても、いつも淡々とプレーを振り返る男に、いったい何が起きたのか。

自分がこうだと思う1打が打てなかった──

 
──昨季は優勝3回、世界ランクは一時2位まで上がった

そうですね。でも、まあ、今までどおりのシーズンだったんじゃないかなと思います。いい時期もあったけど、悪い時期も長かった。出場した試合、全部トップ10なら、勝たなくてもいいシーズンとなるかもしれない。だから、勝った数だけで一概には言えないですよね。

──全米プロではメジャー制覇にも迫ったが

勝てませんでしたからね。勝てる流れを引き寄せるのも自分だと思う。流れを持ってくる1打、自分がこうだと思う1打が打てなかった。(優勝した)ジャスティン・トーマスにはそれがあった。

全米プロ、最終日10番パー5。首位だった松山と同組のトーマスは、第1打を左に大きく曲げた。OBなら、優勝争いから脱落。しかしボールは木に当たり、フェアウエー中央に戻ってきた。
そして、トーマスの第4打パット。カップ左ふちに止まり、バーディーならずと思われたが、12秒後にポトリとカップ内に落ちた。

次の11番パー4から、松山は3連続ボギー。トーマスに逆転を許した。

出典: YouTube

──流れを左右した一打、挙げるとすれば

11番のセカンド。間違いないです。
 

重圧の中で打つための、何かが足りなかった──

 
第1打までは、不安のかけらも感じさせなかった。ドライバーはフェアウエー中央、312ヤードを稼いだ。残り151ヤード、絶好の位置からの第2打。しかし、9番アイアンのショットは、グリーンの右に大きく外れた。

──そのショットを振り返ると

普通に打てば、チャンスにつけられるはずだった。それをなぜか難しく考え過ぎちゃって、考えが決まらないうちに打ってしまった。それが悔しかった。そうですね、それが一番。

──具体的に、何が迷いにつながったのか

きっと自信がなかったんです。なんてことない距離、なんてことないシチュエーションだと思って打てる自信。プレッシャーの中で打つための、何かが足りなかった。振り返ってみると、それが「自信」だと思う。

出典: YouTube

──あの試合だけの問題ではない、ということか

今年勝てているから、とかいう次元の問題でもないと思うんです。大事なものは、ゴルフをやっていく中で、積み重なっていく。あのシチュエーションで打てなかったのが、今の実力なんです。普通に考えれば、なんてことないショット。でも、なんてことなく打てなかった。それが本当に悔しかったんです。

今日の負けは、勝負のあやではない。このままでは勝てない。自らそう悟った。ふがいなかった。だからこそ、松山は涙に暮れたのだ。

トランプ大統領、安倍首相とのゴルフ──

 
メジャー制覇こそならなかった。しかし、プロアスリート日本勢の中で、最も世界の頂点が近い存在であることに、変わりはない。
知名度はゴルフ界にとどまらない。11月。米国のトランプ大統領の求めで、埼玉・霞ヶ関CCでラウンドをともにした。安倍首相と3人のゴルフは、世界中で広く報じられた。

──大統領とのゴルフについて

あそこに呼ばれて断れる人はいないと思う。自分に限らず、今後そんな機会があるかどうか。そして今の段階では、自分にしかオファーはなかった。それはすごく光栄。次がいつかはわからないけど、ああいう場に呼ばれる自分であり続けたい。

──なかなかない経験から得たものは

2人とも発言力がすごい。もちろん、内容は言えませんけど、お互いが思っていることをちゃんと伝えていると感じた。コミュニケーション面もそうですけど、自信をもって、うまく言葉にまとめられれば、日本のゴルフをいろんな人に伝えられるのかな、と思いました。

日本のゴルフの魅力を広く伝える。
世界の頂点を目指して戦いながらも、松山は常に意識してきた。だからこそ、大統領と首相から学んだことも、自然とそこにつなげる。

ネットやSNSの力を使えば、ファンは増やせる──

 
──日本のゴルフをこう伝えていけば、というアイデアは

米ツアーのプロモーションの仕方を見ていると、日本もネットやSNSをうまく使って、盛り上げていけたらいいのかなと。もちろん、日本ならではの難しさ、というのはありますけど。

──日本ならではの難しさ、とは

アスリートが普段の姿を出すと、批判をされがちですよね。米国でもSNSの記事に批判が集まることもある。でも、大半は「いいんじゃない」という意見。そこは日本とは違うかも。とはいえ、やっぱりネットやSNSの力を使えば、ファンは増やせる。日本に合った発信の仕方を見つけられたらいいな、と思います。

──自分に対するネット上の批判も見るのか

はい、見ますよ。ああ、そう思っているんだ、とか。そうじゃないのになあ、とか。面白い意見もたくさんありますよね。

──ネットがプレーにプラスになる部分はあるのか

ネットの速報ニュースを読むことで、ほぼリアルタイムで他の選手の意見を聞けるじゃないですか。それはすごくいい。同じ大会に出場する選手のコメントを読んで「あのホールはやっぱり難しいんだ」とか、考えを整理できるのはメリットです。そうじゃなくても、僕は本当にずっとネットのニュースを読んでますよ。それしか見てない、というくらいですね(笑い)

 
米ツアーでの戦いは、今年で6年目になる。

当初は海外メジャーの優勝争いの中で、スロープレーで罰打を取られたこともあった。2013年の全英オープン。微妙な判定と物議を醸した。「松山が米国人だったら取られないペナルティーでは」という声まで聞かれた。今後は周囲の選手やツアー関係者ともうまくやるべき、という意見も上がった。

だが、21歳の松山は首を振った。「強くなれば、ああいうの取られなくなりますから。タイガーだってそうでしょう。まずは強くなることだけを考えます」。そして本当に、その領域に達した。

──世界と戦う上で心掛けていることを、世界に活躍の場を求める同世代にシェアしてほしい

(しばし考え込んだ後に)自分が思っていることを曲げちゃいけない。でもそれにこだわりすぎて、変化できないのもよくない。変化する勇気も大事。変わらない勇気も大事。そのバランスだと思います。

──最後に、新年の抱負を

メジャーで勝ちたい。ただ、その気持ちだけではどうにもならない。実力を上げる。全米プロのように、なんてことないショットをミスするスイングではダメ。変えないと。今年がどうなるかは、そこ次第です。

若くして「変わらない勇気」はあった。そして25歳の松山は、そこに「変化する勇気」を加えて、世界の頂点に手をかける。
今度こそ、自信のショットを打ってみせる。

松山英樹選手

1992年生まれ。2011年、19歳でマスターズに出場。27位で日本勢史上初の最優秀アマチュアに。13年にプロ転向。国内ツアーで4勝し賞金王に。同年秋から米ツアーに進出。14年、メモリアル・トーナメントで米ツアー初優勝。国内通算8勝、米通算5勝。181センチ、90キロ。

(取材・文 塩畑大輔 写真・松本洸)

詳細はスマートフォンから

「あのケガあっての自分」小野伸二、波乱のサッカー人生を語る

2017年12月29日 11:00 LINE NEWS編集部

国内外のサッカー選手が、「真の天才」と口をそろえる。札幌MF小野伸二。欧州で活躍する日本人選手が増えた今も、中村俊輔らが「史上最もうまいのは彼」と言ってはばからない。

そんな小野が過去の度重なるケガや、オランダなど海外挑戦の日々、2度のW杯などを語ってくれた。

正直、試合に出たいというのはある ─

 
── 札幌が1部残留を果たした。出場機会は少なくとも、同僚や他クラブの旧知の選手は「やっぱり伸二さんのいるチームはうまくいく」と口をそろえる

正直、試合に出たいというのはある。でも経験上「出てないからいいや」という選手がひとりでもいたら、チームはうまくいかない。そこには気をつかう。出た選手もそうじゃない選手も、勝ったときに同じような気持ちで喜べる。そういうチームでありたい。いつも、どこでも、そう思う。

── そういう考え方は「天才肌」のイメージとギャップがある

昔から、周りが幸せそうにしているのを見ているのが幸せ。それに、僕はたくさんケガもしてきました。サッカーの神様がいろんな試練を与えてくれたんじゃないかなと思っている。その中で、たくさんの人に支えられてきたし、いろいろ経験もさせてもらった。その中で感じたことは、伝えていきたいと思っている。
 

出典: YouTube

ケガで"イメージ"を失った─

 
「手術はライフワーク」。そう笑うほど、ケガを繰り返してきた。特に「日本サッカー界最大の損失」とファンが悔やむのは、99年のシドニー五輪予選、フィリピン戦で負った大ケガだ。悪質な"かにバサミタックル"で、左ひざのじん帯がちぎれた。

── フィリピン戦で負ったケガについて

それまで、大きなケガをしたことがなかったんです。だから正直、事態の重大さが分からなかった。まあ、大丈夫だろうと。そうしたら、次の日手術だった。つらかったです。人生の中で、ボールを蹴れなくなることは一度もなかったので。でも、失ったものの本当の大きさに気付いたのは、ピッチに戻った後でした。

── 「失ったもの」とは

イメージ、です。いろいろな意味で。それまではプレーしながら、ピッチの全体像が常に頭の中にあった。誰がどこを走るだろうとかいう予測も含めて、すべてが的確だった。それがなくなった。なんなんですかね。自由に身体が動く中で、自然と身についた感覚だからかな。

── "失ったまま"プレーを続ける心境

ケガをする前の境地を求めすぎて、つらくなっていました。それまでは練習をしている時から、試合で複数のDFが寄せてくるイメージを持ちながらできていた。それがなくなったから、毎日淡々とメニューをこなすようになった。

出典: YouTube

「ああ、今日も練習のための練習になってしまった」。そうやって、毎日後悔していました。そして、自分を追い詰めては、またケガをする。その繰り返しでした。
 

それでも、小野は並外れた技術の高さで、世界からの評価を高めていった。01年、オランダのフェイエノールトに請われ、欧州移籍を果たした。

── 初の海外でのプレーは

当時のオランダリーグは、ドイツなんかよりもレベルが高かった。ドルトムントからもオファーがあったけど、こっちの方が格上だなと普通に思った。そういうところでやっていたので、とにかく試合に出るために必死だった。

そうやって、移籍して4、5試合目から先発に定着して、1年目からUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)でも優勝できた。気が付いたら、失った感覚について思うこともなくなった。またサッカーの面白さに気付くことができた。

── ファン・ペルシーなどは、いまだに「最高のパサーは当時の小野」と言う

純粋にうれしいですよね。技術のことを言われるのもそうですけど、生まれた場所が違っても、ファミリーのように心を通い合わせることができたというのがうれしいんです。

自分が入って流れが変わったのはショックだった─

 
日本代表でも、02年のW杯で決勝トーナメント進出に導いた。しかし06年ドイツW杯で、小野は苦杯をなめた。初戦のオーストラリア戦で1点リードの後半に途中出場したが、意図がはっきりしない投入で、周囲が混乱。逆転負けを喫した。大会後には「戦犯」とレッテルを貼るメディアまであった。

── 06年は損な役回りだった

自分が入って流れが変わって負けてしまった。ショックでした。思えば02年はゴンさん(中山雅史)、秋田さん、森岡さんたち先輩選手がチームを常に明るくしてくれていた。06年は戦力的にはさらによかったかもしれないけど、何かが違った。
 

 
── 「違ったもの」とは

何が違うというのは、難しいんですけど……。例えばヒデさん(中田英寿)の引退を、僕らも後で知りましたけど、前もって分かっていたら皆がひとつになれていたかも。チームというのは本当に難しい。あらためて思いました。

06年には浦和に復帰。同年のリーグ、天皇杯優勝、翌年のアジアチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。ドイツのボーフムでも活躍し、清水もリーグで優勝争い、天皇杯でも決勝に導いた。
オーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズをも、リーグ参入初年度で優勝させた。旧知の選手たちの言葉通り、どこに行ってもチームを強くする。しかし小野は、あえて移籍を繰り返した。

── なぜ同じクラブに安住しなかったのか

なんなんですかね。一度海外に行った選手は、その刺激が忘れられないのかもしれません。もともと、同じ街に住んでいる間にも、つい引っ越しを繰り返してしまうタイプだったりもしますしね。サッカーはなおさら。新鮮な気持ちでやれる環境を求めてしまう。

── それでも札幌では長くプレーを続ける。来季で5年目。続けての在籍期間としては最長だったフェイエノールト当時に並ぶ

それは社長、GMがこのクラブをこうしていきたいというビジョンが、自分に刺激になっているからかもしれないですね。「自分がサッカー界のために、こういうことをしたい」ということに一致するんです。北海道から、日本のサッカーを盛り上げるクラブをつくりたい。そのためには、1部にいるのを当たり前にしないと。

今年は残留できましたけど、これで満足してはいけない。落ちて、上がって、残留を目指すというスパイラルから抜けないと。サッカーも、クラブも、もうひとつ上のレベルにいかないといけない。

出典: YouTube

── 札幌では娘さんも活躍されている
(次女・里桜さんは劇団四季「ライオンキング」の札幌公演にヤングナラ役で出演)

最初は東京でミュージカルに参加させてもらっていて、それを見て僕も「これは一番あってるんじゃないか」と思いました。そういう大事なものを、自分で見つけ出したことが、親としてすごくうれしかった。

札幌の劇団四季のオーディションに受かったので、単身赴任だった僕と一緒に住むことになりました。こっちでは僕が食事をつくっています。レシピ動画なんかを見ながら。便利ですよね、あれ(笑)。

── ケガ続きの運命を呪いたくなることは

そりゃ、フィリピン戦の自分に助言できるなら「お前、集中しろよ」と言いたいですよ。気を抜くなと(笑)。でも結局、ここまでサッカーできている。そこですね。いろんな人が支えてくれている。変わらずサッカー好きだし。

まだまだ僕の中には、もっともっとやりたいという気持ちがある。そういう意味で、あのケガがなければ、今の自分もない。チャレンジできるなら海外でも。この年齢で海外はなかなかないけど、松井大輔も行きましたよね。チャンスがあれば。

── プレーの中で一番大事にしていることは

相手が受けやすいパスを出すこと。そこに尽きます。パスを受ける人が、そこからスムーズに次のプレーに入れるように、無駄な動きはさせたくない。気持ちよくプレーしてほしい。それをいつも考えています。周りがいて、自分がいる。それが自分の考え方です。

相手の足元に吸い付くような、滑らかなスルーパスは「ベルベットパス」と評されていた。それは技術の高さだけが生んだものではなかった。いつも、みんなのために―。そんな天才らしからぬ考え方が、周囲を輝かせる。

だから小野と関わった選手、スタッフは、皆こう言う。「伸二は太陽のような選手」と。

小野伸二選手

1979年生まれ、38歳。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属。 浦和レッドダイヤモンズから、フェイエノールト・ロッテルダム、VfLボーフム、清水エスパルス、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズを経てコンサドーレへ。W杯には3大会連続出場。


(写真・松本洸、取材・塩畑大輔、構成・LINE NEWS編集部)

詳細はスマートフォンから

「今でもソチの夢を見ます」高梨沙羅が歩む"変革"への道のり

2017年11月30日 10:00 LINE NEWS編集部

声にならない叫びを上げ、彼女は跳ね起きる。

また、いつもの夢だった。

カンテを蹴って、宙に飛び出す。向かい風が浮力となり、重力から解き放たれる。

ジャンパーにとって、何度味わっても変わらない、至福の瞬間。しかし、なぜか今回は違う。思うように身体が浮かない。

焦りが鎌首をもたげる。
だが、そこは冬空の女王たる彼女だ。すぐに冷静になる。身体のバランスを微調整し、浮力をよみがえらせようと試みる。

浮かない。
なぜだ。今度こそ、本当に冷静さを失う。雪面が眼前に迫ってくる。いやだ。まだ、飛んでいたい。落ちたくない。

身体が風を切る音で、本来は聞こえないはずの観客のため息。それがはっきりと聞こえる気がした。

「ランディングバーンに吸い込まれるんです。テイクオフしたら、着地の寸前までずっと浮力を受けて飛び続けられるはずなのに。もがいても、身体がまったく動かない」

暗闇の中、見開かれた瞳に、涙がにじむ。
時間を確認する。眠りに落ちてから、さして時は過ぎていない。

「本当に、まともに眠れませんでした。いつも、その瞬間を夢に見て、眠れなくなった」

小さな身体をさいなむ、残酷すぎる記憶。
2014年、冬季五輪ソチ大会。スキージャンプの高梨沙羅は、失速し、地へと落ちた。

"普段の延長"で五輪に行きたいと考えていた──

 
「それまでは、五輪も普段の試合と一緒だと思っていました」

聞き手をまっすぐ見つめて、高梨は振り返りだした。

「試合としてやりきるのは一緒。いつもと同じ、目の前の一戦だと思って、普段の延長という感じで五輪に行きたいと考えていた」

そうすれば勝てると思った。それは世間も一緒だった。

14歳。大倉山で141メートルを飛んだ。
15歳。日本人女子選手初のW杯勝利。
16歳。男女通じ史上最年少のW杯年間王者。
17歳。五輪までのW杯13戦で10勝。

天才少女は、"大本命"としてソチに入った。
欧州のブックメーカーはこぞって、高梨に1.5倍を切るような低オッズをつける。日本勢の中では、すべての競技の中で最も金メダルに近い選手。衆目は一致していた。

しかし、ソチの気まぐれな風が、彼女に味方しなかった。あらゆる競技でアスリートにプラスに働く「追い風」は、スキージャンプにおいては大敵になる。落下する選手を、着地面側から押し上げるように作用する「向かい風」を受けてこそ、距離は伸びる。

ソチ五輪、ノーマルヒル女子。
高梨は2本とも、強い追い風という不利を受けた。まさかの4位。周囲のメダル候補が向かい風で距離を伸ばす中、不運としかいいようがなかった。

試合後のインタビュー。高梨はにわかに現実を悟れないのか、取り乱した様子を見せることすらできなかった。ぼうぜんとしたまま、期待に応えられなかったことを、ただただわびる。幼さが残る頬に、静かに涙が伝った。
 

「日本に帰ってきてよいのか、とすら思いました」

ただ時がたつだけでは、心の傷は癒えなかった。

「それくらい、ダメージはありました。女子ジャンプは、ソチで初めて正式種目になりました。先輩たちが道を切り開いてくださった。そこに私が出させていただいたにもかかわらず、結果が出せなかった」

ソチの"ヒロイン"として、日本国内から寄せられる大きな期待も、ひしひしと感じていた。

「それは本当にありがたかったです。後々、記事とか番組とかを見返して、日本の夜中にもかかわらず、本当に多くの皆さんがテレビで応援してくださっていたんだなと思いました」

ファンの「声」に救われた──

 
帰国後。日本にはいまだ、国民の期待と失望が、余韻のように残っていた。
高梨はひたすら自分を責め続けた。少しまどろんだとしても、すぐに"あの夢"が追ってきて、少女を現実の世界に引き戻した。

そんな中、彼女を救ったのは、ファンの「声」だった。

「日本に帰ってきてから、本当にたくさんの方が手紙をくださりました。毎日、箱に山積みになるほど、いっぱい届いたんです。皆さん『よくがんばったね』『ありがとう』と。普段から全部読むのですが、あの時はいただいた一言、一言に、本当に救われました。何度も読み返して、もう一回がんばらなきゃいけないなと」

リップサービスではない。日本代表の山田いずみコーチも「ファンの皆さんからの手紙がなければ、彼女は立ち直れなかった」と証言する。

周囲は「ソチで高梨は不運だった」と言う。
だが、本人はそうは考えなかった。

「一発勝負で勝てるところに、自分を持っていけなかった。五輪の重圧の大きさは普通の試合とは別物でした。普段の試合と同じように臨む。そういう考え方がそもそも違ったなと」

それまでは、自分をベストの状態に持っていくことだけを考えていた。実力は飛び抜けている。大半の試合は、それで圧勝できた。
しかし「大半の試合に勝つ」だけでは、金メダルは取れない。特に女子は、正式競技はノーマルヒルのみ。五輪は文字通り一発勝負だ。

「自分のジャンプの部分、感覚のことばかり考えていました。でも、それだけでは一発勝負で勝つことはできない。もっと視野を広げないといけないと感じました」

たとえ不利な状況があっても、勝つ。そのためには「対応力」を高めることが必要。そういう結論に達した。

「置かれた状況でいかにベストを尽くせるか。置かれた状況をいかに自分のものにするか。どこの会場でも"ホーム"だと思えるような心の余裕を持ちたい。そう思いました」

五輪前までは、ただひたすらウオームアップに集中していた。そんな高梨が、試合前には会場のさまざまな場所をチェックするようになった。「観察」の始まりだった。

「まず、ジャンプ台をよく見るようにしました。実際に飛んでみるだけじゃなく、歩いて観察する。カンテにかけてのアプローチの曲線を、横から見てみる。他の選手が飛んでいるところも見る。カンテの状況は刻一刻と変わるので、それをしばらく見てみる。風の変わり方も、場所を変えながら感じてみます」

だいぶ時間をかけてから、ジャンプに入る。

「自分が飛ぶ時にはどうなるのかな。それにどう対応したらいいのかな。そうやって試合を想像して、イメージを鮮明にしてから、実際にジャンプをするようにしました」

日々の練習後。大会でのジャンプを振り返って。高梨は日誌をつけるようにしている。

「書き込む内容は長いときもあるし、端的なときもあります。えーっ、具体的にですか?擬音ばっかりで、きっと自分にしか分からないですよ」

観察してつくったイメージと、実際に飛んで得た感触。それらを文字とラフなスケッチで紙の上で再現する。

「カンテの手前の傾斜の変化をどう感じたのか。その後、どんな感じで足を使って、インパクトをカンテに与えたか。ジャンプ台によって、カンテへの適切な力の伝え方は違います。『ギュン』のときもあるし、『ギュウウウン』のときもある」

他人には分からない擬音やラフスケッチも、ジャンプ当時を思い出す"きっかけ"としては十分だ。

「その時の感覚をよみがえらせたいとか、そのジャンプ台がどうだったかを確認したいとか、日付を確認してその日の日誌を読み返します。失敗したときも、同じ失敗をした日の日誌を見返す。当時はどう反省していたのかも踏まえて、失敗ジャンプを振り返るんです」

ジャンプ台の特徴や、刻々と変わる風に、いかに対処しようと試みたのか。それを克明に記し、後に省みることは、「対応力」を高めるイメージトレーニングでもある。
 

8割の出来でも勝てないといけない──

 
ふと思い立ち、足の裏のマッサージを始めるようにもなった。

「足の裏の感覚を研ぎ澄まさなければならない。そう思ったんです」

大きなブーツを履いても、雪面の感触は足の裏に伝わってくる。

「刺激を強くしたり、弱くしたりして、ベストな硬さにします。試合の時、1本目と2本目の間にもやります。鈍感になってしまうくらいダメージを与えてはいけないので、ほどよく」

足裏の感覚を鋭敏にすれば、スタートゲートからカンテまでの状況を読み取ることができる。

「ソチのときも、自分の足の裏の感覚がしっかりしていて、瞬時に判断できていれば、ジャンプが狂いだすこともなかったと思います」

宙に飛び出す直前まで、考えを巡らせ続ける。状況の変化を瞬時に判断し、対応する。

「できることは、何でもしたいと思うんです。一発勝負で勝つためには、8割の出来でも勝てないといけない。置かれた状況の中でベストを尽せるように、この4年間突き詰めてやってきたつもりです」

そう言って、小さくうなずく。
「自分のジャンプができれば勝てる」から、「どんな状況であれ、勝つ」へ。高梨は、変わらなければならないと思っていた。
 

五輪の会場で得た「自信」──

 
すべては平昌五輪で、ソチの悔しさを晴らすため。その平昌で、対応力を試す機会がやってきた。

今年2月。平昌でのW杯2連戦。
高梨はくしくも、男女通してのW杯歴代最多勝53勝に王手をかけ、1年後の五輪の舞台に乗り込んだ。

初日。1本目でトップに立ったが、2本目で強い追い風を受けて失速。
伊藤有希に逆転を許し、2位に終わった。

状況的な不利もあったが、助走スピードが遅く、踏み切りのタイミングもずれていた。
記録達成の重圧なのか―。そんな見方もあった。しかし、高梨は違うことを考えていた。

「しっかり自分を客観視して、理想のジャンプに近づけるためにはどうすればいいか。そこだけを考えていました」

もう一度「観察」をしてみることにした。
ジャンプ台の形状を思い出しながら、念入りに失敗ジャンプの動画を見返す。かつては試合に集中しようと思うあまり、周囲を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたが、この時は積極的に意見も交換した。

「コーチやスタッフとつくったLINEのグループトークに、動画を投稿するんです。そうすると、動画を見たみんなが意見を投げかけてくれる。世界中どこにいても、たとえ一人でいたとしても、作戦会議がすぐに始められるんです」

それらを踏まえ、決断した。助走路にあわせ、スキー板を変えた。
2日目。試技ではまだ、助走スピードは周囲に劣っていた。新しい板。すぐには感触はつかめない。

それでも、本番となる1本目には、スピードは上位選手と遜色ないレベルまで戻っていた。ソチ以来、培ってきた対応力が発揮されだした。

「試合日のジャンプは試技、1本目、2本目とあります。それらの間の短い時間で分析して、次につなげられるようになってきました」

1本目で2位につけると、2本目は向かい風が直前の選手たちより弱まる不利の中、97メートルまで距離を伸ばした。逆転で、W杯歴代最多タイの53勝目を挙げた。

1本目首位の選手も、2本目で横風に大きく流された。そんな難しい状況の中で、最善のジャンプをしたからこその勝利だった。

「踏み切りのタイミングの狂いも、最後はきちんと修正できました。平昌の風をしっかり感じて飛ぶことができた」

強さをみせつけて勝つ一方で、もろさもあった高梨の戦いぶりは、着実に変わりつつある。

「それが五輪の舞台になる平昌でできた。しかもあそこは風がかなり強く、ころころ変わる難しい会場です。自分にとっては自信になる1勝でした」

よく言われます、顔が怖いと(笑い)──

 
11月5日、NHK杯ジャンプ大会。
札幌・大倉山ジャンプ競技場のプレスルームへ急ぐ記者のうち、何人かが階段の手前でけげんな顔をして、一瞬立ち止まった。

小柄な女子選手が、階段の踊り場の隅にマットを敷き、ストレッチをしている。
よく見ると、高梨だった。

試合に向けて、集中力を高めている。何かをにらみつけるような形相。普段見せる柔和な表情と、あまりに違うため、記者であっても即座に本人とは分からなかったのだ。
テレビの中継映像では、見ることのできない表情。試合のスタート位置で、ゴーグルの奥に隠されているのは、鬼の形相なのだろう。

「よく言われます、顔が怖いと(笑い)。普段の顔とは違いますよね。試合が迫ってくると、周りが見えなくなって、自分の世界に入り込んでしまう癖があります。競技中は周りの方に気をつかわせてしまって、申し訳ないです」

それでも、今までの高梨とは違っていた。記者を見かけるたび「お疲れさまです。今日もよろしくお願いいたします」と言っていた。

「試合のことを考えつつも、周りのみなさんを気づかえるくらいでないと、気持ちの余裕は生まれないと思うんです」

瞬時には表情を変えられない。にらみつけるような視線が残ったまま、それでも丁寧にあいさつする。そのギャップが何ともほほ笑ましかったが、本人は真剣だった。

「五輪では予期できないようなアクシデントがあったりもします。そういうことにも対応できる心の余裕をつくっていきたいんです」

五輪に次ぐ大舞台、今年2月の世界選手権では銅メダルに終わった。
一発勝負に勝てる自分になる。変革の道のりはまだ半ばだ。

「今でもソチの夢を見ます。でも今は、それを悪いこととしては捉えてはいません。自分にくぎをさすための大事な記憶です。失敗から学ぶことは多い。失敗はしたくないけど、してしまったらもう仕方がない。そこから学んで、次にどうつなげるか、だと思うんです」

一身に背負った国民の期待に、応えられなかった。
ソチでの失速は、17歳の少女にとって、あまりにも過酷な運命だった。

それでも、高梨は折れなかった。淡々と宿命と向き合う。自分を変える。高め続ける。
つらい記憶すら糧にして、今度こそ金メダルを手にする。

(取材、文・塩畑大輔 撮影・松本洸)

インタビューの様子はこちらから

出典: YouTube

詳細はスマートフォンから

菊池雄星、"2段モーション問題"乗り越えたどり着いた境地

2017年11月9日 10:01 LINE NEWS 編集部

10月14日、クライマックスシリーズのファーストステージ、楽天戦。埼玉西武ライオンズのエース菊池雄星は、最後の打者・島内をサードライナーに打ち取ると、握りしめたグラブを天に突き上げた。

121球での完封勝利。味方が10点を援護しても、最後まで腕の振りは緩まなかった。

最多勝、最優秀防御率の投手2冠にふさわしい、圧巻と言っていい投球。歓呼の声に、晴れやかな笑顔で応える。しかし、ベンチ裏まで引き揚げてくると、菊池はポツリとこぼした。

「悪くはなかった。でも、納得できるボールはありませんでした。1球もなかった」
  

 

試合初球でのボーク判定──

 
大事なフォームを、シーズン半ばで見失っていた。

8月24日、ソフトバンク戦。1回裏、先頭打者川島への初球。投げた瞬間、球審が腰を浮かせた。そしてマウンド上の菊池を指さす。判定はボーク。

会場はどよめいた。しかし、菊池本人に驚きはなかった。

1週間前。17日の楽天戦で、菊池は2回に2球連続でボークを取られていた。「投球動作が途中でいったん止まっている」との指摘だった。つまり、日本のプロ野球では2006年から禁じられている「2段モーション」にあたるということだ。
 

 
審判の立場を尊重し、判定は受け入れた。しかし、これは1プレーで完結する類いの問題ではない。

具体的にどの部分が「2段モーション」にあたるのか。菊池は辻監督とともに、すぐに審判団に確認した。しかし、その場でははっきりした答えは得られなかった。

ふに落ちなかった。しかし、時は待ってくれない。次の登板機会に備え、菊池は土肥投手コーチとともに、フォームの矯正に取り組んだ。

「問題点がはっきりしないので、おそらくこういうことだろうという感じで、さぐりさぐりでフォームを直すしかなかった。はっきり言って、ぐっちゃぐちゃでした」

その結果が、1週間後のソフトバンク戦、試合初球でのボーク判定だった。

菊池はやむなく「クイックモーション」に切り替え、投球を続けた。しかし、球威は落ちる。何より、動揺していた。
川島をストレートの四球で出塁させると、そのまま初回3失点。2回にも4点を奪われ、計7失点で降板した。
 

 
打たれたこともショックだった。だがそれ以上に、大事なフォームを取り上げられたことで、途方に暮れていた。

「土肥さんと2人で3年間、一緒につくりあげてきて、ようやく固まったフォームでした。投球動作中に上体が前に突っ込むクセがあるので、足を上下動させることで、左の股関節に体重をしっかりと乗せられるようにしました。それで、球威も制球も格段に良くなった」

左の股関節に乗る意識を、春先よりも強めているのは確かだった。しかし基本的には、春のキャンプ当時と同じ方向性のフォームで投げているつもりでいた。キャンプ地を訪れた審判団に見てもらい、お墨付きを得たフォームだ。

それが、ここに来て「ボーク」と判定された。思わず、周囲にこぼした。

「いったい、どうしたらいいんでしょう…」
 

「帰っても毎日黙り込んだ」──

 
09年のドラフト会議では、6球団が1位指名で競合。鳴り物入りで西武に入団した。しかし、プロ入り以来制球が定まらず、球威も上がらなかった。

そんな菊池が、理想のフォームを得て変わった。今季は開幕から1点台の防御率を守り続け、8月3日楽天戦では、日本人左腕最速記録となる毎時158キロもマーク。140キロ台中盤に達する高速スライダーもあいまって、他球団の打者を圧倒し続けた。

「よし、ここからというところでした。足の上下動が問題だと指摘されたので、左の股関節に乗る『間』がとれなくなった」

シーズンも終盤戦。4年ぶりのクライマックスシリーズ進出へ向け、エースには大きな期待が寄せられていた。そんな大事な局面で、あろうことか「投げ方」が分からなくなった。

「あの時期は、うちに帰っても、毎日黙り込んじゃっていました。妻には本当に気を遣わせたと思います。ただ、『どうしたらいいかな』って言える相手がいるだけで、本当に救われました。妻がいたから、辛うじて気持ちが折れずにいられた」
 

 

絶対に2軍に落ちないと決めた──

 
野球評論家からは「他にも同様のフォームの投手がいる」「基準が不明確」と問題提起する声が上がった。2段モーションを禁じるルール自体を「国際基準とは違う」と疑問視する意見もあった。

一方で、いくつかのメディアには、審判団の"証言"とされるコメントが掲載されていた。

「菊池には5月から、何度も2段モーションだと指摘していた」

これは事実とは違うという。後日、球団や菊池からの指摘で、審判団もきちんと認めている。

しかし、世間の人々はそうとは知らずにニュースを読む。「度重なる注意に聞く耳を持たず、ついにはボークを取られた」。そんな見方が世に広がり、一部では"事実"として受け入れられてしまう。

重い足取りで向かった球場。土肥コーチがある提案をしてきた。

「一度、2軍に落ちて、調整してもいいぞ」

信頼する恩師の言葉に、菊池は少しだけ、気持ちが揺らいだ。

「固まっていないフォームで投げ続けて、ケガをするのだけはもったいない、ということでした。確かに、理想とは違うフォームで投げるこのボールでは、勝てないかもしれない。一瞬、そう思いました」

しかし、次の瞬間には、気持ちが固まった。

「その時に、絶対に2軍に落ちないと決めました。土肥さんの親心をありがたく思う一方で、それではきっと負けた気になるなと。次の試合までの1週間で、なんとかすると決めました」
 

 
自宅に戻った菊池は、本棚からノートを取り出した。

「悩んだ時は、いつも昔を振り返るようにしています。プロに入ってからの8年間、ケガもあったし、フォームで悩んだり、人間関係で悩んだりもしてきました。それらを忘れないように、常に日記やメモにして、後で見返すんです」

ところどころ擦り切れた冊子には、表に「2010年」と書いてある。

「その時は、プロ1年目のメモを見ました。当時は、もう野球できなくなるんじゃないのかと思っていました。注目されてプロ入りしたのに、左肩をケガしてしまった。それに加えて、指導者の方とうまくいかないということも重なりました」
 

プロ1年目の事件──

 
まだ10代の菊池は、"2軍のコーチによるパワハラ疑い"という問題に巻き込まれていた。当初、このコーチは責任を認めて謝罪し、謹慎処分も受け入れていたが、後に主張を翻した。

謹慎の後の解雇は不当だと、球団に対する訴訟を起こした。パワハラを受けた側として出廷を求められた菊池は、都心の法律事務所に通わざるを得ないことになった。
 

 
西武鉄道などに乗って、片道1時間。裁判に備え、専門家からアドバイスを受けるためだった。

「ボールを投げられない上に、グラウンドにいる時間と同じくらい、法律事務所にいる時間が長かった。いったい、何をしに岩手から出てきたのか…。そう思い悩んでいました」

裁判になったとたん「菊池は夜遊びがひどい」「もともと素行に問題があった」「コーチに何か言われると反抗していた」など、事実とは異なる報道が続くようにもなった。

「もう、誰も信じられない。あのころは、そう思うことすらありました」

8年前は、ひどいもんだったな─。ノートをめくりながら、菊池はそう思った。

「田舎から出てきたばかりということもあって、高校の監督や同級生以外には、相談できる相手もいませんでした。だから、本を読んでなんとかしようとしていました。当時のノートには、本から見つけ出した救いの言葉みたいなものも、いっぱい書かれています。でもほとんどは『つらい』とか『苦しい』とかいった言葉ばかりでした」
 

 
当時の痛々しい文章を読んでいるうちに、ふと思った。

「あんなに苦しかった当時に比べれば、2段モーションの問題なんて、あくまで野球をやれている上での悩み。そう思うことができました」

胸のつかえが下りたような気がした。心が軽くなった。

「一度、絶望を味わった野球人生。そこから思えば、やれるだけでも丸もうけ。勝っても負けても、マウンドに立ってボールを投げられるだけで、すごくありがたいことなんですよね」
 

2段モーション問題があったからこそ──

 
8月31日楽天戦。菊池は楽天の先頭打者オコエに、この試合の初球をバックスクリーンに放り込まれた。やはり、今季はもうダメか─。そんな空気も漂ったが、この日の菊池は違った。

「いろいろ試して、結局去年までのフォームに戻しました。納得いく球は1球もなかった。でも、割り切って腕を振りました。とにかく、投げられるだけで丸もうけ、なんですから」
 

 
9回を被安打5、失点2で乗り切り、完投勝利。9月には3試合に先発し、計23イニングを自責点0で乗り切ってみせた。

「『2段にしていたから勝っていた』とか絶対言わせたくなかった。調子はよくない。でも、負けたくない。そこは意地です」

「丸もうけ」と気持ちに整理をつけてからの防御率は、脅威の「0.23」。クライマックスシリーズ進出の原動力となった。

「宝物のようなフォームを失うのはつらかった。でも、2段モーション問題があったからこそ、野球をできるありがたみを再確認できました。野球ができているんだから、その上での悩みや勝ち負けは、どうしようもないこと。とにかく『味わう』だけだなと」

初の大舞台を前に、菊池はそんな境地に達していた。
 

 
10月14日、楽天戦。
菊池はクライマックスシリーズ初登板を、見事な完封で飾った。

最優秀投手賞にあたる「沢村賞」こそ、巨人の菅野に譲った。それでも、ダルビッシュがTwitterで「2人とも沢村賞でよかった」との旨をつづるなど、シーズン通しての活躍は各方面から高く評価された。しかし菊池は、今季を振り返るより先に、こんなことを言った。

「あの子たち、今のオレをみて、どう思っているのかなぁ」

昨オフ、東北各地で主催した野球教室で、菊池は子どもたちに「まっすぐ立ってから投げるんだよ」という話をしていた。
軸足の股関節にしっかり乗ってから投げなさい、という指導だった。

「そういうフォームも、ルールに沿ったものだと理解していましたから。でもシーズンに入ったら、その理解ではボークを取られた。だから、あの子たちが今回の問題を知ってどうしているのか、すごく心配なんですよね」

個人的には、"問題"を肥やしにできた。しかし、自分だけが消化できればいいとは、なかなか思えない。戸惑っているのは、あの日の子どもたちだけではないだろう。
 

そんな記述はルールに一切ない──

 
「僕ら投手は、11月くらいから来年のフォームをつくっていく。だからいち早く、はっきりした指針を示してほしい。もちろん、ルールには従います。でもそれなら、上下動の許される範囲とかも、明確にしておいてほしいんです」

多くの評論家も指摘するように、菊池と同じように上げた足のひざを上下動させる投手は、他にもいる。なのになぜ、菊池だけがボークを取られるのか。
 

 
「審判のみなさんの答えは『同じ場所で上下動させるのはダメ』ということでした。他の投手はひざの位置が、わずかであっても横方向に動きながら上下動するからいいんだと」

動きが2段になること自体が問題ではないのだという。"2段モーション"という言葉からは、なかなか想起しにくい論点ではある。

「それがルールなら、それに沿って投球をします。ただ、明文化はした方がいいとは思う。同じ場所で上下動させるのはダメとか、そうじゃない上下動ならいいとか、そんな記述は現段階ではルールに一切ないんです」

ルールに「解釈」の余地を残していては、いずれ同じような問題は起きる。それで不利益を被るのは、選手だけではない。

最高のプレーを待ち望むファン。選手を見習って練習する子どもたち。野球を愛する多くの人々に納得してもらうためには、ルールを明文化した上で、それをきちんと世に知らしめた方がよいのは自明だ。
その意味で言えば、まだ"問題"は終わっていない。
 

恩返し、そしてアメリカ──

 
20日。シカゴ・リグレーフィールド。
ドジャースとカブスのナ・リーグ優勝決定戦の会場に、菊池はいた。

楽天とのクライマックスシリーズ、初戦を菊池で勝った西武だが、1勝2敗で敗退した。
「自分の後に投げる人も勝てる流れをつくるのがエース」。そう思って投げてきた。
だから、たとえ初戦で完封勝利を挙げても、なんの慰めにもならなかった。ただただ悔しかった。

それでも、ふさぎこんでいるわけにはいかない。一度きりの野球人生。走り続け、味わい続ける。
 
「すぐ飛べば、秋季練習が始まる前に戻って来られる」

菊池はアメリカに飛んだ。

たどり着いたシカゴでは、メジャーを代表する左腕、ドジャースのカーショウが好投していた。8月までの菊池と同じように、右ひざを上下動させるようにして左の股関節に体重を乗せ、ためたパワーで強い球を投じている。

あのマウンドに立ちたい、ではない。あのマウンドに立ったらどうするか。菊池はそんなことを考えながら、試合を見ていた。

「僕の夢は、いずれアメリカでプレーすることです。自分はまだまだ技術不足で、課題もある。でも、メジャーで活躍できる見込みがあるかどうかという話は、進路を選ぶ判断材料には入らない。行きたいのか。行きたくないのか。そこに尽きる。他にあるとすれば、球団や応援してくださるファンの方に、きちんと恩返しができているのかどうか。それだけですね」
 

 
時が許す限り、野球を楽しむ。2段モーション問題は、菊池にとっては「原点」に立ち返るきっかけにもなった。

「経験すればするほど、断言できることって、少なくなると思うんです。今回の問題だって、シーズン前には予想もしていなかったですから。何も知らない高校の時なんかは、分かった気になって『野球ってこういうものだ』って簡単に言ってました。でも、いろいろ経験していくと『野球って何なのか』というのを、簡単に説明できなくなる」
 

「楽しむしかない、ということです」──

 
言葉を選びながら、菊池は続ける。

「ただ、今でも断言できることについては、昔よりももっと自信を持って言えます。誰になにを言われようが、こうだよねと言える。それっていうのは…」

ふーっと息を吐いて、一拍置く。そして、語気を強めて言う。

「楽しむしかない、ということです」

何度か、小さくうなずく。シンプルな言葉が、重みをもって響く。

「そもそも、自分は楽しくて野球を始めたんです。だから行き着くところ、そこになる。一度きりの人生ですから、楽しむ。そして、今しかできない貴重な経験を、しっかり味わう」
 

 
10月下旬、秋季練習。
メットライフドームのバックネット裏の階段をのぼると、ロッカールームの手前で、急に外の光が差し込んでくる。
左手をかざして、菊池はまぶしそうな表情をした。

「どうして勝てるようになったのか、とかよく聞かれますけど、今年がどうこうという話じゃないです。悪い時、つらい時も含めて、プロ8年間の積み重ね。2段モーションの問題を乗り越えられたのも、それがあるからです」

こちらを振り返ると「まあ、だてに遠回りしてませんから。僕も」と、いたずらっぽく笑う。


トンネルが長ければ長いほど、その先に待つ光は強く、まばゆい。


(取材・文 塩畑大輔 写真・松本洸)


インタビューの様子はこちらから

出典: YouTube

詳細はスマートフォンから

「一番太いじん帯、そこが骨化していく」内田篤人が語った苦闘の2年

2017年10月26日 11:00 LINE NEWS編集部

9月26日午前11時、ベルリン市内。小さな森に抱かれた、ドイツ2部ウニオン・ベルリンの練習ピッチに、内田篤人が現れた。

足取りが軽くないのは、体調の問題ではない。練習器具を積んだ小さなワゴンを、若手選手と一緒に引っ張っていたからだ。

器具を所定の場所に置き、「やれやれ」といった様子で背伸びをする。身体がほぐれると、洋芝の濃い緑が美しく染めるピッチを、軽い足取りで走り出す。
 

右膝のケガから2年───

 
前夜のカイザースラウテルン戦では、出場機会がめぐってこなかった。ビッグクラブのシャルケから移籍してきた内田だが、この日はベンチ外メンバーらとともに、調整をすることになった。

それでも、屈託のない笑顔で、周囲の若手とやりとりをする。

「独特の言い回しとかあって、言ってること全部を理解できないこともあるんですけど、あまり気にしないようにしてます。もちろん、最初は気になりましたよ。『あいつこっち見て何か言ってるなぁ』とか。でもしばらくすると、たいしたことを言ってるわけじゃないって気づく。たいてい、オレに深くかかわる話をしているわけでもないんですよね」

そう言って、笑ってみせる。やがて、同僚たちと肩を並べて走り出す。ピンクのスパイクで、サクサクと芝生を踏みしめる。そのリズムに、かつての乱れはない。
 

 
リーグ戦前々節では、フル出場を果たしていた。右膝のケガから2年。内田篤人が帰ってきた。
 

交通事故でもこんな難しいことにならない───

 
「レア中のレアケース。交通事故でもこんなに難しいことにはならないくらい、特殊な症例だったんです」

内田はそう言って、右膝のケガと、2年間のリハビリ生活を振り返りだした。

「膝が固まっていく感覚がありました。膝蓋(しつがい)じん帯といって、人体で一番太いじん帯ですけど、そこが骨化していくんです」

「ストレスがかかり続けることで、こういうことが起きることがある。たいていは膝が痛くなって、動かせなくなることでストレスが減って、骨化の進行が止まります」

しかし、内田の場合、骨化の進行は続いた。なぜか。走ることをやめなかったからだ。
 

 
「14年のブラジルW杯もありました。直後には欧州チャンピオンズリーグもあった。だからムリをしました。膝が壊れているのは、自分が一番分かっていた。でも、続けていた。痛みがどんどん強くなって、自然とかばうから、右足がみるみる細くなった。曲げ伸ばしもできなくなって、最後は地面に足をついているだけだった。ほとんど動かせなかった」

14-15年シーズンの欧州チャンピオンズリーグ、決勝トーナメント1回戦。レアル・マドリードとの大一番の陰で、内田は決心した。ディ・マッテオ監督に初めて、万全のプレーが難しいと伝えた。痛いのは耐えてきた。だが、動かせないのではどうしようもなかった。
 

"戻れない"と思っちゃうことはあった───

 
15年6月、内田は膝にメスを入れた。

「半年で復帰するつもりで手術しました。ドイツのドクターだけは、ここにメスを入れて戻ってこれたやつはいねえ!と最後まで反対していました。すごいドクターなんですよ。彼の病院では、陸上のボルトと待合室であったこともあるし」
 

 
それでも、手術を受けると決断した。最速でピッチに戻るためだ。
しかし、リハビリは思うようには進まなかった。

「自分がイメージしていた、半年での復帰ペースに比べると遅いから『あと2カ月かな』と考え直すけど、そのペースにすらならない。『じゃ、あと3、4カ月かな』って思い直しても、またしばらく進まない。気づけば、とっくにできているでしょうという時期に、まったく何もできていなかった」

そもそも、膝の骨格が一般的な形と違うなど、リハビリ自体が難しいものでもあった。こちらの痛みが消えれば、あちらが痛む。
そして、痛みを抱えたままのトレーニングでは、筋力は戻りにくい。あまりに長引くリハビリに「内田はもう治らないらしい」という声まであがっていた。

「オレ自身も、戻れないと思っちゃうことはありました。だからいろいろ考えないようにしました。いつか治るんだろう、と気楽にかまえてないと、長いリハビリはできない。だんだんそれが分かってきました。だから、気は急くけど、あえて適度にさぼるように心がけました。定められた回数をわざと守らないようにしたり、とか」
 

 
さぼらなければと、自分に懸命に言い聞かせる。そんな中で救いになったのは「出会い」だった。
国立スポーツ科学センター(JISS)でのリハビリ中には、滞在が長引いた分だけ、多くのアスリートと知り合う機会があった。

「サッカー選手は恵まれていると感じました。待遇の面もそうだし、世間からの注目の部分もそう。それに比べて、普段から大変な思いをしている選手たちがケガをして、集まって一緒の部屋でリハビリをしているんですけど、みんな息の抜き方を知らない。だからキューっとなっちゃうんですよね」

このころ、サッカー協会のメディカルスタッフがJISSを訪れると「アツトさんがメシをごちそうしてくれた」とさまざまな競技のアスリートから報告されていた。内田は手を振って、照れたように振り返る。

「うまくいかなければ、また明日がんばろうと切り替えることも大事。自分でもそう感じていたので、みんなにもそういう話をしました。そのうち、仲間の中からリハビリが終わって施設を出て行く選手が出てくる。その時はサプライズで送別会をしました。泣くんですよね。そういうのはいいなぁと」
 

 
内田が言う「仲間」には、先日現役を引退したテニスの伊達公子もいた。
卓球の福原愛、石川佳純、水泳の入江陵介、バドミントンの垣岩令佳といった五輪のメダリストも揃う。
彼ら、彼女らとは今でも連絡を取り合う。

「おとといの試合の直前でしたけど、アイスホッケーの選手から連絡が来ました。実業団でプレーを続けるか、プロになるか、海外に出るかの三択で迷っていて、その相談ですね。そろそろ結婚もするんですよ、って切実にいうから、そんなの知らんよって笑ってやりましたけど。でも自分なりの考えは伝えさせてもらいました」

別れ際に涙を流す。今でも相談を持ちかけてくる。内田との出会いは、アスリートたちにとって貴重なものだった。
 

 
「でもね、オレの方こそ、ってところもありますよ。ケガのつらさ、苦しみを、みんなとシェアさせてもらったというか。みんなとのやりとりがなければ、一人きりでケガとまともに向き合いすぎて、自分が参ってしまったと思います」
 

自分の置かれた立場を客観的に───

 
このころ、内田は気晴らしのために、よくYouTubeの動画を見ていた。

「ゲームの攻略動画とか見ていました。すごいんですよ、有名なYouTuberの皆さんの動画って。それから、eSportsのアスリートの方たちのプレーもすごい。パリ五輪で正式競技になる可能性、あるんでしたっけ?」

「最初は自分でゲームをするのが好きだから見てました。でもいつの間にか、自分がやったことのないゲームの攻略動画とかも見るようになりました。動画自体が面白いんで、ね」

アスリートの中でも、特にネットの世界への感度は高いが、一方でこんなことも言う。

「ネットには本当にいろいろなジャンルの情報、コンテンツがある。見たいものが見られる。知りたいことを知れる。でも、自分の興味あるものしか見なくなるという側面もある。ちゃんと意識をしておかないと、いろいろな情報が頭に入ってこなくなる。それは怖いような気もする」

ふっと真顔になった。言葉を続ける。

「ネットの"見え方"って、自然と自分と同じ考え方にそまっていくところがあるじゃないですか。YouTubeとかも、関連動画に自分の好みのものしか並ばなくなるし。自分と反対側の意見に耳をかせなくなるのは、怖いですよね。客観的に見なくちゃいけないと思っているので。自分の置かれた立場を」
 

 

物議をかもした「代表引退説」───

 
客観的に、自分の置かれた立場を見ないといけない。3年前。物議をかもした「代表引退説」は、まさにそんな考え方から出たものだった。

14年のW杯直後、一部メディアで「内田が代表を引退する」と報道された。事実、サッカー協会にもそうした考えは伝えていた。 直後に手術を余儀なくされる膝痛の悪化もあったが、それ以上に「日本代表」という立場へのジレンマを抱えていた。

「代表としてやりきったから、というわけではなかった。むしろぜんぜんやりきれてなかったし。いろいろ考えだしたのは、負けて帰国した時でした。日本は他の国とは、サッカー選手の扱いが違うなと」

負けてなお、日本代表の選手たちの人気は高かった。ありがたいこと。そう思う一方で、フィーバーを客観的に見ている、もう1人の自分がいた。
 

 
「アイドル入っているというか、だいぶ人気が先行しているなと。それでふと、我に返ったというか。オレがドイツ人なら、ブラジル人なら、スペイン人なら、きっと代表にかすりもしないなと。海外には、もっとすごい選手がいっぱいいる。なのになんでオレたちの方が、華やかなところにいるのかなと」

そこを割り切れないまま、代表に合流するわけにはいかなかった。だから、いったん身を引こうと思った。その後、手術、リハビリを経験した。その間も、ずっと考えてきた。
時間は十分すぎるほどあった。4年に一度のチャンスに人生を懸ける、五輪競技のアスリートの姿も見てきた。整理はついた。

「ネイマールとか、ベイルとか、日本代表でW杯に出るからこそ対戦できる選手もいる。限りあるサッカー人生、出られる大会、選ばれる代表なら、そこは出るべきじゃないかと。膝的に、肉体的に、年齢的にチャンスがあるなら、トライしない理由はない」
 

オレの膝は、他の人とは違う───

 
リハビリ開始から半年以上がたっていた。
JISSを"卒業"した内田は、古巣鹿島を拠点にしたリハビリをスタートさせた。 鹿島の塙敬裕(はなわ・けいすけ)理学療法士にサポートを仰ぐためだった。

「彼と出会わなければ、リハビリはうまくいかなかったと思います。JISSにいるうちから、紹介されて話をする機会があったのですが、リハビリに対する考え方、意見が感覚的に合った」

塙氏の考えは、一般的に有効とされるリハビリ法をなぞるものではなかった。もともと違和感なく動いていた時の「位置」に、骨などの組織を戻す、というものだ。

「オレの膝って、他の人とは少しつくりが違うみたいなんです。骨の位置とか、バランスとか」

そう知っていた内田は、自分には一般的なリハビリよりも塙氏のアプローチが有効だと考えた。

「塙さんには最初から、特殊な症例、特殊なつくりの膝を治すから、はっきりいって現段階で正解はないと言われました。でも、治すならそういうスタンスしかないと思った。実際、やってみたら痛みも減るし、力も入りましたしね」
 

 

「内田にW杯は難しい」と思いますよね───

 
出口は見えてきた。
しかし、トンネルはさらに長く続いていた。

シャルケに戻ってからのリハビリでは、クラブ専属のトレーナーの方針で、患部へのアプローチが変わった。それで痛みがぶり返した時期もあった。16年12月。内田は欧州リーグのレッドブル・ザルツブルグ戦で、ついに公式戦に復帰した。しかし、その後は試合に出られず。丸2シーズン、リーグ戦の出場ゼロということになった。 雌伏の時は、2年になろうとしていた。

「みんなきっと『内田にW杯は難しい』と思いますよね。時間ないじゃんとか。膝やっちゃったからとか。今までよくやったよ、ってねぎらってくれちゃってる方もいるかも」

苦笑いしながらも、語気を強める。

「でも実際には、時間はある。経験から言えば、評価は1カ月あれば変わる。というか、1試合で変わります。流れとか、タイミング次第で十分ありうる。手のひら返しって思うこともあるけど、それが評価です。そのためには、まずは試合に出続けないと」

出場機会を求め、今季からはドイツ2部ウニオン・ベルリンに移籍。リーグ戦フル出場も果たした。
 

 
「膝の痛みはもうないです。少しの違和感で、ドーッと冷や汗が出るけど、しばらくすると、ああ大丈夫だと。たぶん、もう一回痛みが出たら、終わりだと思う。でもとにかく、今はぜんぜん大丈夫。サポーター巻いてるじゃんとか言われるけど、プレーがよくなるなら何重でも巻きますよ」

加入して間もないチームでは、まだ周囲と"あうんの呼吸"とはいかず、出場機会は限られている。それでも、内田は言う。

「マイナスな意見が多い状況から、バンバンバンと巻き返していった方が、格好良くないですか?内田はもうダメだとか、W杯までもう時間がないとかいう意見があった方がありがたいです。もしも他人だったら、なかなか厳しいと思うはず。でも当事者としては、いい『フリ』だと思っています」

そう言って、ニヤリと笑ってみせる。
 

 
「確かに2年間のブランクは長かった。でも、W杯とW杯の間に、きれいに2年間が収まった。ケガが治って、またW杯を目指せる。これってすごくラッキーなことじゃないですか?」
 

家族を持ったからには───

 
控え組との練習を終えた内田は、急いでシャワーを浴び、駐車場へと出てきた。

そこには夫人と、生後11カ月の長女が待っていた。内田は娘を抱き上げ、同僚たちがまだ着替えをしているロッカールームへと戻っていく。どうやら"お披露目"をしたいらしい。 しかし、数分と持たず、表に出てきた。娘が号泣している。

「泣き止まないわ」。半裸の屈強なドイツ男たちに囲まれ、驚いたのだろうか。必死にあやす内田の手から、夫人が娘を抱き上げる。ピタリと泣き止んだ。「やっぱりママか」。子煩悩な新米パパは、残念そうにこぼした。

「家族を持ったからには、無条件に競技を優先させていいとは思わないです。でもうちは幸い、奥さんがOKをしてくれている。好きにやっていいよ、と」

「海外に来たら、生活のこと、子どもの幼稚園や学校のことなんかで大変だと思う。本当に感謝しています。そういえば結婚してから、リーグ戦に出ているところを、試合会場ではまだ見せられていないんですよね」
 

 
ベルリンは日本より、はるかに冷え込みが早い。気温15度。澄んだ空気に、空の青さが映える。傾いた冬の日差しに目を細めながら、内田は乗用車のハンドルを握る手に、グッと力を込めた。

(取材・文) 塩畑大輔


※編集部追記
内田選手は16日の練習で左太ももを負傷。幸い軽傷でしたが、26日現在、別メニュー調整を行っています。そのため期待されていた11月のブラジル、ベルギーとの親善試合での日本代表復帰は見送りとなる見込みです。

しかし内田選手本人は、ケガをする以前から「今の段階ではまだ、他の代表選手と自分とでは状況が違う」「まずはウニオンで試合数を重ねること」と話していたこともあり、あせることなく前向きに調整しているということです。

詳細はスマートフォンから

続きはアプリで、快適に LINENEWS