2月21日正午、宮崎・生目の杜運動公園。雲間から、青空がのぞき出したメイン野球場に、背番号3がさっそうと現れた。
スタンドから、どっと歓声が上がる。ソフトバンクのチームリーダー、松田宣浩内野手だ。軽くキャッチボールをすると、定位置である三塁に、ゆっくりと向かった。

1日に始まった春季キャンプも終盤。紅白戦が予定されていたこの日は、平日にもかかわらず多くの観客が訪れていた。しかし、前夜からの豪雨で、実戦は中止。午前中の練習自体、ファンの目が届かない室内練習場でのトレーニングに切り替わっていた。
せっかく見に来たのに―。
そんなため息交じりの声に応えるかのように、松田はファンの前に姿を現した。いわゆる、ランチ特守。「お願いしまーす」と声を張り上げ、水上コーチにノックを促した。
「よし来い、ライオン丸!水上さんのロッテ時代の異名や!って誰も分からんか!」


そんなことを大声で言いながら、三遊間を破らんとする打球を、横っ飛びで捕球する。スタンドにはじけた笑い声が、歓声に変わる。
紅白戦の中止を埋め合わせて、余りあるほどの盛り上がり。それでも「そのためだけにやったわけじゃないですけどね。うーん、1%くらい?」。そんなことを言って、けむに巻く。
「1年間を守り切るためには、きつくても数を受けておかないと。チームの守備率で史上最高記録を出した、昨季を上回れるように」
表情を引き締め、次のメニューに向かった。

「あのミスを引きずっていた」
──しっかり量をこなせたか

そうですね、今年は。去年はシーズンに入ってから、調子が上がるまでだいぶ時間がかかってしまいました。それは開幕前の3月に、ワールドベースボールクラシック(WBC)に出場した影響というのも、多少はあります。
──開幕前から実戦があったことで、疲労が出たのか

いえ、疲れというよりは、練習不足だと思います。オフシーズンから、日本代表として取材を受ける機会が多かったりして、あっという間に時間が過ぎてしまった。2月は本来ならキャンプで、数をこなして身体に染み付かせる時期ですが、試合が近くなってきていたので調整重視。ほとんど追い込めませんでした。

──WBCでのコンディションに影響はなかったのか

練習量は減りましたけど、実戦は重ねていたので、WBC自体はコンディションも、実戦勘も問題なかったです。ただチームに戻って4月を迎えたあたりで「ああ、これは厳しいな」と。それからやはり、気持ちの部分というのも、かなり大きかったと思います。しばらくは、あのミスを引きずっていましたから。

「不運とは片付けられない」
WBC準決勝、アメリカ戦は接戦だった。1-1の同点で迎えた8回表、1死二、三塁の場面。松田は三塁ゴロをはじき、三塁走者の生還を許した。それが決勝点となって、小久保ジャパンは敗退した。

初球でした。いつも通り、マウンドの千賀がリリースしたくらいで、打者に気持ちを向けた。でもあの時は、それでは間に合わなかった。気がついたら、右脇のあたり、グローブが出にくいところにボールが来ていた。
──雨もあった。バウンドも難しかった

いえ、不運とは片付けられません。対処はできました。もっと早く準備を始めておけば。気を抜いていたわけではなかった。いつもなら、さばけていたとも思う。でも何度もビデオを見返しての結論は「あと30秒は早く打者側に意識をフォーカスしておけばよかった」というものです。それを普段から、全球続けていないと、ああいう場面で落ち着いて打球をさばくことはできない。
──1試合の投球数は約150球。それを年に143試合繰り返す。1球あたり20秒、30秒と増えれば、集中を要する時間は膨大になる

だからきついという話ですか?いや、でもそれは出させてもらっている選手の責任ですから。きつくないとは言えませんけど、きつくてもやらないと。投手も人生をかけてやっている。野手も死に物ぐるいでアウトを取りにいかないと。
──教訓を得た、ということでしょうか

チームを背負うのも大事ですけど、国を背負って戦っている時のミスはまた特別でした。正直つらかったですけど、それで得たもの、気付きはありました。反省して、繰り返さないようにするのも、代表選手の義務だと思います。
──冷静に振り返ることができている

今だから、ですよね。帰国して、チームのオープン戦に合流したころなどは、とにかくそのことばかりを聞かれました。そこで負けたんで、クローズアップされるのは仕方ない。でも、聞かれたくはなかったですよね。冷静に分析して、振り返ることができるようになったのは、だいぶ後になってからですかね。

王会長から教わったこと
昨年、日本一になった裏で、松田が悔しかったもうひとつのこと。それは、フルイニング出場がかなわなかったことだ。勝ちが決まった試合で、途中交代したもので、全試合出場は果たした。それでも言う。「そらもう、むかつきますよ」。冗談めかしつつも、そこにこだわる理由を明かす。
──なぜ、フルイニング出場にこだわるのか

143試合もやるのがきついという考えもあるかもしれませんけど、ファンの皆さんの中には、たった1試合を楽しみにして、球場に来てくれる方もいます。それはプロ入り直後、王会長から教わりました。「そういうファンのことを考えたら、1試合たりとも気を抜くことはできない。1試合1試合が、新たな試合なんだぞ」と。


──全イニング、モチベーションをつなぐのは大変なこと

いえ、1試合しか来られないファンを思えば、中途半端なプレーはできないという気持ちは、何よりのモチベーションになります。それが個人の成績、チームの成績につながる部分もある。まだまだ若手に隙を見せるつもりもありませんし、とにかく出続ける。ケガや成績不振以外は出る。休むのは、シーズンが終わってから休めばいいんですから。

「熱男」ポーズを続ける理由
ファンへの思いは、紅白戦が雨で中止になった日の特守にも表れていた。そしてオープン戦から、松田はパワー全開で、来場したファンを盛り上げる。3月18日、ヤクルト戦。7回にソロ本塁打を放った松田は、ベンチに戻ると恒例のパフォーマンスを見せた。「熱男(あつお)~!」。こぶしを突き上げての掛け声に、左翼席はもちろん、内野席のファンも応じて盛り上がった。
──いつごろから始めたものか

2015年からですね。当時のチームのスローガンが「熱男」だったんですよ。聞いたことないじゃないですか、そんな言葉(笑い)。でも、いい言葉だなぁと。響きもいいし、熱くならなきゃ野球はできないとも思っていたので、使わせてもらおうかなと。
──だいぶ浸透している

「熱男」を始めてから、3年連続で全試合出場できましたし、たくさんホームランを打つこともできました。その分、ファンの皆さんとの一体感も、最初にやったときよりも増しているんじゃないかと。どう言われるか分からないですけど、チームをひとつにするのにもいいと思っています。
──「リスク」を避けるため、パフォーマンスを禁じる向きもある

そうですね、リスクはありますよ、当然。今は後押ししてもらっていますけど、打てなくなったら、パフォーマンスに対する見られ方も変わってくると思います。そういうプレッシャーを、自分に与えてプレーするという意味もありますよね。
──思い出の「熱男」は

WBCの初戦、キューバ戦ですね。ああいう大会は、国と国との対決なんで、ガッツポーズはせず、相手を敬うのが基本ではあります。ただ、あの試合の東京ドームは、360度日本のファンが埋め尽くしてくれていました。そこで、チーム第1号の本塁打を打った。ベンチに戻ったら、小久保監督も満面の笑みだった。それまでは絶対にやらないつもりだったのですが、小久保さんの笑顔を見た瞬間、これは自分が後で何を言われようと、やらないといけないなと。
──それで、急きょ繰り出した

はい。それで「熱男~!」とやっちゃったんですけど、お客さんがみんな応じてくれました。腹に響いてくるような感じで、ドーンと来た。ホークスでやるのも喜びなんですけど、反響の大きさという意味では、あれが一番だったのかなと思います。
──もはや代名詞

最近、よく熱男の人と言われます(笑い)。本当にうれしいですね。うちの柳田とか、西武のおかわりくん(中村剛也)とか、記録に残る選手はたくさんいますよね。そこを目指すのもプロ野球選手として大事だと思いますけど、自分は記憶に残る選手になりたい。バッティングセンターで松田のマネをしようとか、草野球でホームラン打ったら熱男をするとか、そういう対象でありたいと思っています。



燃えるのは「エースとやる時」
30日にはいよいよ、今季の開幕戦を迎える。ソフトバンクにとって、昨季に続く日本一を目指すシーズンになる。タレント軍団を束ねるチームリーダーは、今年も松田が担う。
──個性派がそろうチームをまとめる上で気を付けている点は

そこも、出続けることですね。いい選手がいる中で、試合に出続ける。そこに重きを置く。自分の役割はそこだと思っています。常にグラウンドにいる。常にベンチで声を出す。常にロッカールームを明るくする。そのためにケガはしない。プロ同士だから、僕なんかがいちいち言わなくても、個人個人が最初から分かっている。だから自分は言葉よりも、とにかく出続ける。居続ける。


──チームとして見せていきたい部分は

野球が楽しいというところを伝えたいです。そして新しいファンの獲得、年齢層拡大のためにも、まずは「ホークスはこんなに強いんだ、強すぎるじゃないか」というのを見せていきたい。V9達成当時の巨人みたいに。だから続けたい。連覇は相当難しいこと。でも今年勝てば、本当にいい時代が続くと思う。今年はそういう部分にやりがいを感じながらプレーしたいですね。
──対戦が楽しみな投手は

パ・リーグでは菊池雄星投手、則本投手、金子投手。エースとやる時、燃えますよね。野球って打者3割の勝負じゃないですか。そのうえエース相手なら、打者はとにかく不利。強い気持ちがないと、超一流の球は打ち返せないです。目の調子とか、体調とかいった自分の状態さえ良ければ、なんとでもなるというのは持っています。自分の感性、感覚さえ整っていれば、打てる。そういうものですね。


取材終了後、3歳の娘さんへのお土産として、LINEのキャラクターグッズを贈呈した。「ありがとうございます。こういうの好きなんですよね」と笑う。そして「長男は7歳で、もう野球だけです」と目を細める。
──野球は親から勧めたのか

いえ、「野球選手の子どもだから」みたいに押し付けたことはないです。興味を持ったもの、好きなものをやるのが大事だと思ってます。ちょっと前まではアンパンマン、きかんしゃトーマスから、妖怪ウォッチと、いろいろおもちゃを買ってほしいとか言ってましたけど、今はとにかく野球ですね。グローブ持って、壁当てばっかりやってます。

──自分で野球を選んだ

そう!そうなんですよ!自分で見つけたからこそ、熱心になる。ものすごく一生懸命やってますからね。「初心を忘れるな」とよく言われますけど、僕は長男が家で壁当てをしている姿を見て、それを学んでいます。野球に夢中になり始めたころの気持ちをよみがえらせてくれる。そこを大事に、今年も1試合、1試合を全力で、新鮮な気持ちでやっていきたいと思います。

プロ野球は30日に開幕する。
毎試合、誰よりも熱く、誰よりもフレッシュに。
今シーズンも、松田は「熱男」であり続ける。
(取材、構成・塩畑大輔 撮影・松本洸 編集・LINE NEWS編集部)

松田宣浩(まつだ・のぶひろ)選手
1983年5月17日、滋賀県草津市生まれ。中京高、亜大をへて、2005年大学生・社会人ドラフト会議でソフトバンクから希望入団枠で指名され、06年はルーキーながら開幕スタメン。08年からレギュラーに定着し、侍ジャパンの一員として13、17年のWBC、15年のプレミア12に出場。15年には海外FA権を行使し、パドレスと交渉も残留。180センチ、87キロ。右投げ右打ち。
詳細はスマートフォンから
前日の大雨がうそのように、透き通るような冬の青空が広がっていた。
3月10日、岩手県大槌(おおつち)町。
のんは海を望む歩道で、ふと足を止めた。すぐ横のくぼ地の方を、じっと見つめる。冷たい風に揺れる髪が、時折白い頬をくすぐっても、気にする様子もない。
視線の先には、宙に伸びた2本のレール。ポツリと言った。

「つながるんですね。もうすぐ」。
反対方向には、更地をまっすぐ貫くように、すでにレールが延びている。
2011年3月の東日本大震災で、この地を走っていたJR山田線は津波で甚大な被害を受けた。
ずたずたになったその路線の復旧工事が、着々と進んでいる。来年の3月までには、運行停止中の宮古~釜石間が開通するという。



それと同時に、その区間はJRから三陸鉄道に移管される。のんと縁深い"三鉄"は、これまで山田線を挟んで、北リアス線、南リアス線に分かれて運行していた。それが史上初めて、三陸を縦につなぐ一本になるのだ。

未来の駅前通りと魚屋
津波で完全に流された大槌駅は、駅舎に先駆け、駅前のロータリーとタクシー寄せが新設されている。そこから伸びる、未来の駅前通り。周囲はほとんど更地だが、そこにぽつんと、魚屋が看板を掲げている。

「いらっしゃい」。ご主人の中里さんがのんを迎えた。

外に干してあったお魚、すごく立派ですね!

新巻鮭ですね。大槌は新巻鮭の発祥の地という説もあって、400年の歴史があるとも言われています。

そうなんですね!ご主人はいつからここでお店をされているんですか?

去年の11月からですね。震災の後、別な場所さ行って商売してたんですけども、もともとがここだからね。ようやく建設許可が下りたから、戻ってきたんですよ。

他の方はまだ戻っていらっしゃらないんですか?

なかなか建設許可が下りねえから、諦めて他の場所に居ついた人もいます。商売をやめた人もいます。みんな年配だから、そんなに待てねえんですよ。



それでも、ご主人は戻られたんですね。

ここに昔と同じく店を構えたら、みんなも少しは帰って来る気になるのかなって。だから誰より早く戻ってきたんですよ。

そうなんですね。

線路ももうすぐつながる。想像つがねえかもしれねえけど、駅があった頃は、ここら辺もにぎやかだったんですよ。鉄道がまたここへさ、にぎわいを連れてきてくれるといいんだけども。
三陸鉄道の駅が、もう一度みんなをつなげる。そんな未来を、ご主人は待ち望んでいた。


福幸きらり商店街
大槌町、福幸きらり商店街。小学校のグラウンドにプレハブで造られた、仮設の商店街だ。

のんはコの字型になった「街」を歩いた。すし屋、電機店、美容室に、精肉店、鮮魚店。
「写真スタジオもありますね!」。思わず、店内をのぞき込む。レンタルビデオ店に、スナックまであった。



そしてある店の前で、ひときわ大きな声を上げた。「わあ、ラーメン!」。赤いのれんの向こうから漂う香りに、目を輝かせる。
「いらっしゃい。あら、のんちゃんじゃない!さあさ、どうぞどうぞ」。おかみさんが笑顔で招き入れた。


おいしい!本当に!
のんは何度も繰り返した。厨房で黙々と作業をしていた店主の沢山さんが、笑顔を向けてきた。

ここは10月で終わってしまうと聞きました。

そうなんですよ。もともと小学校のグラウンドを借りている状態なので。まるごと移転する話もありましたが、うまくいかなかったようです。私たちも9月にはここをたたんで、他の場所に移ります。



せっかく、こんなにたくさんのお客さんがいるのに、もったいない気もします。

そうですね。こんなに大きな共用駐車場があるっていうのは、すごく良かったです。工事車両で来る人も気軽に来られて。そして何より、ここに来れば何でもそろう。だからお客さんもたくさん来てくれたのだと思います。

ショッピングモールみたいですもんね。

日本全国そうでしょうけど、ここでも小さい店は大きなモールに押されっぱなしでした。でも、震災後はここに入って、みんな元気に商売をしていた。店同士がつながれば、大型店舗にも負けないって教えてもらった気がします。

つながることは、力になる。仮設商店街の賑わいは、そんなことも証明していた。

大槌復興刺し子プロジェクト
のんは「大槌復興刺し子プロジェクト」を訪れた。迎え入れたスタッフが、刺し子体験会を開いてくれることになった。


はじめてとは思えないわね!さすがのんちゃんだわ。お洋服づくりが趣味なんですもんね。

ホント、スジがいいわね。どんどん手際がよくなるもの。ここで働くといいんじゃない?




刺し子はずっと気になっていて、やってみたいと思っていました。最近では東京にも出品されているとうかがいました。
のんが言うとおり、大槌刺し子は「無印良品」に出品されており、かわいい見た目から手に取る人が多い。

こっちには近くに無印がないから、あんまり実感ないんですよね。でも、すごくうれしいです。

震災直後は糸が流されてしまって、刺し子ができなくなったこともありました。でも、同じ刺し子文化が根付いているという縁で、飛騨のみなさんなどが寄付をつのって、大槌に糸を送ってくれました。そこから始まった縁で、無印良品さんへの販路も生まれたんです。

刺し子という文化が大槌と飛騨、そして日本中をつないでくれたんですね。


「私にも、大槌刺し子とみんながつながるお手伝いをさせてください」。のんはそう言って、できあがった刺し子のブローチを、胸元につけた。
刺し子プロジェクトのみなさんが、うれしそうに何度もうなずいた。

世界中のファンを乗せた車両がやってくる
鵜住居(うのすまい)。小、中学生が祖父母などの教えを忠実に守り、手をつないで高台に避難したことで、多くの命が救われた地。
その小さな集落に、世界中から2万人ものファンが集うという、奇跡のようなイベントがやってくる。ラグビースタジアムの建設現場。翼を広げたような形のメインスタンドに、のんは立っていた。


ここで、来年W杯が開催されるんですね。
かたわらで、釜石市W杯推進室のスタッフがうなずく。

はい!世界中からファンが集まってくれると思います。
来年9月、アジアで初めて開催されるラグビーW杯日本大会。「釜石鵜住居復興スタジアム」と仮称されている会場では、2試合が開催されることが決まっている。
佐々木さんが指差す先には、旧山田線の線路の傍らに、プラットホームが設けられている。再建される鵜住居駅。スタジアムまで、歩いて5分ほどの距離のように見える。


あんなに近いんですね!

大会前には、三陸鉄道さんがつながりますから、きっとたくさんのファンを連れてきてくれるんじゃないかと思っています。

世界中のファンを乗せた車両が、次々と鵜住居にやってくる。つなぐ先は、国内だけではない。三陸鉄道で、世界と岩手がつながる。

外国人が集うのれん
「夕飯はお決まりなんですか?もし決まってなかったら、ぜひ行ってみてほしいんです」
W杯推進室のスタッフから強く勧められ、のんは釜石市内の飲食店街に足を運んだ。


小さな店が軒を連ねる「釜石漁火酒場かまりば」。その一角に居酒屋、BEC'Kはあった。
推進室のスタッフによれば、いつも外国出身の客が集まる店なのだという。
この日もフランス人がテーブル席に陣取り、話に花を咲かせていた



なぜ、たくさん外国の方がいらっしゃるんですか?

店名のせいですかね(笑い)。
阿部→アベック→ベックと転じて生まれたあだ名を、阿部さんはアルファベット表記にして店名にした。すると「読めない漢字ばかりの店よりも入りやすい」と、観光で訪れた外国人が頻繁にのれんをくぐるようになったという。

来年も楽しみですね!

はい。世界中からラグビーファンが来ますからね。幸い、W杯推進室が、英語での接客講習を定期的に開いてくれるんですよ。せっかくですから、外国の方に楽しんでもらえるように、僕もがんばろうかと。

真っ暗な通りにともされた、希望の灯り
「ああ、もしかしてW杯推進室の紹介ですか?」
かまいし親富幸通りのスナック、スリーナインのマスターである久保さんは、カウンターの向こうでニッコリと笑ってみせた。


確かに、うちもW杯推進室の英語接客講座を受けてます。せっかく、世界中からたくさんの方が来ますからね。また、いろんな人々がうちのお店でつながって、楽しく盛り上がるところをみたいなと思うんです。

以前にも、そういうことがあったんですか?

震災直後ですね。見ての通り、うちはビルの2階ですが、それでも今のんさんが座ってる腰の高さくらいまでは水が入ってきました。地震もあったから、ぐちゃぐちゃでしたけど、でもこの通りで一番早く、商売を再開させたんです。震災からちょうど5カ月の8月11日。夜の通りはまだ真っ暗でしたけど、店の外に灯りをともして、うちはやってますよと示したんです。


すると地元の常連はもちろん、各地から集まってきた多くのボランティアや、がれき撤去や復旧工事に携わる作業員なども、久保さんのスナックに集まってきた。

みんな、娯楽に飢えていて、カラオケ歌いたかったんですよ。それで、彼らが最初に歌った歌、なんだと思います?

うーん、何でしょうね…?

なんと、「TSUNAMI」なんですよ。サザンオールスターズの。

えっ…?

ね、曲名ですよね。でも、そんなことでこっちの人は怒らないですよ。タイトルだけで、内容は違うのは、みんな分かるでしょう。私はとにかく、あの曲でたくさんの方がつながって、楽しそうにしていたのがうれしかった。元々は知らない人同士が、一緒に歌って大盛り上がりでしたから。

そういって、久保さんは目を細める。きっと、来年のラグビーW杯のときには、この店で世界中の人々がつながるのだろう。

スナックでマイクを握る姿は、なぜか見るものに「懐かしい」と思わせた。のんはカウンターに座り直すと、言葉に力を込めた。

つながることって、人を元気にしますよね。今回、あらためて思いました。だから私も、東北と世界がつながるお手伝いをしたいです。

3月11日当日も、のんは三陸海岸をたどる。釜石から150キロを北上していき、久慈駅で今回の旅を締めくくる。
震災からわずか5日後。三陸鉄道は、最北の久慈駅から2駅区間という形で、運行を再開した。そして、そこから8年かけ、ついに沿岸部をつなぐことになる。
その道筋を、逆からなぞるように。のんは北へ向かう。
三陸の人々と、世界中の人々をつなぐ役目を、のんも担う。

(企画・構成 塩畑大輔、フォト 松本洸、動画 和泉達也、編集 LINE NEWS編集部)
お知らせ
「#3.11特別企画 のん!岩手県久慈駅からLINE LIVE」
のんさんが、3月11日に岩手県久慈駅を訪れ、LINE LIVEで生中継を実施。現地で東北への思いなどを語りました。
視聴はこちらから
「3.11を忘れない。マンガ版『緊急時のLINEの使い方』などLINEの5つの取り組み」
震災の記憶を忘れずに未来へと備えるため、LINEでは売上が寄付になるスタンプ「SMILE+スタンプ」の販売や、マンガで学べる「緊急時のLINE活用法」を無料で公開するなど様々な活動を行っています。
詳しくはこちらから
1月11日。"川崎大師"として知られる川崎市・平間寺。大本堂前の階段を取り囲むように、何重もの人の輪ができていた。
皆、何かを待ちうけ、お堂をのぞき込んでいる。やがて、一角から声が上がった。「来たぞ!」。

新シーズンの必勝祈願を終えた川崎フロンターレの選手たちが、姿を現した。階段をひな壇代わりにして、記念撮影をする。それが終わると、ひとりの選手がJリーグ優勝銀皿を抱えて、階段を下りてきた。
中村憲剛は「すいませーん」と断りながら、無造作に人の輪を突っ切っていった。思わぬ展開に驚きつつも、何とか追随したファンを引き連れたまま、大山門を通り抜けて仲見世通りへと繰り出す。
栄光のシャーレを掲げて、昨季リーグ覇者の看板選手が進んでいく。

「中村屋!」ではなかったが、花道を行く中村には、通りの両脇の店先から次々と声が掛かる。「ケンゴ!」「おめでとう!」「シャーレ見せて!」。もともと初詣でにぎわっていた通りは、やがて完全に人で埋まった。

リーグ、ルヴァン杯、天皇杯の"国内三冠"で、準優勝に終わること9回。ついに果たした優勝を、ぜひ振り返ってほしい。そう願うと、中村は「もう振り返りまくりましたから。雑誌とか見てください」といたずらっぽく笑った。

それでも、ひとしきり笑ったあとに「やりましょう」とうなずいた。姿勢を正し、語り出す。

──優勝の瞬間、地面に突っ伏して泣く姿が印象的だった

向こうの経過を知らなくてね。こちらの試合の大勢は決していたので、試合が止まるたびにベンチの方を見ていました。2009年に同じように、ウチが勝って鹿島が引き分け以下なら優勝という状況があった。でもその時には鹿島が早々にリードした。それを知ったベンチの雰囲気がとても暗かったのを覚えていました。
──今回は違った

それに比べると、ベンチがだいぶそわそわしていたので、これはまだ可能性はあるなと思っていました。最後に追加点をとって、主審が笛を吹いた時に、みんながピッチにワッと入ってきた。ああ、これは優勝したんだなと。気がついたらピッチに突っ伏していました。
──どんな思いが涙になったのか

なんかうれしいというか、よく分からない感情。いろんな感情が入り交じって。とにかく泣いていました。うれし涙を流したことがなかったので、プロに入ってから。15年分、たまったやつが、10分ぐらいでバーッと出た。今までの悔しい思いとかが、涙になって全部流れ落ちちゃったなというくらい、すっきりしました。

「ケンゴさんに優勝を」──
長く主将も務めてきた精神的支柱は、37歳になった。タイトルに迫るたび、後輩の選手たちは「ケンゴさんに優勝を」と口をそろえていた。
──そういう言葉が、重荷になる側面もあるのでは

自分は大丈夫でした。どちらかというと、それがチームの重荷になってしまうのが心配だった。11月のルヴァン杯決勝の時も、みんなが「ケンゴさんのために」と言っていた。すっげーうれしいんですけど、それでいらぬ力が入っちゃったら嫌だなと。

──優勝するには何が足りないと感じていたのか

自問自答の日々ですよね。毎年勝てなかったから、それを考えながら年を越す。でも結局、勝ってないから分からないんですよ。それでも、去年のチームは優勝に値するチームだと、シーズン途中で思っていました。やっているサッカーもそうですし、今までにない勝負強さがあった。
──何がチームを変えたのか

一昨年はクラブ20周年で、Jリーグチャンピオンシップにも進出して、優勝するなら今年だろうという雰囲気はあった。でも、やっぱりタイトルは取れなかった。その上、監督も変わって、エースもいなくなった。下馬評は低かったのも、しょうがないところもありました。
──それでもチームは変わった

キャンプの最初に鬼さん(鬼木監督)が「タイトルを取りにいく」という目標を、最初にはっきりと打ち出し、そのために必要なものをチームに落とし込んでくれました。それで、今までと違う手応えがあった。そして、シーズン序盤は低空飛行でしたけど、それでも方針は変えなかった。それが良かったのだと思います。
──優勝して得たものは

1年間、こういう意識でやればタイトルが取れる、というのが分かったのは大きな財産。いいサッカーしていても、しょせん2位どまりでは、説得力がなかった。優勝したことないじゃんと言われたらそれまで。それは苦しかった。今のスタイルになってからはずっと自信があっただけに。

「サッカーはエンターテインメント」──
タイトルを渇望する一方で、中村は「サッカーはエンターテインメント」と言ってはばからなかった。誰よりもピッチ外での告知活動に積極的に取り組み、ゴール後のパフォーマンスにもこだわってきた。
──勝ちにこだわることと、エンターテインメント性を高めることは、相反するという見方もある

ジレンマはずっと感じていました。フロンターレはサッカーだけでなく、サッカー外のところでも楽しませる、という両輪でずっとやってきました。地域密着を掲げて、川崎の人を喜ばせる。そういうポリシーでやっているので、ファン感謝デーも、イベント出席も、選手の露出も、他のクラブより多いと思います。
──ゴール後のパフォーマンスも話題になった

個人的にそれがマイナスになることはまったくなかったですけど、それでも勝ててないことで「それやりすぎだよ」とか「それが足を引っ張っているんだ」とか言われちゃうじゃないですか。それが悔しかった。そうじゃないって、オレは思っていたんで。
──ネットでの発信にも積極的

ネットの世界のスピード感、すごいなと改めて思います。オレもTwitterとかブログのライブ配信とかやってますけど、速いですよね。ダイレクトですから。ゴールパフォーマンスもそうですけど、プレーに響かない程度に楽しくやれればいいかなと。このクラブ自体も度を越えない程度にうまくやっているじゃないですか。あ、度を越えているか(笑い)。
──他の選手もうまく巻き込んでいる

新加入選手は面食らってますけど、サッカー選手は目立ちたがりな側面があると思っているので。選手がそういうことをやるのを、サポーターも喜んでくれるじゃないですか。それをオレは肌で感じてきたから。
──そこは曲げたくなかった

オレはこのクラブしか知らないけど、このやり方で大きくなって、人間としての幅もすごく広げてもらえました。これで優勝できれば、今までにないチームが優勝したということになるんで、絶対勝ちたかった。今に始まったわけじゃない。ずっとですよね。こういうクラブが勝てたら、どれだけステキなことだろうと。
──サッカー界全体を考えても、ということか

いろいろなスタイルがあっていいと思う。サッカーだけを突き詰めるクラブもあっていい。サッカー外だけを突き詰めるクラブも…ってのはさすがにないか(笑い)。ただ、両方をちゃんとやったクラブが優勝できれば、新しいスタンダードになるんじゃないかと、ずっと思っていました。もしかしたら追随してくれるクラブもあるかも。そうすれば、多様性のある魅力的なリーグになる。
──それを語れるのも、優勝したからこそ、ということか

そっちも肯定できたのが、すごくうれしい。優勝自体と同じくらい。「サッカー外の活動、邪魔じゃなかった」ってね(笑い)。クラブの取り組みが間違いじゃなかったという証しじゃないですか、優勝するって。ジレンマというか、評価を覆したいというのは思っていた。だからそれができて、本当によかったです。

「こんなにお母さんは大変なんだな」──
優勝を喜ぶもう1つの理由、それは家族に立ち会ってもらえたことだ。中村はリーグMVPに輝いた2016年シーズン中、かつてない試練に直面していた。第3子の長女を妊娠していた夫人が、妊娠14週目で破水。母子ともに危険な状態になっていたのだ。
──当時はその事情を明かさなかった

自分から言う必要はなかったですから。あの時期は、自分が家事を全部引き受けてやっていました。今までなら絶対無理でしたけど、無理という選択肢がない。やるしかなかった。もちろん母親や姉に手伝ってもらったりしましたけど、基本的には自分が子どもの世話も、自分のことも、洗濯炊事、食事、買い出しまで。
──プレーを続けながらというのはかなりの負荷では

でも意外とメリハリついてよかったんですよ、生活にね。甘えてたんだなと思いました。こんなにお母さんは大変なんだなと。これは別にママ層の好感度上げたいわけじゃないですよ(笑い)。本当に思ったんですよ。あの時。今までも感謝はしてたつもりでした。でも上っ面でした。やってみて、本当にすごいなと。
──主婦の大変さとは

あれもやってこれもやって、給料も出ない。これは世のお母さん、ダンナから給料取ったほうがいいよと思いました。それくらい。改めて感謝しました。今までとは違う感謝。尊敬に近い。世の中のダンナさんはみんな、奥さんに感謝しないといけない。これはホント、心から思う。
──優勝は最高の恩返し

本当によかったです。子どもたちにとってもそう。長男もサッカーやっているし。自分の父親がどういう選手なのかも、優勝できていないのも知っている。ある時からオレと一緒に「なぜ優勝できないのか」を考えるようになってました。優勝の場に、奥さんと子どもたちで来てくれて、すごく喜んでくれた。あの景色を見せられたのはうれしかったですね。そう、父親としてうれしかった。

「オシムさんには最初から、めっちゃ怒られました」──
中村は優勝後、代表デビューさせてくれた恩師、元日本代表監督のイビチャ・オシム氏に優勝報告の動画をおくっていた。オシム氏はことのほか喜び、動画などで以下のような言葉を中村におくった。

メッセージありがとう、元気そうでよかった。まだまだフィジカル的には大丈夫ということなので、頑張れるうちは現役を続けてください。君のおかげで川崎はいいチームになった。あの体重で相手を恐れず身体をぶつける、とても勇敢な選手だ。エゴイストにならないプレーぶりは、若い選手のお手本になる。君の経験と知識はとても貴重なものだから、みんなに伝えてあげてください。ケチケチするんじゃないよ、君にはそれだけの価値があるんだから。
──オシムさんの動画、いかがでしたか

あれ、震えた。あれ、何?ものすごくうれしかったです。泣きそうになりました。
──むしろ特に目をかけられていた印象がある

ジェフのみんなの次に、オレは"チルドレン"でしたからね(笑い)。オシムさんには最初から、めっちゃ怒られましたよ。「これ、嫌われてるかな」と思うくらい。でも怒られるのは好かれてる証拠だと、羽生(直剛)さんが言ってくれたんですよ。それで、コミュニケーションの取り方を変えました。
──どう変えたのか

オレも意見を言うようにしました。オシムさんに。「こうじゃないのか」と言われたら「オレはこう思います」と。そうするとオシムさんは「ハン」って言う。「ほう、そうなのか」って。分かりますよね?あの感じで「ハン」と(笑い)。
──分かります(笑い)

ちょっとうれしそうなのよね(笑い)。きっと言うこと聞きすぎるやつ、あんま好きじゃないんだよ。自分自身がないやつ、好きじゃないから。オレはそのツボをつかんで、そこからはオシムさんの「ブラボー!」を聞くために、練習から頑張ってました。で、結局それがチームのためになったんですよね。
──チームには可能性を感じた

あれは楽しかった。短かったですけど。あのチームの完成形は見たかった。手応えはすごくあったんでね。そういう意味でも、あの動画は家宝ですね。オシムさんの言葉というのは、あの短い時間でも、ものすごく重い。奥さんとも話すんですが、いつか会いに行きたい。そういう企画、ぜひお願いします!(笑い)

「優勝したら、また優勝したくなった」──
オシムさんが「今後はさらに経験を伝えてほしい」と言う。中村選手は今後について、どんなビジョンを持っているのか。

やっぱり、ずっと第一線でプレーし続ける自分でありたい。年齢のことは散々言われています。でももう関係ないだろうって、開き直りに近い気持ちですね(笑い)。そういうのを証明するのも自分のパフォーマンスなんでね。落ちたらすぐに、年齢のことをかさにかかって言われてしまう。だから落とせない。

──プレッシャーになる部分もあるか

いえ。確かに35歳くらいまではそういう声に反抗するというか、ネガティブな、怒りのこもった感情もありましたけど。今はもう、自分さえ分かっていればいいかなと。自分のことは。そうやって突き抜けた部分が、いい方向にいけばいいかなと思っています。
──優勝できたことは、今後のビジョンを変えたか

正直「優勝できたから燃え尽きるのかな」というのはちょっとありました。なんせ、そこを追い続けて15年ですからね!悲願も悲願!(笑い)。でも優勝したら、また優勝したいなと。ルヴァン杯も天皇杯も、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)も、去年は悔しい思いをしているんで。そこも優勝したいという気持ちが、新しく芽生えました。もっと、もっとって気持ちです。

──モチベーションはむしろ高まった

だからちょっとホッとしたんですよね、自分に。サッカー選手としての自分が、まだやる気満々なんだなと。それがなんだか、無性にうれしかった。うん、だから楽しみでしかない。ここから先も。

23日、今年もJリーグが開幕する。
中村にとって、プロ16年目のシーズンが始まる。
今年で38歳を迎えるが、今年のW杯での日本代表メンバー入りを期待する声も高まるほど、変わらぬ存在感を放つ。同代表のハリルホジッチ監督も、事あるごとに名前を挙げる。
「楽しみでしかない」。その言葉通り、優勝を果たした過去を振りかえるよりも、今は"ここから先"に胸を躍らせる。
(取材、文・塩畑大輔 撮影・佐野美樹 動画・和泉達也 編集・LINE NEWS編集部)

中村憲剛(なかむら・けんご)選手
1980年10月31日、東京都小平市生まれ。都立久留米高から中大をへて、2003年に川崎フロンターレに入団。06年に日本代表に初選出。10年南アフリカW杯日本代表メンバーに選出。14年ブラジルW杯では予備登録メンバー入りも、出場はできなかった。16年JリーグMVP。
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「それで、君はいつ、監督になるんだ」
12月23日、サラエボ市内のホテル。10年ぶりの再会を懐かしむ阿部勇樹に、イビチャ・オシムさんはこう投げかけた。かたわらのアシマ夫人が、遠い目をして言った。
「イワン(オシムさん)は38歳の時、お医者さんにひざの手術が必要だと言われて引退したわ。それでサラエボに戻って、監督を始めたの」
阿部も今年、37歳になる。オシムさんが続ける。
「君もいつでも、そういうチェンジができるように、準備をしたほうがいい」
いよいよ、話が熱を帯びる。そう感じたアシマ夫人が、ペットボトルの水を差し出した。10年前、夫が脳梗塞で倒れてから、ほぼ習慣になっている。
それを制して、オシムさんが語り出す。

※前編の模様はこちらから「阿部勇樹、イビチャ・オシムに会いに行く。(前編)」

監督になるための「いい準備」──

指導者ライセンスはどうするんだ。

講習は始めています。ユース世代の子どもたちに教えるところから、です。

子どもへのトレーニングはとても大事だ。それは子どもたちにとってもそうだし、教える側にとってもそうだ。

教える側にも、ですか。

飛び抜けてうまい子どもがいても、それに目がくらんではいけない。サッカーはこれからも、世界全体でスピードアップしていく。現在よりも速いプレースピードに適応できるか。そういう観点で、子どもの適性をはかれるようでないと。


未来のサッカーがどうなるかをいつも考えておく、ということですね。指導者自身が。

そして、ライセンスの講習だけで終わってはいけない。毎日の練習や試合でも、今までと違う角度から同僚や相手のプレーを見るようにする。そして「自分が監督なら、今の自分に何を要求するだろうか」と想像しながら練習をすることも、監督になるためのいい準備になる。

なるほど。

参考までに言うと、ジェフの監督当時、阿部という選手がいた。よく練習をする選手だったが、監督としてはもっと左足の練習や、トラップやシュートの練習をきちんとしてほしいと、ずっと思っていた。

うっ…。す、すいません(苦笑い)。


そうしたら、その選手はあと100ゴールは決められたんじゃないか(笑い)。いずれにしても、そういう角度から自分のプレーや練習の仕方などを振り返ってみるのも、監督になる準備のひとつだ。それから…クラシコはどうなった?

バルセロナ対レアル・マドリード、今日でしたよね。

ここに来るために、前半だけしか見れなかったな。

なんかすごく申し訳ないです(苦笑い)。

そういう試合を見るときも、監督の視点を持つことだ。何か完全な戦術というものがあって、それさえやり遂げればバルサにもレアルにも勝てる、ということはない。どちらのチームの監督も、対戦のたびに相手の現状をよく分析して、対策を練っている。

「オシムの戦術」などなかった ──

それは千葉当時も、監督のお仕事ぶりから感じるところがありました。単純に「戦術」と表現するのは、ちょっと違うなと。

きちんと次の試合の相手のことを研究して、分析して、対策を準備する。それが監督の最低限の仕事だ。その積み重ねが、戦術のように見える。

分かります。「自分たちのサッカーができれば勝てる」という選手のコメントに、いつも腹を立てていらっしゃいました(笑い)。相手へのリスペクトがあまりにも足りない発言だ、と。

当時は「オシムの戦術」などという書き方をする新聞記者もいたな。そんなもの、どこかにあったのか?

そういえば僕、オシムさんと会うというのに、ランニングシューズ持って来なかったんですよね…。反省してます(笑い)。

サラエボは坂が多いから、いいトレーニングになるのにな(笑い)。
── まだまだ走る意欲がある36歳の阿部選手に、監督になることを今から考えろとおっしゃる。21歳とまだ若かった阿部選手をジェフの主将に抜てきした当時に重なります。

当時は事情があった。われこそは次の主将、と思っているベテランが何人かいて、誰を主将にしてもうまくいきそうになかった。だから阿部を主将にして、若い弟を支えるために一丸になろう、という機運をつくりたかった。

誰を主将にしたらうまくいく、などという法則はない。ただ、阿部を主将にしてみて改めて思ったのは「生まれついての指導者」というキャラクターを持つ選手もいる、ということだ。
いい指導者になれるタイプの主将 ──

誰かに何か指示を出すまでもなく、プレーし、戦うことによって、みんなが見習い、チームがまとまる。そういうタイプの主将もいる。阿部に期待していたのは、言葉じゃなく、ファイトすること。つまり、いつも全力でプレーをする。全力でやるのが、主将の最低限の条件だ。

主将のプレーぶりが、チーム全体のレベルを決めるところもある。そしてその次のステップは、次の試合の相手がどんなチームか、主将は主将で分析し、対策を立てるということだ。

それは、自然とやるようになったかもしれません。結果的に監督になる準備にもなっている、ということですかね。

いい主将だから、必ずいい監督になれると決まっているわけではない。どんなタイプの主将なのかによって、いい指導者になれるかどうかが分かれる。阿部は主将として、いつも味方のミスを帳消しにするプレーができていた。それが大事なんだ。

(静かにうなずく)

しかし主将の影響力と、監督の影響力は、チームにとってはまったく違うものだから、混同すべきではない。そこを間違って、監督として全部指示して、独裁的にやるようになる例もある。

なんとなく、分かります。

もう一点。多くの監督が、ナンバーワンは自分だと思っているが、それは間違い。プレーをするのは選手。点が入ったら選手もスタッフもみんな飛び上がって喜ぶが、監督はその中のひとりでしかない。


そういう意味でも、阿部は監督に向いていると思っている。自分がやっているプレーを、自分のチームの選手にやらせることができれば、いい監督になれる。ジェフやレッズの選手たちは、阿部がいい監督になれると確信しているはずだ。

あとは、服装と髪型ね、監督に大事なのは(笑い)。

服装で言えば、ジェフにはGKの櫛野がいただろう。あいつの終盤の失点でよく勝ち点を落としたが、それよりも印象に残っているのは服装だ。

チェーンが好きだったわね。あの子は(笑い)。

ああ、確かに(笑い)。ベルトあたりにつけまくってました。

どこかから脱獄してきたのかと思ったぞ(笑い)。


対談を終えたオシムさんは、当然のように「行くぞ」と手招きした。旧市街。行きつけの店を、阿部のために予約していた。
席につくなり、ラキアという地元の蒸留酒が全員に回ってきた。「え、監督の前で酒?」。
思わず「監督」と言ってしまった。千葉時代に戻ったように、阿部が縮こまる。


なんだ、私は選手に「酒を飲むな」なんて言ったことはないぞ。そんなことを言うと、かえって隠れてビールを飲んだりするんだ。それよりも…。

はい。次の日の練習のキツさを思うと、酒なんて飲もうなんて思えませんでした(苦笑い)。

そういうことだな。そして、今はオフシーズンだ(グラスを掲げる)。

今夜の酒は、すごく回る気がします。




代表監督を退いて、日本を離れる時のことを思い出す。君も空港まで来てくれた。たくさんのサポーターもいたな。

そうですね…。

飛行機が飛ばなければいい。あの時は、本当にそう思ったよ。

別れの時。阿部はオシムさんの手を取り、帰りのワゴン車の後部座席に導いた。オシムさんが阿部の手を握る。

できるだけ早く、精密検査を受けるといい。現役生活が長ければ、知らないうちに身体に欠陥が生じていることがある。心臓とかな。

はい。

監督になれば、重圧もあるからな。きちんと調べたほうがいい。それで問題がなければ、まずは全力でプレーしなさい。近未来のサッカーがどうなるかを想像しながら。周囲をよく観察しながら。そうすれば、いずれいい指導者になれる。

分かりました。

今回は来てくれてありがとう。ただ、サプライズは一度きりじゃなくたっていいんだぞ。

はい!お元気で。


「濃密過ぎる時間でしたね」。ポツリと言う。
現地時間25日午前0時過ぎ、帰路の経由地ドーハ国際空港。
メインロビーの片隅、バーのカウンターに、阿部の背中があった。
周囲には、誰もいない。同行者は空港内のホテルの部屋で、仮眠をとっている。
阿部はひとり、バーのモニターに見入っていた。プレミアリーグの試合映像。手元ではワインのグラスが、口をつけられることもなく水滴をまとっている。

「また、いい報告をするためにも、がんばらないと。遠くからですけど、見ていてくれますから」
オシムさんが脳梗塞で倒れなければ―。日本サッカー界最大の「たられば」を、阿部も思わないわけではなかった。
しかし、これからは違う。バトンを託された身だ。走るしかない。全力で。
「そろそろ搭乗時刻ですかね」
力強く立ち上がる。ファイナルコールが、遠くから聞こえてきた。


イビチャ・オシム氏
1941年5月6日、サラエボ生まれ。現役時代はフランスでプレーし、ユーゴスラビア代表として東京五輪にも出場。78年に引退し、監督に転身。86年からユーゴスラビア代表の指揮を執り、90年W杯で8強。03年にJ1市原(現・千葉)の監督に就任。06年に日本代表の監督に就いたが、07年11月に脳梗塞で倒れて、後に退任。現在はボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー連盟名誉会長、ジェリェズニチャルの名誉会長などに就いている。

阿部勇樹選手
1981年9月6日、千葉県生まれ。下部組織を経て市原に入団し、98年に当時最年少記録の16歳333日でJ1デビュー。2007年に浦和に移籍。日本代表として出場した10年W杯では、中盤の守備の要として決勝トーナメント進出に大きく貢献。大会後にレスターに移籍。12年から再び浦和でプレーする。
(取材協力・千田善 取材、文・塩畑大輔 撮影・松本洸 動画編集・和泉達也 編集・LINE NEWS編集部)
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12月21日。成田空港第2ターミナル。人もまばらな午後9時の出発ロビーに、浦和MF阿部勇樹が現れた。
「2010年のW杯直前に、グラーツでイングランドと親善試合をしたときに、現地で会って以来ですね。もう8年近くになりますか…」
そう言って、チェックインを済ませる。握り締めたチケットは、ドーハ経由、サラエボ行き。恩師、イビチャ・オシムさんを訪ねる旅の始まりだった。

フライト12時間。ようやく経由地ドーハに着いた。ここからサラエボまで、さらに5時間。
同行者から「これでも読む?」とオシムさん関連の書籍を勧められた。しかし、阿部は笑って手を振る。
「オシムさんの本は、全部と言っていいくらい読んでますから」
07年11月、オシムさんは代表監督在任中、脳梗塞で倒れた。そして職を辞し、志半ばで日本を去っていた。しかし、それから10年の間、阿部はひとときも恩師を忘れることはなかった。

「来ちゃいましたね。本当に。来れたんだ」
白い息とともに、そうつぶやく。
成田出発から22時間、現地時間午前11時過ぎ。阿部はサラエボ空港に到着した。

阿部はオシムさんの"足跡"をたどることにした。まずは恩師がプレーし、監督も務めたクラブ、ジェリェズニチャルのホームスタジアムへ。
1921年設立の歴史あるクラブ。記者会見場には、無数のトロフィーが並んでいた。そして飾られた写真、肖像画の中には、懐かしい顔があった。「ああ、オシムさん」
そして阿部はもうひとつ、重要な"痕跡"をスタジアムに見つけた。
崩れたコンクリートの壁が、あえて残されている。同行するかつての日本代表通訳、千田善さんが説明した。「ここは内戦の最激戦地だったんです。文字通り、このピッチ自体が戦場でした」

1986年、オシムさんはユーゴスラビア代表監督に就任した。
"天才"サビチェビッチ。後に98年W杯で得点王を獲得するシューケル。そして日本でもプレーしたストイコビッチ。さらにはミハイロビッチ、ヤルニ、ユーゴビッチ、プロシネチキ。オシムさんのもとで代表デビューした選手たちは、そろって世界トップクラスの選手になった。
90年W杯。ユーゴスラビアはマラドーナ率いるアルゼンチン相手に退場者を出し、PK戦の末に敗れた。だが、実力は誰もが認めた。8強止まりにもかかわらず「今大会最高のチーム」と評する声まであった。
オシムさんの名声も、国際的に高まった。名門レアル・マドリードからも熱心なオファーが寄せられるほどだった。
しかし、そんな快進撃と並行して、多民族国家ユーゴスラビアでは内戦が激化していた。
クロアチア、スロベニアなどの出身選手の中からは「ユーゴ代表ではプレーできない」とオシムさんにわびて去るものも出てきた。
そして92年。オシムさんの故郷、サラエボをセルビア人勢力が包囲した。

翌日。オシムさんとの約束は午後だった。阿部は千田さんに願い、内戦で亡くなった人々のお墓参りにでかけた。
移動の車は、なぜか84年サラエボ五輪の開会式が行われたオリンピック・スタジアムの敷地の中に入っていく。
無数の犠牲者を生んだ内戦で、サラエボ市内には墓地が足りなくなった。そこで、オリンピック・スタジアムのサブトラックが、墓地として転用されることになったのだという。
ふるさとが戦火に包まれた。そして、妻のアシマさんが、その中に取り残されていた。
それでもオシムさんは、任されたユーゴスラビア代表監督の仕事を全うしようと、サラエボに戻らずベオグラードにとどまった。
ピッチ上に民族の対立はない―。さまざまな圧力にも屈せず、公平な選手起用を続けた。
しかし、国家が分裂する中で、サッカーの代表チームだけを「ユーゴ」として束ねておくのは、いかにオシムさんでもできなかった。
そして何より、サラエボと家族をそのままにはしておけない。
92年5月。兼任したパルチザン・ベオグラードでカップ戦優勝を果たした試合後、オシムさんは代表とパルチザンの監督を辞すると発表した。
選手たちとの最後の食事の席。後にレアルの得点源となるミヤトビッチらが、民族の垣根を越えて「残ってくれ!」と涙で懇願したという。
代表チーム自体も、優勝候補と目されていた同年の欧州選手権への出場が認められなくなった。オシムさんのつくった"世界最強"チームは、まぼろしと消えた。
それでも、戦火の中で最後までプロの仕事を貫いたオシムさんには、世界中から敬意が寄せられることになった。
「本当に、すごい方です」
スタジアムを訪れ、戦禍のあとをたどる中で、阿部はそれを再確認することができた。

午後2時、サラエボ市内のホテル。
予定の刻限は30分ほど過ぎていた。気温は氷点下1度。しかし阿部は、通り沿いで待ち続けていた。
行き先を間違っていたタクシーが、ようやく車寄せに滑り込んできた。「あれか!あれだよね!」。声が思わず上ずった。




大きな身体を丸めるようにして、"待ち人"が助手席から出てきた。
元日本代表監督、イビチャ・オシムさんは76歳になっていた。しかし"オシム節"は、在任当時と変わらなかった。
「ようやく来たか。若返ったように見えるが、ちゃんとアタマの中身は使っているのか?」
そう言って、にやりと笑う。阿部は思わず破顔した。興奮気味に、同行スタッフに顔を寄せる。
「元気じゃん!変わらないじゃん!」


アジアチャンピオンおめでとう。しかし、クラブW杯はどうだったか…(笑い)

開催国枠のアルジャジーラに負けました(苦笑い)

出ていたのはレアルに、グレミオに、パチューカか。もっとそこでたくさん試合ができれば、勉強になっただろうなあ。で、家族は元気か?

はい!元気です。長男はもう10歳になりました。

そうか、それはよかった。まあ、お前が子どもみたいだけどな。子どもと一緒になって遊んでいるんだろう。



子どもが3人いるみたいだと、奥さんからよく言われます。

選手はみんな元気か?ケンゴはどうしてる?相変わらず体重20キロくらいか?

細いと言っても、さすがにそんなことはないでしょう(笑い)。でも、変わってないかな、あの人は。

君ももう少し足が速ければ、本当にいい選手だった。スーパープレーヤーだった。

オレ、足速くないからなあ。そこだけはどうにも…(苦笑い)

その代わり、戦闘能力があったから、いい選手になった。千葉では数年かけて、少しずついいプレーをする選手が増えた。

一番鮮明に覚えているゴールって、ありますか?

阿部のゴールです、と言えばいいのか?

いやいやいや(苦笑い)

就任したシーズンの開幕戦、東京ヴェルディが相手だったが、終了間際に坂本が間違ったような正確なクロスを入れて、チェ・ヨンスが決めて勝った。ベストゴールとは言えないが、あれから全てが始まった。そこからのゴールは、全部覚えているぞ!もちろん、君のゴールもだ。

他の人のゴールは僕も覚えているんですけど、自分のゴールはそんなに覚えていないかも…

早く思い出せ!教えておくが、こういう対談では、ちゃんと思い出話をしなければならないものなんだ!



かたわらで、付き添いのアシマ夫人が目を細める。
「相変わらず、先生と生徒みたいね。阿部くんが監督になるまで続くのかしら」。
それに合わせたかのように、オシム監督が"本題"に入った。
「それで、君はいつ、監督になるんだ」

阿部は思わず、居住まいを正した。8年ぶりの再会。だがオシムさんは旧交を温めるだけの席にするつもりはなかった。
後編へ続く―。

後編は次週1/25(木)公開予定です。乞うご期待!
(取材協力、千田善 取材・文、塩畑大輔 撮影、松本洸)
詳細はスマートフォンから
苦笑いをしてみせようとして、うまくいかなかった。こらえながら、何とか絞り出す。
「悔しいです」
自らの言葉でせきを切ったように、涙が頬を伝った。
インタビュアーに肩をたたかれ、労をねぎらわれると、ついに嗚咽(おえつ)が止まらなくなる。しゃがみこみ、顔をタオルで覆う。
肩幅の広い背中が、いつまでも小刻みに震えていた。

プロゴルファー松山英樹は16-17年シーズン、世界最高峰の米ツアーで3勝を挙げた。世界ランクは一時、日本勢史上最高の2位まで上がった。そして海外メジャー最終戦、全米プロでは最終日の後半10番まで首位を走った。
誰もが日本勢初のメジャー制覇を予感した。しかし、そこから逆転を許し、終わってみれば5位。夢はついえた。
それにしても、人目もはばからず涙を流す姿は、松山には似つかわしくなかった。良くても、悪くても、いつも淡々とプレーを振り返る男に、いったい何が起きたのか。

自分がこうだと思う1打が打てなかった──
──昨季は優勝3回、世界ランクは一時2位まで上がった
そうですね。でも、まあ、今までどおりのシーズンだったんじゃないかなと思います。いい時期もあったけど、悪い時期も長かった。出場した試合、全部トップ10なら、勝たなくてもいいシーズンとなるかもしれない。だから、勝った数だけで一概には言えないですよね。
──全米プロではメジャー制覇にも迫ったが
勝てませんでしたからね。勝てる流れを引き寄せるのも自分だと思う。流れを持ってくる1打、自分がこうだと思う1打が打てなかった。(優勝した)ジャスティン・トーマスにはそれがあった。
全米プロ、最終日10番パー5。首位だった松山と同組のトーマスは、第1打を左に大きく曲げた。OBなら、優勝争いから脱落。しかしボールは木に当たり、フェアウエー中央に戻ってきた。
そして、トーマスの第4打パット。カップ左ふちに止まり、バーディーならずと思われたが、12秒後にポトリとカップ内に落ちた。
次の11番パー4から、松山は3連続ボギー。トーマスに逆転を許した。
──流れを左右した一打、挙げるとすれば
11番のセカンド。間違いないです。

重圧の中で打つための、何かが足りなかった──
第1打までは、不安のかけらも感じさせなかった。ドライバーはフェアウエー中央、312ヤードを稼いだ。残り151ヤード、絶好の位置からの第2打。しかし、9番アイアンのショットは、グリーンの右に大きく外れた。
──そのショットを振り返ると
普通に打てば、チャンスにつけられるはずだった。それをなぜか難しく考え過ぎちゃって、考えが決まらないうちに打ってしまった。それが悔しかった。そうですね、それが一番。
──具体的に、何が迷いにつながったのか
きっと自信がなかったんです。なんてことない距離、なんてことないシチュエーションだと思って打てる自信。プレッシャーの中で打つための、何かが足りなかった。振り返ってみると、それが「自信」だと思う。
──あの試合だけの問題ではない、ということか
今年勝てているから、とかいう次元の問題でもないと思うんです。大事なものは、ゴルフをやっていく中で、積み重なっていく。あのシチュエーションで打てなかったのが、今の実力なんです。普通に考えれば、なんてことないショット。でも、なんてことなく打てなかった。それが本当に悔しかったんです。
今日の負けは、勝負のあやではない。このままでは勝てない。自らそう悟った。ふがいなかった。だからこそ、松山は涙に暮れたのだ。

トランプ大統領、安倍首相とのゴルフ──
メジャー制覇こそならなかった。しかし、プロアスリート日本勢の中で、最も世界の頂点が近い存在であることに、変わりはない。
知名度はゴルフ界にとどまらない。11月。米国のトランプ大統領の求めで、埼玉・霞ヶ関CCでラウンドをともにした。安倍首相と3人のゴルフは、世界中で広く報じられた。
──大統領とのゴルフについて
あそこに呼ばれて断れる人はいないと思う。自分に限らず、今後そんな機会があるかどうか。そして今の段階では、自分にしかオファーはなかった。それはすごく光栄。次がいつかはわからないけど、ああいう場に呼ばれる自分であり続けたい。
──なかなかない経験から得たものは
2人とも発言力がすごい。もちろん、内容は言えませんけど、お互いが思っていることをちゃんと伝えていると感じた。コミュニケーション面もそうですけど、自信をもって、うまく言葉にまとめられれば、日本のゴルフをいろんな人に伝えられるのかな、と思いました。
日本のゴルフの魅力を広く伝える。
世界の頂点を目指して戦いながらも、松山は常に意識してきた。だからこそ、大統領と首相から学んだことも、自然とそこにつなげる。

ネットやSNSの力を使えば、ファンは増やせる──
──日本のゴルフをこう伝えていけば、というアイデアは
米ツアーのプロモーションの仕方を見ていると、日本もネットやSNSをうまく使って、盛り上げていけたらいいのかなと。もちろん、日本ならではの難しさ、というのはありますけど。
──日本ならではの難しさ、とは
アスリートが普段の姿を出すと、批判をされがちですよね。米国でもSNSの記事に批判が集まることもある。でも、大半は「いいんじゃない」という意見。そこは日本とは違うかも。とはいえ、やっぱりネットやSNSの力を使えば、ファンは増やせる。日本に合った発信の仕方を見つけられたらいいな、と思います。

──自分に対するネット上の批判も見るのか
はい、見ますよ。ああ、そう思っているんだ、とか。そうじゃないのになあ、とか。面白い意見もたくさんありますよね。
──ネットがプレーにプラスになる部分はあるのか
ネットの速報ニュースを読むことで、ほぼリアルタイムで他の選手の意見を聞けるじゃないですか。それはすごくいい。同じ大会に出場する選手のコメントを読んで「あのホールはやっぱり難しいんだ」とか、考えを整理できるのはメリットです。そうじゃなくても、僕は本当にずっとネットのニュースを読んでますよ。それしか見てない、というくらいですね(笑い)

米ツアーでの戦いは、今年で6年目になる。
当初は海外メジャーの優勝争いの中で、スロープレーで罰打を取られたこともあった。2013年の全英オープン。微妙な判定と物議を醸した。「松山が米国人だったら取られないペナルティーでは」という声まで聞かれた。今後は周囲の選手やツアー関係者ともうまくやるべき、という意見も上がった。
だが、21歳の松山は首を振った。「強くなれば、ああいうの取られなくなりますから。タイガーだってそうでしょう。まずは強くなることだけを考えます」。そして本当に、その領域に達した。
──世界と戦う上で心掛けていることを、世界に活躍の場を求める同世代にシェアしてほしい
(しばし考え込んだ後に)自分が思っていることを曲げちゃいけない。でもそれにこだわりすぎて、変化できないのもよくない。変化する勇気も大事。変わらない勇気も大事。そのバランスだと思います。
──最後に、新年の抱負を
メジャーで勝ちたい。ただ、その気持ちだけではどうにもならない。実力を上げる。全米プロのように、なんてことないショットをミスするスイングではダメ。変えないと。今年がどうなるかは、そこ次第です。

若くして「変わらない勇気」はあった。そして25歳の松山は、そこに「変化する勇気」を加えて、世界の頂点に手をかける。
今度こそ、自信のショットを打ってみせる。

松山英樹選手
1992年生まれ。2011年、19歳でマスターズに出場。27位で日本勢史上初の最優秀アマチュアに。13年にプロ転向。国内ツアーで4勝し賞金王に。同年秋から米ツアーに進出。14年、メモリアル・トーナメントで米ツアー初優勝。国内通算8勝、米通算5勝。181センチ、90キロ。
(取材・文 塩畑大輔 写真・松本洸)
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国内外のサッカー選手が、「真の天才」と口をそろえる。札幌MF小野伸二。欧州で活躍する日本人選手が増えた今も、中村俊輔らが「史上最もうまいのは彼」と言ってはばからない。
そんな小野が過去の度重なるケガや、オランダなど海外挑戦の日々、2度のW杯などを語ってくれた。

正直、試合に出たいというのはある ─
── 札幌が1部残留を果たした。出場機会は少なくとも、同僚や他クラブの旧知の選手は「やっぱり伸二さんのいるチームはうまくいく」と口をそろえる
正直、試合に出たいというのはある。でも経験上「出てないからいいや」という選手がひとりでもいたら、チームはうまくいかない。そこには気をつかう。出た選手もそうじゃない選手も、勝ったときに同じような気持ちで喜べる。そういうチームでありたい。いつも、どこでも、そう思う。
── そういう考え方は「天才肌」のイメージとギャップがある
昔から、周りが幸せそうにしているのを見ているのが幸せ。それに、僕はたくさんケガもしてきました。サッカーの神様がいろんな試練を与えてくれたんじゃないかなと思っている。その中で、たくさんの人に支えられてきたし、いろいろ経験もさせてもらった。その中で感じたことは、伝えていきたいと思っている。


ケガで"イメージ"を失った─
「手術はライフワーク」。そう笑うほど、ケガを繰り返してきた。特に「日本サッカー界最大の損失」とファンが悔やむのは、99年のシドニー五輪予選、フィリピン戦で負った大ケガだ。悪質な"かにバサミタックル"で、左ひざのじん帯がちぎれた。
── フィリピン戦で負ったケガについて
それまで、大きなケガをしたことがなかったんです。だから正直、事態の重大さが分からなかった。まあ、大丈夫だろうと。そうしたら、次の日手術だった。つらかったです。人生の中で、ボールを蹴れなくなることは一度もなかったので。でも、失ったものの本当の大きさに気付いたのは、ピッチに戻った後でした。
── 「失ったもの」とは
イメージ、です。いろいろな意味で。それまではプレーしながら、ピッチの全体像が常に頭の中にあった。誰がどこを走るだろうとかいう予測も含めて、すべてが的確だった。それがなくなった。なんなんですかね。自由に身体が動く中で、自然と身についた感覚だからかな。


── "失ったまま"プレーを続ける心境
ケガをする前の境地を求めすぎて、つらくなっていました。それまでは練習をしている時から、試合で複数のDFが寄せてくるイメージを持ちながらできていた。それがなくなったから、毎日淡々とメニューをこなすようになった。
「ああ、今日も練習のための練習になってしまった」。そうやって、毎日後悔していました。そして、自分を追い詰めては、またケガをする。その繰り返しでした。


それでも、小野は並外れた技術の高さで、世界からの評価を高めていった。01年、オランダのフェイエノールトに請われ、欧州移籍を果たした。
── 初の海外でのプレーは
当時のオランダリーグは、ドイツなんかよりもレベルが高かった。ドルトムントからもオファーがあったけど、こっちの方が格上だなと普通に思った。そういうところでやっていたので、とにかく試合に出るために必死だった。
そうやって、移籍して4、5試合目から先発に定着して、1年目からUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)でも優勝できた。気が付いたら、失った感覚について思うこともなくなった。またサッカーの面白さに気付くことができた。
── ファン・ペルシーなどは、いまだに「最高のパサーは当時の小野」と言う
純粋にうれしいですよね。技術のことを言われるのもそうですけど、生まれた場所が違っても、ファミリーのように心を通い合わせることができたというのがうれしいんです。

自分が入って流れが変わったのはショックだった─
日本代表でも、02年のW杯で決勝トーナメント進出に導いた。しかし06年ドイツW杯で、小野は苦杯をなめた。初戦のオーストラリア戦で1点リードの後半に途中出場したが、意図がはっきりしない投入で、周囲が混乱。逆転負けを喫した。大会後には「戦犯」とレッテルを貼るメディアまであった。
── 06年は損な役回りだった
自分が入って流れが変わって負けてしまった。ショックでした。思えば02年はゴンさん(中山雅史)、秋田さん、森岡さんたち先輩選手がチームを常に明るくしてくれていた。06年は戦力的にはさらによかったかもしれないけど、何かが違った。
── 「違ったもの」とは
何が違うというのは、難しいんですけど……。例えばヒデさん(中田英寿)の引退を、僕らも後で知りましたけど、前もって分かっていたら皆がひとつになれていたかも。チームというのは本当に難しい。あらためて思いました。

06年には浦和に復帰。同年のリーグ、天皇杯優勝、翌年のアジアチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。ドイツのボーフムでも活躍し、清水もリーグで優勝争い、天皇杯でも決勝に導いた。
オーストラリアのウェスタン・シドニー・ワンダラーズをも、リーグ参入初年度で優勝させた。旧知の選手たちの言葉通り、どこに行ってもチームを強くする。しかし小野は、あえて移籍を繰り返した。
── なぜ同じクラブに安住しなかったのか
なんなんですかね。一度海外に行った選手は、その刺激が忘れられないのかもしれません。もともと、同じ街に住んでいる間にも、つい引っ越しを繰り返してしまうタイプだったりもしますしね。サッカーはなおさら。新鮮な気持ちでやれる環境を求めてしまう。
── それでも札幌では長くプレーを続ける。来季で5年目。続けての在籍期間としては最長だったフェイエノールト当時に並ぶ
それは社長、GMがこのクラブをこうしていきたいというビジョンが、自分に刺激になっているからかもしれないですね。「自分がサッカー界のために、こういうことをしたい」ということに一致するんです。北海道から、日本のサッカーを盛り上げるクラブをつくりたい。そのためには、1部にいるのを当たり前にしないと。
今年は残留できましたけど、これで満足してはいけない。落ちて、上がって、残留を目指すというスパイラルから抜けないと。サッカーも、クラブも、もうひとつ上のレベルにいかないといけない。

── 札幌では娘さんも活躍されている
(次女・里桜さんは劇団四季「ライオンキング」の札幌公演にヤングナラ役で出演)
最初は東京でミュージカルに参加させてもらっていて、それを見て僕も「これは一番あってるんじゃないか」と思いました。そういう大事なものを、自分で見つけ出したことが、親としてすごくうれしかった。
札幌の劇団四季のオーディションに受かったので、単身赴任だった僕と一緒に住むことになりました。こっちでは僕が食事をつくっています。レシピ動画なんかを見ながら。便利ですよね、あれ(笑)。
── ケガ続きの運命を呪いたくなることは
そりゃ、フィリピン戦の自分に助言できるなら「お前、集中しろよ」と言いたいですよ。気を抜くなと(笑)。でも結局、ここまでサッカーできている。そこですね。いろんな人が支えてくれている。変わらずサッカー好きだし。
まだまだ僕の中には、もっともっとやりたいという気持ちがある。そういう意味で、あのケガがなければ、今の自分もない。チャレンジできるなら海外でも。この年齢で海外はなかなかないけど、松井大輔も行きましたよね。チャンスがあれば。

── プレーの中で一番大事にしていることは
相手が受けやすいパスを出すこと。そこに尽きます。パスを受ける人が、そこからスムーズに次のプレーに入れるように、無駄な動きはさせたくない。気持ちよくプレーしてほしい。それをいつも考えています。周りがいて、自分がいる。それが自分の考え方です。

相手の足元に吸い付くような、滑らかなスルーパスは「ベルベットパス」と評されていた。それは技術の高さだけが生んだものではなかった。いつも、みんなのために―。そんな天才らしからぬ考え方が、周囲を輝かせる。
だから小野と関わった選手、スタッフは、皆こう言う。「伸二は太陽のような選手」と。

小野伸二選手
1979年生まれ、38歳。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属。 浦和レッドダイヤモンズから、フェイエノールト・ロッテルダム、VfLボーフム、清水エスパルス、ウェスタン・シドニー・ワンダラーズを経てコンサドーレへ。W杯には3大会連続出場。
(写真・松本洸、取材・塩畑大輔、構成・LINE NEWS編集部)
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声にならない叫びを上げ、彼女は跳ね起きる。
また、いつもの夢だった。
カンテを蹴って、宙に飛び出す。向かい風が浮力となり、重力から解き放たれる。
ジャンパーにとって、何度味わっても変わらない、至福の瞬間。しかし、なぜか今回は違う。思うように身体が浮かない。
焦りが鎌首をもたげる。
だが、そこは冬空の女王たる彼女だ。すぐに冷静になる。身体のバランスを微調整し、浮力をよみがえらせようと試みる。
浮かない。
なぜだ。今度こそ、本当に冷静さを失う。雪面が眼前に迫ってくる。いやだ。まだ、飛んでいたい。落ちたくない。
身体が風を切る音で、本来は聞こえないはずの観客のため息。それがはっきりと聞こえる気がした。
「ランディングバーンに吸い込まれるんです。テイクオフしたら、着地の寸前までずっと浮力を受けて飛び続けられるはずなのに。もがいても、身体がまったく動かない」
暗闇の中、見開かれた瞳に、涙がにじむ。
時間を確認する。眠りに落ちてから、さして時は過ぎていない。
「本当に、まともに眠れませんでした。いつも、その瞬間を夢に見て、眠れなくなった」
小さな身体をさいなむ、残酷すぎる記憶。
2014年、冬季五輪ソチ大会。スキージャンプの高梨沙羅は、失速し、地へと落ちた。
"普段の延長"で五輪に行きたいと考えていた──
「それまでは、五輪も普段の試合と一緒だと思っていました」
聞き手をまっすぐ見つめて、高梨は振り返りだした。
「試合としてやりきるのは一緒。いつもと同じ、目の前の一戦だと思って、普段の延長という感じで五輪に行きたいと考えていた」
そうすれば勝てると思った。それは世間も一緒だった。
14歳。大倉山で141メートルを飛んだ。
15歳。日本人女子選手初のW杯勝利。
16歳。男女通じ史上最年少のW杯年間王者。
17歳。五輪までのW杯13戦で10勝。
天才少女は、"大本命"としてソチに入った。
欧州のブックメーカーはこぞって、高梨に1.5倍を切るような低オッズをつける。日本勢の中では、すべての競技の中で最も金メダルに近い選手。衆目は一致していた。
しかし、ソチの気まぐれな風が、彼女に味方しなかった。あらゆる競技でアスリートにプラスに働く「追い風」は、スキージャンプにおいては大敵になる。落下する選手を、着地面側から押し上げるように作用する「向かい風」を受けてこそ、距離は伸びる。
ソチ五輪、ノーマルヒル女子。
高梨は2本とも、強い追い風という不利を受けた。まさかの4位。周囲のメダル候補が向かい風で距離を伸ばす中、不運としかいいようがなかった。
試合後のインタビュー。高梨はにわかに現実を悟れないのか、取り乱した様子を見せることすらできなかった。ぼうぜんとしたまま、期待に応えられなかったことを、ただただわびる。幼さが残る頬に、静かに涙が伝った。
「日本に帰ってきてよいのか、とすら思いました」
ただ時がたつだけでは、心の傷は癒えなかった。
「それくらい、ダメージはありました。女子ジャンプは、ソチで初めて正式種目になりました。先輩たちが道を切り開いてくださった。そこに私が出させていただいたにもかかわらず、結果が出せなかった」
ソチの"ヒロイン"として、日本国内から寄せられる大きな期待も、ひしひしと感じていた。
「それは本当にありがたかったです。後々、記事とか番組とかを見返して、日本の夜中にもかかわらず、本当に多くの皆さんがテレビで応援してくださっていたんだなと思いました」
ファンの「声」に救われた──
帰国後。日本にはいまだ、国民の期待と失望が、余韻のように残っていた。
高梨はひたすら自分を責め続けた。少しまどろんだとしても、すぐに"あの夢"が追ってきて、少女を現実の世界に引き戻した。
そんな中、彼女を救ったのは、ファンの「声」だった。
「日本に帰ってきてから、本当にたくさんの方が手紙をくださりました。毎日、箱に山積みになるほど、いっぱい届いたんです。皆さん『よくがんばったね』『ありがとう』と。普段から全部読むのですが、あの時はいただいた一言、一言に、本当に救われました。何度も読み返して、もう一回がんばらなきゃいけないなと」
リップサービスではない。日本代表の山田いずみコーチも「ファンの皆さんからの手紙がなければ、彼女は立ち直れなかった」と証言する。
周囲は「ソチで高梨は不運だった」と言う。
だが、本人はそうは考えなかった。
「一発勝負で勝てるところに、自分を持っていけなかった。五輪の重圧の大きさは普通の試合とは別物でした。普段の試合と同じように臨む。そういう考え方がそもそも違ったなと」
それまでは、自分をベストの状態に持っていくことだけを考えていた。実力は飛び抜けている。大半の試合は、それで圧勝できた。
しかし「大半の試合に勝つ」だけでは、金メダルは取れない。特に女子は、正式競技はノーマルヒルのみ。五輪は文字通り一発勝負だ。
「自分のジャンプの部分、感覚のことばかり考えていました。でも、それだけでは一発勝負で勝つことはできない。もっと視野を広げないといけないと感じました」
たとえ不利な状況があっても、勝つ。そのためには「対応力」を高めることが必要。そういう結論に達した。
「置かれた状況でいかにベストを尽くせるか。置かれた状況をいかに自分のものにするか。どこの会場でも"ホーム"だと思えるような心の余裕を持ちたい。そう思いました」
五輪前までは、ただひたすらウオームアップに集中していた。そんな高梨が、試合前には会場のさまざまな場所をチェックするようになった。「観察」の始まりだった。
「まず、ジャンプ台をよく見るようにしました。実際に飛んでみるだけじゃなく、歩いて観察する。カンテにかけてのアプローチの曲線を、横から見てみる。他の選手が飛んでいるところも見る。カンテの状況は刻一刻と変わるので、それをしばらく見てみる。風の変わり方も、場所を変えながら感じてみます」
だいぶ時間をかけてから、ジャンプに入る。
「自分が飛ぶ時にはどうなるのかな。それにどう対応したらいいのかな。そうやって試合を想像して、イメージを鮮明にしてから、実際にジャンプをするようにしました」

日々の練習後。大会でのジャンプを振り返って。高梨は日誌をつけるようにしている。
「書き込む内容は長いときもあるし、端的なときもあります。えーっ、具体的にですか?擬音ばっかりで、きっと自分にしか分からないですよ」
観察してつくったイメージと、実際に飛んで得た感触。それらを文字とラフなスケッチで紙の上で再現する。
「カンテの手前の傾斜の変化をどう感じたのか。その後、どんな感じで足を使って、インパクトをカンテに与えたか。ジャンプ台によって、カンテへの適切な力の伝え方は違います。『ギュン』のときもあるし、『ギュウウウン』のときもある」
他人には分からない擬音やラフスケッチも、ジャンプ当時を思い出す"きっかけ"としては十分だ。
「その時の感覚をよみがえらせたいとか、そのジャンプ台がどうだったかを確認したいとか、日付を確認してその日の日誌を読み返します。失敗したときも、同じ失敗をした日の日誌を見返す。当時はどう反省していたのかも踏まえて、失敗ジャンプを振り返るんです」
ジャンプ台の特徴や、刻々と変わる風に、いかに対処しようと試みたのか。それを克明に記し、後に省みることは、「対応力」を高めるイメージトレーニングでもある。
8割の出来でも勝てないといけない──
ふと思い立ち、足の裏のマッサージを始めるようにもなった。
「足の裏の感覚を研ぎ澄まさなければならない。そう思ったんです」
大きなブーツを履いても、雪面の感触は足の裏に伝わってくる。
「刺激を強くしたり、弱くしたりして、ベストな硬さにします。試合の時、1本目と2本目の間にもやります。鈍感になってしまうくらいダメージを与えてはいけないので、ほどよく」
足裏の感覚を鋭敏にすれば、スタートゲートからカンテまでの状況を読み取ることができる。
「ソチのときも、自分の足の裏の感覚がしっかりしていて、瞬時に判断できていれば、ジャンプが狂いだすこともなかったと思います」
宙に飛び出す直前まで、考えを巡らせ続ける。状況の変化を瞬時に判断し、対応する。
「できることは、何でもしたいと思うんです。一発勝負で勝つためには、8割の出来でも勝てないといけない。置かれた状況の中でベストを尽せるように、この4年間突き詰めてやってきたつもりです」
そう言って、小さくうなずく。
「自分のジャンプができれば勝てる」から、「どんな状況であれ、勝つ」へ。高梨は、変わらなければならないと思っていた。
五輪の会場で得た「自信」──
すべては平昌五輪で、ソチの悔しさを晴らすため。その平昌で、対応力を試す機会がやってきた。
今年2月。平昌でのW杯2連戦。
高梨はくしくも、男女通してのW杯歴代最多勝53勝に王手をかけ、1年後の五輪の舞台に乗り込んだ。
初日。1本目でトップに立ったが、2本目で強い追い風を受けて失速。
伊藤有希に逆転を許し、2位に終わった。
状況的な不利もあったが、助走スピードが遅く、踏み切りのタイミングもずれていた。
記録達成の重圧なのか―。そんな見方もあった。しかし、高梨は違うことを考えていた。
「しっかり自分を客観視して、理想のジャンプに近づけるためにはどうすればいいか。そこだけを考えていました」
もう一度「観察」をしてみることにした。
ジャンプ台の形状を思い出しながら、念入りに失敗ジャンプの動画を見返す。かつては試合に集中しようと思うあまり、周囲を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたが、この時は積極的に意見も交換した。
「コーチやスタッフとつくったLINEのグループトークに、動画を投稿するんです。そうすると、動画を見たみんなが意見を投げかけてくれる。世界中どこにいても、たとえ一人でいたとしても、作戦会議がすぐに始められるんです」
それらを踏まえ、決断した。助走路にあわせ、スキー板を変えた。
2日目。試技ではまだ、助走スピードは周囲に劣っていた。新しい板。すぐには感触はつかめない。

それでも、本番となる1本目には、スピードは上位選手と遜色ないレベルまで戻っていた。ソチ以来、培ってきた対応力が発揮されだした。
「試合日のジャンプは試技、1本目、2本目とあります。それらの間の短い時間で分析して、次につなげられるようになってきました」
1本目で2位につけると、2本目は向かい風が直前の選手たちより弱まる不利の中、97メートルまで距離を伸ばした。逆転で、W杯歴代最多タイの53勝目を挙げた。
1本目首位の選手も、2本目で横風に大きく流された。そんな難しい状況の中で、最善のジャンプをしたからこその勝利だった。
「踏み切りのタイミングの狂いも、最後はきちんと修正できました。平昌の風をしっかり感じて飛ぶことができた」
強さをみせつけて勝つ一方で、もろさもあった高梨の戦いぶりは、着実に変わりつつある。
「それが五輪の舞台になる平昌でできた。しかもあそこは風がかなり強く、ころころ変わる難しい会場です。自分にとっては自信になる1勝でした」
よく言われます、顔が怖いと(笑い)──
11月5日、NHK杯ジャンプ大会。
札幌・大倉山ジャンプ競技場のプレスルームへ急ぐ記者のうち、何人かが階段の手前でけげんな顔をして、一瞬立ち止まった。
小柄な女子選手が、階段の踊り場の隅にマットを敷き、ストレッチをしている。
よく見ると、高梨だった。
試合に向けて、集中力を高めている。何かをにらみつけるような形相。普段見せる柔和な表情と、あまりに違うため、記者であっても即座に本人とは分からなかったのだ。
テレビの中継映像では、見ることのできない表情。試合のスタート位置で、ゴーグルの奥に隠されているのは、鬼の形相なのだろう。
「よく言われます、顔が怖いと(笑い)。普段の顔とは違いますよね。試合が迫ってくると、周りが見えなくなって、自分の世界に入り込んでしまう癖があります。競技中は周りの方に気をつかわせてしまって、申し訳ないです」
それでも、今までの高梨とは違っていた。記者を見かけるたび「お疲れさまです。今日もよろしくお願いいたします」と言っていた。
「試合のことを考えつつも、周りのみなさんを気づかえるくらいでないと、気持ちの余裕は生まれないと思うんです」
瞬時には表情を変えられない。にらみつけるような視線が残ったまま、それでも丁寧にあいさつする。そのギャップが何ともほほ笑ましかったが、本人は真剣だった。
「五輪では予期できないようなアクシデントがあったりもします。そういうことにも対応できる心の余裕をつくっていきたいんです」
五輪に次ぐ大舞台、今年2月の世界選手権では銅メダルに終わった。
一発勝負に勝てる自分になる。変革の道のりはまだ半ばだ。
「今でもソチの夢を見ます。でも今は、それを悪いこととしては捉えてはいません。自分にくぎをさすための大事な記憶です。失敗から学ぶことは多い。失敗はしたくないけど、してしまったらもう仕方がない。そこから学んで、次にどうつなげるか、だと思うんです」
一身に背負った国民の期待に、応えられなかった。
ソチでの失速は、17歳の少女にとって、あまりにも過酷な運命だった。
それでも、高梨は折れなかった。淡々と宿命と向き合う。自分を変える。高め続ける。
つらい記憶すら糧にして、今度こそ金メダルを手にする。
(取材、文・塩畑大輔 撮影・松本洸)
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10月14日、クライマックスシリーズのファーストステージ、楽天戦。埼玉西武ライオンズのエース菊池雄星は、最後の打者・島内をサードライナーに打ち取ると、握りしめたグラブを天に突き上げた。
121球での完封勝利。味方が10点を援護しても、最後まで腕の振りは緩まなかった。
最多勝、最優秀防御率の投手2冠にふさわしい、圧巻と言っていい投球。歓呼の声に、晴れやかな笑顔で応える。しかし、ベンチ裏まで引き揚げてくると、菊池はポツリとこぼした。
「悪くはなかった。でも、納得できるボールはありませんでした。1球もなかった」
試合初球でのボーク判定──
大事なフォームを、シーズン半ばで見失っていた。
8月24日、ソフトバンク戦。1回裏、先頭打者川島への初球。投げた瞬間、球審が腰を浮かせた。そしてマウンド上の菊池を指さす。判定はボーク。
会場はどよめいた。しかし、菊池本人に驚きはなかった。
1週間前。17日の楽天戦で、菊池は2回に2球連続でボークを取られていた。「投球動作が途中でいったん止まっている」との指摘だった。つまり、日本のプロ野球では2006年から禁じられている「2段モーション」にあたるということだ。
審判の立場を尊重し、判定は受け入れた。しかし、これは1プレーで完結する類いの問題ではない。
具体的にどの部分が「2段モーション」にあたるのか。菊池は辻監督とともに、すぐに審判団に確認した。しかし、その場でははっきりした答えは得られなかった。
ふに落ちなかった。しかし、時は待ってくれない。次の登板機会に備え、菊池は土肥投手コーチとともに、フォームの矯正に取り組んだ。
「問題点がはっきりしないので、おそらくこういうことだろうという感じで、さぐりさぐりでフォームを直すしかなかった。はっきり言って、ぐっちゃぐちゃでした」
その結果が、1週間後のソフトバンク戦、試合初球でのボーク判定だった。
菊池はやむなく「クイックモーション」に切り替え、投球を続けた。しかし、球威は落ちる。何より、動揺していた。
川島をストレートの四球で出塁させると、そのまま初回3失点。2回にも4点を奪われ、計7失点で降板した。
打たれたこともショックだった。だがそれ以上に、大事なフォームを取り上げられたことで、途方に暮れていた。
「土肥さんと2人で3年間、一緒につくりあげてきて、ようやく固まったフォームでした。投球動作中に上体が前に突っ込むクセがあるので、足を上下動させることで、左の股関節に体重をしっかりと乗せられるようにしました。それで、球威も制球も格段に良くなった」
左の股関節に乗る意識を、春先よりも強めているのは確かだった。しかし基本的には、春のキャンプ当時と同じ方向性のフォームで投げているつもりでいた。キャンプ地を訪れた審判団に見てもらい、お墨付きを得たフォームだ。
それが、ここに来て「ボーク」と判定された。思わず、周囲にこぼした。
「いったい、どうしたらいいんでしょう…」
「帰っても毎日黙り込んだ」──
09年のドラフト会議では、6球団が1位指名で競合。鳴り物入りで西武に入団した。しかし、プロ入り以来制球が定まらず、球威も上がらなかった。
そんな菊池が、理想のフォームを得て変わった。今季は開幕から1点台の防御率を守り続け、8月3日楽天戦では、日本人左腕最速記録となる毎時158キロもマーク。140キロ台中盤に達する高速スライダーもあいまって、他球団の打者を圧倒し続けた。
「よし、ここからというところでした。足の上下動が問題だと指摘されたので、左の股関節に乗る『間』がとれなくなった」
シーズンも終盤戦。4年ぶりのクライマックスシリーズ進出へ向け、エースには大きな期待が寄せられていた。そんな大事な局面で、あろうことか「投げ方」が分からなくなった。
「あの時期は、うちに帰っても、毎日黙り込んじゃっていました。妻には本当に気を遣わせたと思います。ただ、『どうしたらいいかな』って言える相手がいるだけで、本当に救われました。妻がいたから、辛うじて気持ちが折れずにいられた」
絶対に2軍に落ちないと決めた──
野球評論家からは「他にも同様のフォームの投手がいる」「基準が不明確」と問題提起する声が上がった。2段モーションを禁じるルール自体を「国際基準とは違う」と疑問視する意見もあった。
一方で、いくつかのメディアには、審判団の"証言"とされるコメントが掲載されていた。
「菊池には5月から、何度も2段モーションだと指摘していた」
これは事実とは違うという。後日、球団や菊池からの指摘で、審判団もきちんと認めている。
しかし、世間の人々はそうとは知らずにニュースを読む。「度重なる注意に聞く耳を持たず、ついにはボークを取られた」。そんな見方が世に広がり、一部では"事実"として受け入れられてしまう。
重い足取りで向かった球場。土肥コーチがある提案をしてきた。
「一度、2軍に落ちて、調整してもいいぞ」
信頼する恩師の言葉に、菊池は少しだけ、気持ちが揺らいだ。
「固まっていないフォームで投げ続けて、ケガをするのだけはもったいない、ということでした。確かに、理想とは違うフォームで投げるこのボールでは、勝てないかもしれない。一瞬、そう思いました」
しかし、次の瞬間には、気持ちが固まった。
「その時に、絶対に2軍に落ちないと決めました。土肥さんの親心をありがたく思う一方で、それではきっと負けた気になるなと。次の試合までの1週間で、なんとかすると決めました」
自宅に戻った菊池は、本棚からノートを取り出した。
「悩んだ時は、いつも昔を振り返るようにしています。プロに入ってからの8年間、ケガもあったし、フォームで悩んだり、人間関係で悩んだりもしてきました。それらを忘れないように、常に日記やメモにして、後で見返すんです」
ところどころ擦り切れた冊子には、表に「2010年」と書いてある。
「その時は、プロ1年目のメモを見ました。当時は、もう野球できなくなるんじゃないのかと思っていました。注目されてプロ入りしたのに、左肩をケガしてしまった。それに加えて、指導者の方とうまくいかないということも重なりました」
プロ1年目の事件──
まだ10代の菊池は、"2軍のコーチによるパワハラ疑い"という問題に巻き込まれていた。当初、このコーチは責任を認めて謝罪し、謹慎処分も受け入れていたが、後に主張を翻した。
謹慎の後の解雇は不当だと、球団に対する訴訟を起こした。パワハラを受けた側として出廷を求められた菊池は、都心の法律事務所に通わざるを得ないことになった。
西武鉄道などに乗って、片道1時間。裁判に備え、専門家からアドバイスを受けるためだった。
「ボールを投げられない上に、グラウンドにいる時間と同じくらい、法律事務所にいる時間が長かった。いったい、何をしに岩手から出てきたのか…。そう思い悩んでいました」
裁判になったとたん「菊池は夜遊びがひどい」「もともと素行に問題があった」「コーチに何か言われると反抗していた」など、事実とは異なる報道が続くようにもなった。
「もう、誰も信じられない。あのころは、そう思うことすらありました」
8年前は、ひどいもんだったな─。ノートをめくりながら、菊池はそう思った。
「田舎から出てきたばかりということもあって、高校の監督や同級生以外には、相談できる相手もいませんでした。だから、本を読んでなんとかしようとしていました。当時のノートには、本から見つけ出した救いの言葉みたいなものも、いっぱい書かれています。でもほとんどは『つらい』とか『苦しい』とかいった言葉ばかりでした」
当時の痛々しい文章を読んでいるうちに、ふと思った。
「あんなに苦しかった当時に比べれば、2段モーションの問題なんて、あくまで野球をやれている上での悩み。そう思うことができました」
胸のつかえが下りたような気がした。心が軽くなった。
「一度、絶望を味わった野球人生。そこから思えば、やれるだけでも丸もうけ。勝っても負けても、マウンドに立ってボールを投げられるだけで、すごくありがたいことなんですよね」
2段モーション問題があったからこそ──
8月31日楽天戦。菊池は楽天の先頭打者オコエに、この試合の初球をバックスクリーンに放り込まれた。やはり、今季はもうダメか─。そんな空気も漂ったが、この日の菊池は違った。
「いろいろ試して、結局去年までのフォームに戻しました。納得いく球は1球もなかった。でも、割り切って腕を振りました。とにかく、投げられるだけで丸もうけ、なんですから」
9回を被安打5、失点2で乗り切り、完投勝利。9月には3試合に先発し、計23イニングを自責点0で乗り切ってみせた。
「『2段にしていたから勝っていた』とか絶対言わせたくなかった。調子はよくない。でも、負けたくない。そこは意地です」
「丸もうけ」と気持ちに整理をつけてからの防御率は、脅威の「0.23」。クライマックスシリーズ進出の原動力となった。
「宝物のようなフォームを失うのはつらかった。でも、2段モーション問題があったからこそ、野球をできるありがたみを再確認できました。野球ができているんだから、その上での悩みや勝ち負けは、どうしようもないこと。とにかく『味わう』だけだなと」
初の大舞台を前に、菊池はそんな境地に達していた。
10月14日、楽天戦。
菊池はクライマックスシリーズ初登板を、見事な完封で飾った。
最優秀投手賞にあたる「沢村賞」こそ、巨人の菅野に譲った。それでも、ダルビッシュがTwitterで「2人とも沢村賞でよかった」との旨をつづるなど、シーズン通しての活躍は各方面から高く評価された。しかし菊池は、今季を振り返るより先に、こんなことを言った。
「あの子たち、今のオレをみて、どう思っているのかなぁ」
昨オフ、東北各地で主催した野球教室で、菊池は子どもたちに「まっすぐ立ってから投げるんだよ」という話をしていた。
軸足の股関節にしっかり乗ってから投げなさい、という指導だった。
「そういうフォームも、ルールに沿ったものだと理解していましたから。でもシーズンに入ったら、その理解ではボークを取られた。だから、あの子たちが今回の問題を知ってどうしているのか、すごく心配なんですよね」
個人的には、"問題"を肥やしにできた。しかし、自分だけが消化できればいいとは、なかなか思えない。戸惑っているのは、あの日の子どもたちだけではないだろう。
そんな記述はルールに一切ない──
「僕ら投手は、11月くらいから来年のフォームをつくっていく。だからいち早く、はっきりした指針を示してほしい。もちろん、ルールには従います。でもそれなら、上下動の許される範囲とかも、明確にしておいてほしいんです」
多くの評論家も指摘するように、菊池と同じように上げた足のひざを上下動させる投手は、他にもいる。なのになぜ、菊池だけがボークを取られるのか。
「審判のみなさんの答えは『同じ場所で上下動させるのはダメ』ということでした。他の投手はひざの位置が、わずかであっても横方向に動きながら上下動するからいいんだと」
動きが2段になること自体が問題ではないのだという。"2段モーション"という言葉からは、なかなか想起しにくい論点ではある。
「それがルールなら、それに沿って投球をします。ただ、明文化はした方がいいとは思う。同じ場所で上下動させるのはダメとか、そうじゃない上下動ならいいとか、そんな記述は現段階ではルールに一切ないんです」
ルールに「解釈」の余地を残していては、いずれ同じような問題は起きる。それで不利益を被るのは、選手だけではない。
最高のプレーを待ち望むファン。選手を見習って練習する子どもたち。野球を愛する多くの人々に納得してもらうためには、ルールを明文化した上で、それをきちんと世に知らしめた方がよいのは自明だ。
その意味で言えば、まだ"問題"は終わっていない。
恩返し、そしてアメリカ──
20日。シカゴ・リグレーフィールド。
ドジャースとカブスのナ・リーグ優勝決定戦の会場に、菊池はいた。
楽天とのクライマックスシリーズ、初戦を菊池で勝った西武だが、1勝2敗で敗退した。
「自分の後に投げる人も勝てる流れをつくるのがエース」。そう思って投げてきた。
だから、たとえ初戦で完封勝利を挙げても、なんの慰めにもならなかった。ただただ悔しかった。
それでも、ふさぎこんでいるわけにはいかない。一度きりの野球人生。走り続け、味わい続ける。
「すぐ飛べば、秋季練習が始まる前に戻って来られる」
菊池はアメリカに飛んだ。
たどり着いたシカゴでは、メジャーを代表する左腕、ドジャースのカーショウが好投していた。8月までの菊池と同じように、右ひざを上下動させるようにして左の股関節に体重を乗せ、ためたパワーで強い球を投じている。
あのマウンドに立ちたい、ではない。あのマウンドに立ったらどうするか。菊池はそんなことを考えながら、試合を見ていた。
「僕の夢は、いずれアメリカでプレーすることです。自分はまだまだ技術不足で、課題もある。でも、メジャーで活躍できる見込みがあるかどうかという話は、進路を選ぶ判断材料には入らない。行きたいのか。行きたくないのか。そこに尽きる。他にあるとすれば、球団や応援してくださるファンの方に、きちんと恩返しができているのかどうか。それだけですね」
時が許す限り、野球を楽しむ。2段モーション問題は、菊池にとっては「原点」に立ち返るきっかけにもなった。
「経験すればするほど、断言できることって、少なくなると思うんです。今回の問題だって、シーズン前には予想もしていなかったですから。何も知らない高校の時なんかは、分かった気になって『野球ってこういうものだ』って簡単に言ってました。でも、いろいろ経験していくと『野球って何なのか』というのを、簡単に説明できなくなる」
「楽しむしかない、ということです」──
言葉を選びながら、菊池は続ける。
「ただ、今でも断言できることについては、昔よりももっと自信を持って言えます。誰になにを言われようが、こうだよねと言える。それっていうのは…」
ふーっと息を吐いて、一拍置く。そして、語気を強めて言う。
「楽しむしかない、ということです」
何度か、小さくうなずく。シンプルな言葉が、重みをもって響く。
「そもそも、自分は楽しくて野球を始めたんです。だから行き着くところ、そこになる。一度きりの人生ですから、楽しむ。そして、今しかできない貴重な経験を、しっかり味わう」
10月下旬、秋季練習。
メットライフドームのバックネット裏の階段をのぼると、ロッカールームの手前で、急に外の光が差し込んでくる。
左手をかざして、菊池はまぶしそうな表情をした。
「どうして勝てるようになったのか、とかよく聞かれますけど、今年がどうこうという話じゃないです。悪い時、つらい時も含めて、プロ8年間の積み重ね。2段モーションの問題を乗り越えられたのも、それがあるからです」
こちらを振り返ると「まあ、だてに遠回りしてませんから。僕も」と、いたずらっぽく笑う。
トンネルが長ければ長いほど、その先に待つ光は強く、まばゆい。
(取材・文 塩畑大輔 写真・松本洸)
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9月26日午前11時、ベルリン市内。小さな森に抱かれた、ドイツ2部ウニオン・ベルリンの練習ピッチに、内田篤人が現れた。
足取りが軽くないのは、体調の問題ではない。練習器具を積んだ小さなワゴンを、若手選手と一緒に引っ張っていたからだ。
器具を所定の場所に置き、「やれやれ」といった様子で背伸びをする。身体がほぐれると、洋芝の濃い緑が美しく染めるピッチを、軽い足取りで走り出す。
右膝のケガから2年───
前夜のカイザースラウテルン戦では、出場機会がめぐってこなかった。ビッグクラブのシャルケから移籍してきた内田だが、この日はベンチ外メンバーらとともに、調整をすることになった。
それでも、屈託のない笑顔で、周囲の若手とやりとりをする。
「独特の言い回しとかあって、言ってること全部を理解できないこともあるんですけど、あまり気にしないようにしてます。もちろん、最初は気になりましたよ。『あいつこっち見て何か言ってるなぁ』とか。でもしばらくすると、たいしたことを言ってるわけじゃないって気づく。たいてい、オレに深くかかわる話をしているわけでもないんですよね」
そう言って、笑ってみせる。やがて、同僚たちと肩を並べて走り出す。ピンクのスパイクで、サクサクと芝生を踏みしめる。そのリズムに、かつての乱れはない。
リーグ戦前々節では、フル出場を果たしていた。右膝のケガから2年。内田篤人が帰ってきた。
交通事故でもこんな難しいことにならない───
「レア中のレアケース。交通事故でもこんなに難しいことにはならないくらい、特殊な症例だったんです」
内田はそう言って、右膝のケガと、2年間のリハビリ生活を振り返りだした。
「膝が固まっていく感覚がありました。膝蓋(しつがい)じん帯といって、人体で一番太いじん帯ですけど、そこが骨化していくんです」
「ストレスがかかり続けることで、こういうことが起きることがある。たいていは膝が痛くなって、動かせなくなることでストレスが減って、骨化の進行が止まります」
しかし、内田の場合、骨化の進行は続いた。なぜか。走ることをやめなかったからだ。
「14年のブラジルW杯もありました。直後には欧州チャンピオンズリーグもあった。だからムリをしました。膝が壊れているのは、自分が一番分かっていた。でも、続けていた。痛みがどんどん強くなって、自然とかばうから、右足がみるみる細くなった。曲げ伸ばしもできなくなって、最後は地面に足をついているだけだった。ほとんど動かせなかった」
14-15年シーズンの欧州チャンピオンズリーグ、決勝トーナメント1回戦。レアル・マドリードとの大一番の陰で、内田は決心した。ディ・マッテオ監督に初めて、万全のプレーが難しいと伝えた。痛いのは耐えてきた。だが、動かせないのではどうしようもなかった。
"戻れない"と思っちゃうことはあった───
15年6月、内田は膝にメスを入れた。
「半年で復帰するつもりで手術しました。ドイツのドクターだけは、ここにメスを入れて戻ってこれたやつはいねえ!と最後まで反対していました。すごいドクターなんですよ。彼の病院では、陸上のボルトと待合室であったこともあるし」
それでも、手術を受けると決断した。最速でピッチに戻るためだ。
しかし、リハビリは思うようには進まなかった。
「自分がイメージしていた、半年での復帰ペースに比べると遅いから『あと2カ月かな』と考え直すけど、そのペースにすらならない。『じゃ、あと3、4カ月かな』って思い直しても、またしばらく進まない。気づけば、とっくにできているでしょうという時期に、まったく何もできていなかった」
そもそも、膝の骨格が一般的な形と違うなど、リハビリ自体が難しいものでもあった。こちらの痛みが消えれば、あちらが痛む。
そして、痛みを抱えたままのトレーニングでは、筋力は戻りにくい。あまりに長引くリハビリに「内田はもう治らないらしい」という声まであがっていた。
「オレ自身も、戻れないと思っちゃうことはありました。だからいろいろ考えないようにしました。いつか治るんだろう、と気楽にかまえてないと、長いリハビリはできない。だんだんそれが分かってきました。だから、気は急くけど、あえて適度にさぼるように心がけました。定められた回数をわざと守らないようにしたり、とか」
さぼらなければと、自分に懸命に言い聞かせる。そんな中で救いになったのは「出会い」だった。
国立スポーツ科学センター(JISS)でのリハビリ中には、滞在が長引いた分だけ、多くのアスリートと知り合う機会があった。
「サッカー選手は恵まれていると感じました。待遇の面もそうだし、世間からの注目の部分もそう。それに比べて、普段から大変な思いをしている選手たちがケガをして、集まって一緒の部屋でリハビリをしているんですけど、みんな息の抜き方を知らない。だからキューっとなっちゃうんですよね」
このころ、サッカー協会のメディカルスタッフがJISSを訪れると「アツトさんがメシをごちそうしてくれた」とさまざまな競技のアスリートから報告されていた。内田は手を振って、照れたように振り返る。
「うまくいかなければ、また明日がんばろうと切り替えることも大事。自分でもそう感じていたので、みんなにもそういう話をしました。そのうち、仲間の中からリハビリが終わって施設を出て行く選手が出てくる。その時はサプライズで送別会をしました。泣くんですよね。そういうのはいいなぁと」
内田が言う「仲間」には、先日現役を引退したテニスの伊達公子もいた。
卓球の福原愛、石川佳純、水泳の入江陵介、バドミントンの垣岩令佳といった五輪のメダリストも揃う。
彼ら、彼女らとは今でも連絡を取り合う。
「おとといの試合の直前でしたけど、アイスホッケーの選手から連絡が来ました。実業団でプレーを続けるか、プロになるか、海外に出るかの三択で迷っていて、その相談ですね。そろそろ結婚もするんですよ、って切実にいうから、そんなの知らんよって笑ってやりましたけど。でも自分なりの考えは伝えさせてもらいました」
別れ際に涙を流す。今でも相談を持ちかけてくる。内田との出会いは、アスリートたちにとって貴重なものだった。
「でもね、オレの方こそ、ってところもありますよ。ケガのつらさ、苦しみを、みんなとシェアさせてもらったというか。みんなとのやりとりがなければ、一人きりでケガとまともに向き合いすぎて、自分が参ってしまったと思います」
自分の置かれた立場を客観的に───
このころ、内田は気晴らしのために、よくYouTubeの動画を見ていた。
「ゲームの攻略動画とか見ていました。すごいんですよ、有名なYouTuberの皆さんの動画って。それから、eSportsのアスリートの方たちのプレーもすごい。パリ五輪で正式競技になる可能性、あるんでしたっけ?」
「最初は自分でゲームをするのが好きだから見てました。でもいつの間にか、自分がやったことのないゲームの攻略動画とかも見るようになりました。動画自体が面白いんで、ね」
アスリートの中でも、特にネットの世界への感度は高いが、一方でこんなことも言う。
「ネットには本当にいろいろなジャンルの情報、コンテンツがある。見たいものが見られる。知りたいことを知れる。でも、自分の興味あるものしか見なくなるという側面もある。ちゃんと意識をしておかないと、いろいろな情報が頭に入ってこなくなる。それは怖いような気もする」
ふっと真顔になった。言葉を続ける。
「ネットの"見え方"って、自然と自分と同じ考え方にそまっていくところがあるじゃないですか。YouTubeとかも、関連動画に自分の好みのものしか並ばなくなるし。自分と反対側の意見に耳をかせなくなるのは、怖いですよね。客観的に見なくちゃいけないと思っているので。自分の置かれた立場を」
物議をかもした「代表引退説」───
客観的に、自分の置かれた立場を見ないといけない。3年前。物議をかもした「代表引退説」は、まさにそんな考え方から出たものだった。
14年のW杯直後、一部メディアで「内田が代表を引退する」と報道された。事実、サッカー協会にもそうした考えは伝えていた。 直後に手術を余儀なくされる膝痛の悪化もあったが、それ以上に「日本代表」という立場へのジレンマを抱えていた。
「代表としてやりきったから、というわけではなかった。むしろぜんぜんやりきれてなかったし。いろいろ考えだしたのは、負けて帰国した時でした。日本は他の国とは、サッカー選手の扱いが違うなと」
負けてなお、日本代表の選手たちの人気は高かった。ありがたいこと。そう思う一方で、フィーバーを客観的に見ている、もう1人の自分がいた。
「アイドル入っているというか、だいぶ人気が先行しているなと。それでふと、我に返ったというか。オレがドイツ人なら、ブラジル人なら、スペイン人なら、きっと代表にかすりもしないなと。海外には、もっとすごい選手がいっぱいいる。なのになんでオレたちの方が、華やかなところにいるのかなと」
そこを割り切れないまま、代表に合流するわけにはいかなかった。だから、いったん身を引こうと思った。その後、手術、リハビリを経験した。その間も、ずっと考えてきた。
時間は十分すぎるほどあった。4年に一度のチャンスに人生を懸ける、五輪競技のアスリートの姿も見てきた。整理はついた。
「ネイマールとか、ベイルとか、日本代表でW杯に出るからこそ対戦できる選手もいる。限りあるサッカー人生、出られる大会、選ばれる代表なら、そこは出るべきじゃないかと。膝的に、肉体的に、年齢的にチャンスがあるなら、トライしない理由はない」
オレの膝は、他の人とは違う───
リハビリ開始から半年以上がたっていた。
JISSを"卒業"した内田は、古巣鹿島を拠点にしたリハビリをスタートさせた。 鹿島の塙敬裕(はなわ・けいすけ)理学療法士にサポートを仰ぐためだった。
「彼と出会わなければ、リハビリはうまくいかなかったと思います。JISSにいるうちから、紹介されて話をする機会があったのですが、リハビリに対する考え方、意見が感覚的に合った」
塙氏の考えは、一般的に有効とされるリハビリ法をなぞるものではなかった。もともと違和感なく動いていた時の「位置」に、骨などの組織を戻す、というものだ。
「オレの膝って、他の人とは少しつくりが違うみたいなんです。骨の位置とか、バランスとか」
そう知っていた内田は、自分には一般的なリハビリよりも塙氏のアプローチが有効だと考えた。
「塙さんには最初から、特殊な症例、特殊なつくりの膝を治すから、はっきりいって現段階で正解はないと言われました。でも、治すならそういうスタンスしかないと思った。実際、やってみたら痛みも減るし、力も入りましたしね」
「内田にW杯は難しい」と思いますよね───
出口は見えてきた。
しかし、トンネルはさらに長く続いていた。
シャルケに戻ってからのリハビリでは、クラブ専属のトレーナーの方針で、患部へのアプローチが変わった。それで痛みがぶり返した時期もあった。16年12月。内田は欧州リーグのレッドブル・ザルツブルグ戦で、ついに公式戦に復帰した。しかし、その後は試合に出られず。丸2シーズン、リーグ戦の出場ゼロということになった。 雌伏の時は、2年になろうとしていた。
「みんなきっと『内田にW杯は難しい』と思いますよね。時間ないじゃんとか。膝やっちゃったからとか。今までよくやったよ、ってねぎらってくれちゃってる方もいるかも」
苦笑いしながらも、語気を強める。
「でも実際には、時間はある。経験から言えば、評価は1カ月あれば変わる。というか、1試合で変わります。流れとか、タイミング次第で十分ありうる。手のひら返しって思うこともあるけど、それが評価です。そのためには、まずは試合に出続けないと」
出場機会を求め、今季からはドイツ2部ウニオン・ベルリンに移籍。リーグ戦フル出場も果たした。
「膝の痛みはもうないです。少しの違和感で、ドーッと冷や汗が出るけど、しばらくすると、ああ大丈夫だと。たぶん、もう一回痛みが出たら、終わりだと思う。でもとにかく、今はぜんぜん大丈夫。サポーター巻いてるじゃんとか言われるけど、プレーがよくなるなら何重でも巻きますよ」
加入して間もないチームでは、まだ周囲と"あうんの呼吸"とはいかず、出場機会は限られている。それでも、内田は言う。
「マイナスな意見が多い状況から、バンバンバンと巻き返していった方が、格好良くないですか?内田はもうダメだとか、W杯までもう時間がないとかいう意見があった方がありがたいです。もしも他人だったら、なかなか厳しいと思うはず。でも当事者としては、いい『フリ』だと思っています」
そう言って、ニヤリと笑ってみせる。
「確かに2年間のブランクは長かった。でも、W杯とW杯の間に、きれいに2年間が収まった。ケガが治って、またW杯を目指せる。これってすごくラッキーなことじゃないですか?」
家族を持ったからには───
控え組との練習を終えた内田は、急いでシャワーを浴び、駐車場へと出てきた。
そこには夫人と、生後11カ月の長女が待っていた。内田は娘を抱き上げ、同僚たちがまだ着替えをしているロッカールームへと戻っていく。どうやら"お披露目"をしたいらしい。 しかし、数分と持たず、表に出てきた。娘が号泣している。
「泣き止まないわ」。半裸の屈強なドイツ男たちに囲まれ、驚いたのだろうか。必死にあやす内田の手から、夫人が娘を抱き上げる。ピタリと泣き止んだ。「やっぱりママか」。子煩悩な新米パパは、残念そうにこぼした。
「家族を持ったからには、無条件に競技を優先させていいとは思わないです。でもうちは幸い、奥さんがOKをしてくれている。好きにやっていいよ、と」
「海外に来たら、生活のこと、子どもの幼稚園や学校のことなんかで大変だと思う。本当に感謝しています。そういえば結婚してから、リーグ戦に出ているところを、試合会場ではまだ見せられていないんですよね」
ベルリンは日本より、はるかに冷え込みが早い。気温15度。澄んだ空気に、空の青さが映える。傾いた冬の日差しに目を細めながら、内田は乗用車のハンドルを握る手に、グッと力を込めた。
(取材・文) 塩畑大輔
※編集部追記
内田選手は16日の練習で左太ももを負傷。幸い軽傷でしたが、26日現在、別メニュー調整を行っています。そのため期待されていた11月のブラジル、ベルギーとの親善試合での日本代表復帰は見送りとなる見込みです。
しかし内田選手本人は、ケガをする以前から「今の段階ではまだ、他の代表選手と自分とでは状況が違う」「まずはウニオンで試合数を重ねること」と話していたこともあり、あせることなく前向きに調整しているということです。
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