MCの中居正広、MCでない中居正広
プレッシャーと共有。
『中居正広のミになる図書館 ゴールデン進出!世代別クイズバトルNo.1決定戦』を観て、中居正広とこの番組が求めているのはそこだと思った。
タイトルにも示されているように、この番組はこの4月24日からゴールデンに進出した。重要なのは、この番組が毎週生放送になったことだ。
中居は『ミになる図書館』の番宣のために、テレビ朝日の別番組にゲスト出演している。
まず、4月20日の『アメトーーク! ひとり暮らし長~い芸人』に出演。その翌々日、『SmaSTATION!!』に出た。
『アメトーーク!』では「芸人」として出演したことが大きな話題となったが、考えてみれば「MC」ではないときの中居正広の肩書きは、どうしたらいいのだろう。
もちろん、「中居正広」で充分なわけだが、たとえば「タレント」という曖昧なカテゴリーではどうもしっくりこない。まあ、もちろん、紹介の仕方としては「今日はMCではないけど、MC 中居正広」でもいいわけだが。
ただ、それもあんまりだろう、とは思うので、「タレント 中居正広」よりは「芸人 中居正広」のほうがしっくりはくる。
拡張しつづける「MC 中居正広」という存在
中居は、「MC」というものの立ち位置を大きく拡張した。
スポーツ関連番組に出ているときの中居は、そこでなにをしているかはともかく、やっぱり「MC 中居正広」だと思う。正確に言えば、「MC」そのものが拡張したわけではなく、「MC 中居正広」という存在が拡張を続けている。
中居は、自分の意見も言いますよ、というスタンスで「MC」をしている。
彼には自分の意見があるし、その意見を表出させることに抵抗がない。なによりも、それを伝えることができる芸がある。つまり、そういう意味では、彼はゲストにもなれるし、芸人でもある。
だから、『アメトーーク!』で芸人たちに囲まれた中居の姿は不思議な感じこそしたが、特に違和感はなかった。なぜか、とけこんでいた。
おそらく、これから先、この「なぜか」がなくなっていくのだと思う。あのようなかたちでゲスト出演していくことが、もっともっと増えていくのではないだろうか。
もはや、中居は「MC」として大御所と言っていい。
だが、ゲスト出演したとしても、周囲や番組が、扱いに困る、ということがない。なぜなら、彼自身が、自分をどう扱っていいか熟知しているし、そもそも「MC」とはそういう仕事でもあるからだ。「MC」のときは、そこを露呈させない。
だが、ゲストのときは、そこを見せていい、いや、むしろ積極的に見せるほうがいい、ということも中居は心得ていて、だから、芸人の枠の中にいても違和感がなかった。
言うまでもなく、芸人という仕事もまた、自分をどう扱うかが、かなり重要な部分だからだ。
ドライな言い方をしてしまえば、自分の役割を認識すること。
そうした俯瞰した視点が中居にはあって、それは、考えてみれば、芸人に最も必要な資質でもある、ということを『アメトーーク!』は気づかせた。
スマステに見た、「SMAP的」なムードとは
『スマステ』は生放送である。
香取慎吾とどんなトークを繰り広げるかに注目が集まったが、フタを開けてみれば試食時における中居の正直っぷりがモロに出るという結果だった。
なんでもかんでも美味しいとアゲる「テレビの常識」に従わず、明確に否定はしないものの、決して無理矢理ほめることはしない、というギリギリのラインを保ち、それを彼なりの芸風にくるんで差し出した。
そこには「居直ることの愛嬌」があった。
ここでは、役割を全うすることよりも、期待を裏切ることで、テレビに新鮮さを与えた。逆に言えば、それもまた役割の全うであり、期待に応えることなのだ。
あの「あしらい方」には、SMAP的なものがあった。
香取と一緒にいるからSMAP的なムードが生まれたわけではない。テレビとはこのようにするものだ、というルーティンに、あからさまな反逆こそしないものの、安易に追従しないのがSMAPだった。特に、生放送時のSMAPはそうだった。その感覚が、『スマステ』出演時の中居にはあった。
やっていいんだよな?
とでもいうような、暗黙の了解が、両者にはあったのだろう。
それはテレビを壊すことではない。
テレビを輝かせるための、スパイスだ。
生放送の中居の振る舞い、そこから伝わるもの
さて『ミになる図書館』だが、20代、30代、40代、50代、60代の出演者チームを揃え、繰り広げられたクイズ大会は、とてもシンプルなものだった。
アタマではなく、カラダに訴えかけてくるのが生放送だと言わんばかりに。
アスリートのコーナーを要所に挟み込んでいるのは、中居のスポーツへの敬意がそうさせているわけだが、同時に、老若男女が「共有できるプレッシャー」を提示できるのが、アスリートの肉体に他ならないと知っているからでもあろう。
価値観が細分化したと言われて久しいが、それでも、横並びで享受できるものはある、というテレビ愛が中居にはあるのだと思う。
生放送だから、失敗は当然ある。この日も、意外な失敗があった。いや、失敗というより、期待はずれ、と言ったほうがいいかもしれない。
だが、中居は、きめ細やかなツッコミを入れる、ということで、その失敗を、人間的な現象に高めた。
温かい言葉をかけたりはしない。あくまでもバラエティであるということを踏まえた上で、絶対に失礼にならないツッコミを入れて、ほのかな笑いに変えた。
プレッシャーは、人を失敗させることもある。だが、その失敗もまた、老若男女が共有できるものなのだ。
人間は失敗する。
失敗するのが人間だ。
でも、失敗しても大丈夫。
オレが必ず回収するから。
中居の振る舞いは、そんなふうに映った。
ドキドキの根本は、プレッシャーと共有にある。
だから、プレッシャーも共有も、否定すべきものではない。
だって、ドキドキは素晴らしいものだから。
だから、中居正広は生放送を始めたのだなと思った。
(相田 冬ニ)