いまのページ数の100分の1
乗りものの運行時刻を調べるのに便利な「時刻表」。現在刊行されている全国版の時刻表のなかで、最も古いのがJTBパブリッシング発行の『JTB時刻表』です。1925(大正14)年に『汽車時間表』の名前で創刊し、その後『時間表』『時刻表』と何度か名前を変えながら、いまに至っています。
通巻1000号を迎えたときの2009年5月号(奥)と、1945年7月発行号の復刻版(手前)。いまは1000ページを超える分厚い雑誌だが、戦時中は紙切れ1枚だった。
JR線は全国の旅客列車と駅の時刻を掲載。私鉄やバス、飛行機、船の時刻も一部収録しており、総ページ数は1000ページを超えます。しかし、戦時中の1945(昭和20)年7月1日付で発行された『時刻表 昭和二十年七月一日現在』は、両面に印刷された大きめの紙切れ1枚だけ。いまの『JTB時刻表』の10ページ分くらいしかありません。
「これで雑誌といえるのか」と言いたくなりますが、紙切れの左上には「第二一巻第二號(通巻第二三六號)」と記されており、現在の『JTB時刻表』につながる雑誌として発行されていることが分かります。
その「誌面」を見てみると、掲載路線は以下の通りです(線名と駅名は『時刻表』上の名称)。
・東北本線 上野~青森
・常磐線 上野~仙台
・信越上越線 上野~新潟(長野経由と越後湯沢経由)
・総武線 両国~銚子(成東経由と成田経由)
・房総線(外廻り) 両国~上総一ノ宮~安房鴨川
・房総線(内廻り) 両国~木更津~安房鴨川
・我孫子・成田間 (上野~)成田~我孫子
・東海道線 東京~門司
・鹿児島本線 門司港~鹿児島
・長崎線 門司港~長崎
・日豊線 門司港~鹿児島
・御殿場線 (東京~)国府津~沼津
・中央線 新宿~塩尻(~長野、名古屋)
・伊東線 (東京~)熱海~伊東
この時点で全国の主要都市を結ぶ幹線鉄道ネットワークは完成していましたが、掲載されているのは本州と九州のおもな国鉄線だけ。北海道と四国の路線は掲載されていません。途中駅も大幅に省略されています。
戦時中の『時刻表』はなぜ、ここまで薄くなってしまったのでしょうか。ひと言でいえば「紙不足」が原因です。
徐々に減っていったページ数
日本は1931(昭和6)年の満州事変を機に、ほぼ途切れのない紛争状態と戦争に突入。1938(昭和13)年には国家総動員法が公布されました。国が戦争を遂行するため、紙類を含む全ての人材や物資を統制できるようになったのです。
左から1940年10月号、1942年11月号、1944年5号(いずれも復刻版)。ページ数が徐々に減っているのが分かる。
こうして1940(昭和15)年、出版統制団体として日本出版文化協会(のちの日本出版会)が設立されます。出版社は日本出版文化協会から割り当てられた分の紙しか手に入れることができなくなりました。
そして1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発。あらゆる物資が軍へ優先的に回されるようになり、本や雑誌を制作するための紙の入手がさらに難しくなっていったのです。1940年代に発行された『JTB時刻表』(当時の誌名は『時間表』または『時刻表』)の場合、1940(昭和15)年10月号はA5判で336ページ。2年後の1942(昭和17)年11月号はA5判310ページで、26ページ減っています。
紙不足は戦局の悪化とともに、さらに深刻化。1943(昭和18)年11月号をもって月刊による発行が中止され、不定期刊に移行しています。1944(昭和19)年12月に発行された第5号は、一気に100ページ近く減って224ページになりました。これは紙不足のほか、軍需輸送を優先させるため旅客列車が削減されたことも背景にあるといえます。
このころには米軍による日本への空襲が激しくなり、そもそも時刻表通りに運行することが難しくなってきました。こうしたこともあって、1945(昭和20)年に入ると冊子型の『時刻表』の発行がストップ。終戦直前の7月、掲載路線を大幅に絞り、紙切れ1枚の『時刻表』を何とか発行できたといえます。
あれから73年が経過し、いまでは複数の出版社から多種多様な時刻表が発売されています。インターネット上の列車時刻検索サービスも充実しました。しかし、ひとたび戦争や大規模災害が起これば、物資不足や物流の途絶で時刻表の制作が難しくなり、ネットの検索サービスも電力制限などにより利用できなくなるかもしれません。戦時中に発行された時刻表のページ数の変化は、そのことをいまに伝えているといえるかもしれません。
【写真】「防空心得」が掲載された裏表紙
1944年5号の裏表紙。通常の広告の代わりに「旅行防空心得」が掲載された。当時の緊迫した状況が伝わってくる。