ベランダの目の前が
南田裕介(右)さんと岡安章介さん(2018年11月13日、恵 知仁撮影)。
乗りものニュース編集部「岡安さんと南田さんは、子どものころから鉄道がお好きだったんですか?」
岡安章介さん「父が鉄道好きで、さらに家のベランダから高崎線や宇都宮線の電車が目の前に見える環境で、小学4年生まで育ちました。通っていた小学校も線路沿いで、学校から列車をよく見ていました。鉄道好きの友達も結構いて、時刻表を見ながら誰が一番駅を覚えられるか競争をしたりしましたね」
南田裕介さん「鉄道は幼稚園くらいのころから好きです。小学校時代は、ランドセルを家に置いたらその後はずっと駅にいるような子どもでした。最寄りが関西本線の大和小泉駅(奈良県大和郡山市)だったんですが、そこでずーっと。17時台から本数が増えるんですけど、降りてくるお客さんを迎える駅員さんの動きを『ああ、かっこいいなぁ』と思いながら眺めていました。あと“環境”にも恵まれていて、東京と福岡に親戚がいたので、新幹線や、東京だと寝台急行「銀河」にも乗ったりしてました。奈良に住んでいながら、図鑑に載っている都会の鉄道車両を生で見られたのが良かったですね。あと、家にマイカーがなかったのも良かったです。何をするにも電車移動でしたから、親には感謝しています(笑)」
奈良駅に特急が来た日
編集部「鉄道を好きになったきっかけをあえて挙げるとすれば、何でしょうか?」
岡安「父が鉄道模型のNケージをやってました。それを見て、自分もお年玉で車両を買って、父のジオラマで走らせていました。4両編成でないと走らせてはならないという厳しいルールがありました(笑) 最初に買ったのは、自宅の前を走っていた115系電車です。次が山手線の103系。そのあと新幹線を買おうとしたら『ジオラマに合わないからやめてくれ』と父に言われたのを覚えています。ジオラマが田舎タイプのやつだったんで……」
編集部「鉄道模型がお好きだったんですか?」
岡安「そうですね、父のNゲージを見てかっこいいなと。『プラレール』を卒業して小学2年生くらいからNゲージに手を出しました。『プラレール』は2DKの家じゅうにレールを敷いて、途中に『大宮駅』を作って分岐させて、黒磯行きと高崎・前橋行きに分けて弟と遊んでいました。弟は『プラレール』までは鉄道好きだったんですが、その後はファミコンのほうに関心がいっちゃいましたね」
TSUTAYAプレミアム『南田の鉄道ファーン!』より(画像:TSUTAYA)。
編集部「南田さんは、どんなきっかけがあったのでしょうか?」
南田「きっかけかどうか分からないんですが、『鉄道が好きだ』という思いを改めて強固なものにした経験として、『鉄道が全国とつながっている』ということを身に染みて実感する出来事が2回あったんです。1回目は、関西本線の王寺の車両基地が台風で被災して水没した際、関東から101系電車が応援でやってきたときです。2回目は、東北新幹線が開業した頃に485系電車が大移動した時期がありましたよね。急行『きのくに』を特急『くろしお』に格上げするため485系が東北から送られてくるわけなんですが、一時期、その何編成かが奈良駅に留置されていたんです。奈良県は国鉄特急が走らないことで有名だったんですが、回送とはいえ特急が来たんですよ。はじめは信じてなかったけど、奈良駅で実際に見て『ほんとだぁ』と。大和小泉駅の線路は全国につながっているんだと実感したのが、鉄道の魅力に取りつかれたきっかけです。急行『きのくに』の最終日は、翌日からの特急『くろしお』運行に備えて送り込まれた485系を撮ったりしていました」
父の屋根裏ジオラマに友人びっくり
編集部「子どものころ、『プラレール』や鉄道模型以外に、どんな形で鉄道とふれ合っていましたか?」
南田「『プラレール』はやってましたけど、早めに卒業して、バンダイの『ミニミニレール』を遊んでいました。そしてそれと同時に、祖母が亡くなったときに形見で譲ってもらったカメラで鉄道を撮るようになりました。父が新聞記者だったので、構図をアドバイスしてくれるんですよ。期限切れになって捨てられるモノクロフィルムを会社からもらって来てくれたので、それでモノクロ写真を撮っていました」
岡安「模型以外ですと、秋葉原にあった交通博物館は事あるごとに連れて行ってもらいましたね」
TSUTAYAプレミアム『南田の鉄道ファーン!』より(画像:TSUTAYA)。
南田「あとは絵を描いたり、電車ごっこしたり。『電車ごっこ』というのは、教室のドアで『プシーーー』(編注:鉄道車両の乗降用扉が開閉するときのまね)とやったり、窓を開けて車掌の仕種をまねたり。あと、電車になったつもりで自転車に乗ったり。家では改札口の係員をやりたくて、『改札』を家の中に作って、母に『洗濯行くとき、きっぷを渡してね』と言ってるのに『改札』を1回しか通ってくれなくて。……なんか泣けてきた(笑)」
岡安「東京にいたときは鉄道好きが周りにいたんですが、小学校の途中で埼玉に転校したら全然いなくなっちゃったんです。父は屋根裏を全部ジオラマにするなど相変わらず突っ走っていて、仲良くなった友だちにそれを見せるとびっくりしてましたね。埼玉は家が駅から4kmほど離れていたので、電車を見に行く頻度も減り、疎遠気味になり、『隠れテツ』みたいになったこともありました」
モテたくて「隠れ鉄」になるも、結局モテず…
南田「小学6年生のころ、魚釣りにはまったことがあったんです。週末、父に連れられて近所の川へ行くと、大きな鯉が釣れるんです。それが楽しくてエサや仕掛けを研究したときがあったんですが、引っ越した先は川がなかったので、釣りはそれっきりになりって、鉄道に戻ってきました(笑) それとあの時代、オタクというのはモテなかったんですよね。中学のときはバリバリ鉄道趣味をやってたんですけど、高校は地元から遠かったので、それまでの自分を知らない人も多くて、かつ『モテたい』という気持ちがあったので、鉄道が好きなことは隠していました。少しは効果ありましたが、鉄道好きを隠したところで結局、うまくいかないんですよ(笑) 静岡の大学時代は仲間を増やしたい気持ちもあり、友達のクルマで移動。『ナガシマスパーランド』(三重県桑名市)など行きましたけど、本当は関西本線で行きたかったです(笑)」
TSUTAYAプレミアム『南田の鉄道ファーン!』より(画像:TSUTAYA)。
編集部「そうして大人になったいま、おふたりはしいて言うと『なに鉄』になったのでしょうか?」
岡安「『撮り鉄』と『乗り鉄』ですね。あと『呑み鉄』も。この前はついに濃いめのハイボールを、氷の入ったアイスコーヒー用のカップに注いで飲みながら乗ってしまいました。『SUPER BELL"Z』の野月さんに教わったんですが、いいですね」
南田「私は『乗り鉄』『撮り鉄』『国鉄鉄』ですかね」
編集部「最後に、なぜいまこういう“鉄道の仕事”をするようになったのか、ということについて、いかがでしょう?」
岡安「なんででしょう。お笑い芸人を目指していたはずなのに、車掌のような服を着ていることが多いです(笑) 何があるか分からないですね」
南田「ぼくは……会社に感謝かなと(笑)」
【写真】ゴムタイヤを装着した新幹線(本物)
TSUTAYAプレミアム『南田の鉄道ファーン!』より(画像:TSUTAYA)。