地下区間最後の駅から中央林間へ
「東急田園都市線」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。条件反射的に「通勤ラッシュ」が出てくる人が多いかもしれません。国土交通省が2018年7月に発表した調査結果(2017年度)によると、混雑率は185%。関東圏の主要区間ではワースト9位です。
長津田の車両基地に並ぶ東急田園都市線の電車(2017年11月、恵 知仁撮影)。
しかし、この事前情報なくして、真っさらな心で路線名を耳にすると、なんとなく牧歌的というか、おっとりした印象がありませんか。
「田園」は、「田と畑」あるいは「田舎、郊外」といった意味を持っており、さらに「田園都市」を辞書で調べると「田園の情趣を備えている都市。都市近郊の田園地帯に計画的に建設された都市」であることがわかります。
ということは、名称的には田園、つまり田畑のある地域を走っていても、さして不自然ではないし、むしろしっくりきます。そこで、実際に田園都市線の列車に乗って、本当に田園が見えるのか観察することにしました。
田園都市線は渋谷駅と中央林間駅(神奈川県大和市)を結ぶ31.5kmの路線ですが、渋谷駅から用賀駅にかけては地下区間を走行しているため、用賀駅をスタート地点にします。同駅の地下ホームに入り、少しでも眺めのいいところを陣取りたいと先頭車両が停車する位置で待つこと数分。やってきたのは、東京メトロ半蔵門線を介して田園都市線に乗り入れている東武鉄道の電車でした。
意気揚々と乗り込んだところ、乗務員室はカーテンが下ろされています。先頭から車窓を見ようというもくろみは、さっそく崩れ去りました。
次善の策として、最後尾から観察することとし、車内を移動しているうちに、減速、そして地上に顔を出し、高架線へと上がっていきました。隣駅、二子玉川に到着です。多摩川の橋上ホームから望む景色は「田園」にはほど遠く、かなたに武蔵小杉のタワーマンション群が見えました。
勢いよく広がる住宅地に田畑は見えないが…
発車メロディ「ハリー・ポッターのテーマ曲」に見送られるようにして発車。ほとんど加速しないままに多摩川を渡り切って、川崎市内の二子新地駅に至ります。
多摩川を渡って川崎市内へ。ビルやマンション、一軒家の群れが立ち並び、田畑は見えない(2018年12月、蜂谷あす美撮影)。
この時点では列車の最後尾まで移動しきれておらず、ようやく最後尾で展望を開始したころには、溝の口駅に入線していました。しかし、どこまでも勢いよく広がる住宅街に、田畑はありません。
列車は高津区役所を過ぎたあたりで、くぼみのような掘割の敷地(切り通し)へと進み、視界を微妙に阻まれます。そうかと思えば高架橋に入って住宅地が眼下に見えるものの、田畑はゼロです。そうこうしているうちに宮崎台駅に到着し、列車はいつまでたっても田園を見せてくれません。
続いて宮前平駅を発車。鷺沼駅の手前にある車両基地に差し掛かろうとしたとき、左手の民家に茂みがあったのを私(蜂谷あす美:旅の文筆家)は見逃しませんでした。が、これは竹やぶであり、前述の「田園」の定義には含まれていないため、ノーカウントです。残念。
川崎市内から横浜市内に移り、車窓は横浜市らしい住宅街の様相を呈してきました。「横浜市らしい」というのは、標高にかかわらず、丘という丘に住宅が立ち並ぶ様子です。
お目当ての車窓に出会うことがかなわないまま、たまプラーザ駅に到着。この取材の前日、山手線の新駅が「高輪ゲートウェイ」に決定したと発表されたばかりです。そういえば、ここにカタカナ駅の先輩がいたなあ……などと、取材の本筋と関係ないことに頭がとらわれるようになっていました。
次のあざみ野駅に入線する直前、駅前にちらっと雑木林のようなものが見えました。しかしこれも「田園」には該当しません。あくまでも、田畑であってほしいのです。
いつしか気持ちが少し緩み、車内に流れる「次は江田です」の放送を聞き流していたところ、車窓右手に柿園が見えました。すでにシーズンも終わっているためか、木々にぶら下がっているのは、ほんのわずか。とはいえここまでで「収穫」が皆無だったので、「一応田園」という扱いにします。
車窓から見える田園は何か所?
しかし、市が尾駅を発車後、東名高速道路を背景として、手前の鶴見川付近に畑が見えてきました。1区画あたりの面積はそこまで大きくはなく、あくまでも自家用と思われますが、まぎれもない田園です。ようやく正真正銘の田園を見つけ出し、気持ちは高鳴ります。
ついに見つけた「田園」。鶴見川が流れる市が尾~藤が丘間の谷間に田畑が広がっていた(2018年12月、蜂谷あす美撮影)。
次いで藤が丘駅、青葉台駅と列車は発着を繰り返します。ふと車内に視線を移すと、乗客は平日の昼間ということもあって、7人ほど。うち半分は眠っており、残りの人たちはスマートフォンを見ていました。私自身、何度も田園都市線には乗ったことがあるものの、車内での過ごし方は、この7人とほとんど変わりありません。改めて車窓を見ると、発見が多いものです。
話が少し脇道にそれました。列車が田奈駅に差し掛かろうというところで、進行方向右側に田園が広がっているのが見えてきました。恩田川沿いを中心として、田畑があるのがわかります。畑だけではなく水田もありました。
市が尾と田奈で「いい具合の田園」があったので、ここからいよいよ本番と行きたいところ。しかし、その後はさして田園らしいものが見当たらず、地下トンネルに入って終点の中央林間駅に着いてしまいました。
そんなわけで、田園都市線の列車から田園が見えた区間は、市が尾~藤が丘間と田奈駅付近の2か所でした。これに「一応田園」のあざみ野~江田間を加えると3か所になります。
このうち田奈駅付近の水田を中心とした一帯は、横浜市が農業振興施策として行っている「恵みの里」事業で、「田奈恵みの里」として指定された地域にあたります。駅を飛び出してみると、あたり一帯が田園で、その背景の丘陵地帯は住宅がびっしりと並んでいました。
新都市の開発にあわせて建設された鉄道路線
いまでは沿線に田園らしい田園がほとんどなくなった田園都市線。その歴史は1953(昭和28)年に当時の東急電鉄会長、五島慶太氏が「城西南地区開発構想」を発表したことにまでさかのぼります。
田奈駅付近の車窓からも「田園」が見えた(2018年12月、蜂谷あす美撮影)。
このころ、現在の大井町~溝の口間を結ぶ東急大井町線があったものの、溝の口以西は標高30mから90mの低い丘陵の合間を縫って大小の河川が流れているような地域。交通手段としては、1日数本の路線バスが乗り入れているだけでした。
折しも東京では、人口が急激に増えていました。五島氏は「ロンドンやニューヨークが人口膨張の解決策として郊外に衛星都市をつくったこと」を引き合いに新都市、つまり田園都市の必要性を論じたのです。
その後、東急は1956(昭和31)年に「多摩西南新都市計画」を策定し、土地区画整理事業を行います。山林や原野に覆われていた多摩丘陵が切り開かれ、街づくりに必要な道路、公園、水路などが整備されていきました。
いっぽう、多摩西南新都心にアクセスするための鉄道は、現在の大井町~溝の口間を結ぶ大井町線の延長計画として整備することに。溝の口~長津田間の工事が始まった1963年(昭和38)年には、多摩西南都市の名称を「多摩田園都市」にすることが決まり、あわせて大井町線が「田園都市線」に改称されたのです。ここに、現在の田園都市線のルーツがあります。
こうして1966(昭和41)年、溝の口~長津田間が開業し、1984(昭和59)年には現在の終点、中央林間駅に到達。さらに大井町~二子玉川間の分離(大井町線)や渋谷~二子玉川間を結ぶ新玉川線との統合を経て、現在の田園都市線が形作られたのです。
現在の終点、中央林間駅は1984年に開業した(2018年12月、蜂谷あす美撮影)。
大井町~二子玉川間は田園都市線から分離し、再び大井町線を名乗っている(2008年9月、草町義和撮影)。
渋谷につながる地下路線の新玉川線は田園都市線に編入された(2011年3月、草町義和撮影)。
溝の口~長津田間が開業した当初は5万人だった田園都市線の沿線人口は、10年後には20万人を突破。線路の周囲はビルやマンション、一軒家で埋め尽くされました。こうした経緯を考えると、車窓にわずかに見えた「田園」というのは、田園都市線が建設される前の姿をいまにとどめているといえるのでしょう。
【地図】田園都市線で「田園」が見える場所の「むかし」「いま」
東急田園都市線 市が尾~長津田間の地図。開業したころ(上)は山林や田畑が多かったものの、いま(下)は建物が密集。市が尾~藤が丘間と田奈駅付近に田畑がわずかに残るだけだ(国土地理院の地図を加工)。