文/砂原浩太朗(小説家)
石川県金沢――。兼六園や武家屋敷といった古都の情感に富むいっぽう、21世紀美術館などに代表されるアートの都市でもある。国内の名所中、際だった存在感を放っているといっていい。
この街の礎をきずいたのが、加賀百万石の祖・前田利家(まえだ・としいえ、1537?~1599)である。知名度の高い武将ではあるが、一般的なイメージとしては信長・秀吉の忠実な臣下といった程度で、その人となりがじゅうぶん知られているとは言いがたい。ここでは3つのエピソードをとりあげ、利家の人間像を照らしだしてみたい。
■1:若いころは不良少年だった
尾張(愛知県)の土豪・前田利昌(利春とも)の四男として生まれた利家は、天文20(1551)年、織田信長の近習として仕えることになる。当時、信長は名うての傾奇者(かぶきもの)として知られていた。傾奇者とは、奇抜な衣装や振る舞いで人目を惹く者たちのこと。信長のいでたちは湯帷子(ゆかたびら=ゆかた)を袖脱ぎにしてまとい、髷は紅や萌黄の色糸で結って朱鞘の大刀を腰に差すという派手やかなものだった。また、栗や柿、瓜などをかじりながら町中をうろついていたという。
「利家記」という史料によれば、つきしたがう利家もやはり傾奇者として名を馳せ(「利家様御若き時は、かぶき御人」)、けんかを好んだ。かなり目だつ槍をたずさえていたらしく、人々は遠くからでもそれを目にすると、「又左衛門(利家の通称)の槍が来た」とおそれ、近づかぬようにしたそうである。
■2:算盤が得意だった
利家は自慢の槍でしばしば武功をたてたが、いっぽうで数字にもあかるかった。「算勘の上手は徳川家康・秀忠、そして前田利家」と称されるほどだったという。拙著『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社刊)には、利家が愛用の算盤をはじく場面があるが、これはたんなる想像でなく、「常に御具足櫃に御入置被遊候」(いつも鎧櫃に算盤を入れておられた)と「国祖遺言」にある。
この算盤は利家の没後、妻の芳春院(まつ)が所持し、娘である春香院(藩臣・村井長次の妻)を経て、5代藩主・綱紀(1643~1724)の手にわたった。現在、前田育徳会が所蔵しているものがそれで、現存する日本最古の算盤でもある。
■3:敵を助けすぎて秀吉に叱られた?
利家も戦国武将のひとりであるから、たたかうことがすなわち生きることであったのはまちがいない。が、いたずらに殺戮をこのむ人物でなかったのも、たしかである。
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、利家は別動隊の総大将として北条氏配下の諸将と兵をかまえることになった。まず上野(群馬県)で大道寺政繁をやぶり、1ヶ月にわたる包囲ののち、名将・北条氏邦(当主・氏直の叔父)のまもる鉢形城(埼玉県寄居町)をおとす。が、政繁、氏邦を助命したことで秀吉の不興を買い、小田原開城後には短期間ながら謹慎を余儀なくされている。
いささか気の毒ではあるが、このエピソードにどこかほっとするものを覚えるのは筆者だけではないだろう。政繁はけっきょく秀吉から切腹を命じられてしまったが、氏邦は出家ののち前田家につかえ、慶長2(1597)年、金沢で没している。利家に先立つこと2年であった。
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以上の挿話をとおして浮かびあがるのは、新しいものをすすんで取りいれる柔軟さと侠気(おとこぎ)を併せもった人物像といえるだろうか。そうした利家なればこそ、戦乱の世を生き抜き、燦然たる文化都市・金沢の基(もとい)を創りえたように思うのである。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。