30年前のアフリカ・マハレ。京都大霊長類研究所のマイケル・ハフマン准教授は、1頭の雌のチンパンジーを観察した。食欲がなくうまく排便できない。眠るばかりで、明らかに病気だった。ある時、ベラノニアというキク科の植物を食べ始めた。とても苦く、普段は口にしないのに解せない。しかし翌日に疑問は氷解した。走り回れるまでに体調が回復したのだ。「チンパンジーも薬草を食べる」。そう直感した。
■チンパンジーも薬草摂取
ハフマン准教授は後に、この事例をチンパンジーの「自己治療行動」として世界で初めて報告した。以降、ほかのチンパンジーも、体調を崩した時にだけベラノニアを食べることが観察された。さらにベラノニア以外でも、表面がざらついた葉を丸めて飲み込んで腸内の寄生虫をかき出していることが分かっている。
「良薬口に苦しという諺があるように、おいしくない物を、体調を回復させるために食べることは医療に通じます」。ハフマン准教授は説明する。
人間の社会では医療が高度に発達し、風邪などの感染症や生活習慣病、がんに至るまで多様な治療法がそろっている。西洋医学の祖は紀元前5世紀頃のギリシャを生きたヒポクラテスとされるが、薬草や外科手術の使用はさらに遡り有史以来、医療は人とともにあったと言える。そんな私たちの暮らしに不可欠な「医療」は動物にも見られるようだ。
しかしハフマン准教授は人間とそのほかの動物で決定的な違いがあると指摘する。体調を崩したほかの個体のために、薬草を持って食べさせることはしないという点だ。「薬草だけでなく食べ物も、チンパンジーがほかの個体に直接渡すことはありません」
医師や看護師ら医療関係者は、患者という他人のために治療を施す。医療の本質にも関わる点で、人間とチンパンジーは大きく異なる。一方で、チンパンジーの行動からは、人間が学べることもある。
■病気やけが 悲観せぬ感覚
霊長類研究所の中で、ほかのチンパンジーとは離れて1頭だけで暮らしている雄がいる。36歳のレオだ。
レオは2006年9月、原因不明の脊髄炎を発症した。当初は首から下が動かず、寝たきりになった。床擦れもできた。しかし目が覚めている時のレオは、口に入れた水を人に吹きかけていたずらするなどいつも通り。「人間のように、未来に不安を覚える様子はなかった」。同研究所の林美里助教は振り返る。今も足がうまく動かないが、手を使って自力で歩けるようになった。
レオは隔離が長いため、同研究所で暮らす群れに戻すことは難しいが、動物園では、片腕の肘から先がないチンパンジーが群れの中で生活するケースが報告されている。ほかの子どもがその肘につかまって遊んでも、特にいやがらない。「ほかと違う体だからといって、こだわることなく接している。『差別』がないのはうらやましい」。林助教授がふと漏らした。
病気やけがに悩まされるのは、チンパンジーも人間も変わらない。ただ他人を思う想像力を持った人間は、大切な誰かを失いたくないという願いから医療を発展させてきたのかもしれない。一方でチンパンジーは病気やけがを「忌むべき物」と捉えず、悲観することは少ないようだ。どちらが病気やけがとうまく向き合っているのか。一概に言えないのではないだろうか。
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1948年12月、今西錦司ら京都大の研究者が宮崎県の幸島でニホンザルの調査を始めたことから日本の霊長類学は始まったとされる。70年の歴史を刻む間、ニホンザルの芋洗い行動の発見からチンパンジーの「心」の解明まで世界をリードする成果を上げてきた。研究で明らかになった霊長類の多様な生態は、人間に何を教えるのか。「家族」や「平等」「暴力」といった現代人が抱える課題を、サルの視点から考える。
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