日本とオーストラリア両方で会社を立ち上げ、日本全国の地場産業や職人の技術を紹介する事業を立ち上げた女性がいる。経済産業省の外郭団体の職員という安定した立場を捨てて、25歳で独立した想いとは。
メルボルンの中心街にある商業ビルのアトリエの一部を貸し切り、予約制のビジネス向け展示商談会を開催。取引がある56社のうち23社の商品を持ち込んだ。
「ここに展示しているものは全て、私を信頼して販路開拓を任せてもらっている作り手さんの商品なんです」
8月、真冬のオーストラリア・メルボルンで、開場時間前の早朝に訪ねた展示会開場を案内してくれたのが、合同会社Simply Native代表の松元由紀乃(28)だ。その声と表情は自信に満ちていた。
日本とオーストラリア両方に会社を立ち上げ、東京とシドニーを拠点に日本全国の地場産業の商品や職人の技術を紹介する活動をしてきた。今回、初の試みとして、既存の展示会への出展ではなく、自社単独の展示会をシドニーとメルボルンで開催。これまでの営業努力が実り、3日間の会期中、朝からほぼ隙間なく商談で埋まっていた。
中小企業支援機関からあえて独立
中央は、京都の熊谷聡商店の「花結晶」という結晶釉を用いた磁気のお菓子入れ。1935年創業の同社は京焼・清水焼を企画開発する。
2016年1月、25歳の時、松元は新卒で就職した中小企業基盤整備機構を退職。中小企業を支援する経済産業省の外郭団体である同機関で、彼女は日本の地場産業やファッション関係のメーカーの海外展開支援を手がけていた。就職のきっかけは学生時代のバックパック旅行だという。
「就活前に行ったカンボジアで日本のプレゼンスが全然ないことにショックを受けて、日本企業の海外支援に興味を持つようになったんです。その中でも中小機構は国の唯一の中小企業支援機関で、99.7%を占める多種多様な中小企業を手厚く支援しているイメージがあって、日々勉強し続ける環境が果てしなくて楽しそうに思った」
日豪を行き来する松元。「冬服と夏服を常に用意しなくてはならず大変」と笑う。
1985年生まれの陶芸家、和田山真央(まさひろ)の作品。企業だけでなく、作家の商材も扱う。
中小企業の中でも、日本各地の地場産業や伝統工芸の職人との仕事に携わってきた彼女だが、実は生い立ちも伝統工芸との縁が深い。奄美大島にある実家の父親は、高級な絹織物として知られる大島紬の職人をしており、伝統工芸は幼少期から身近に存在していた。
生い立ちと職場経験が重なりあったことが、独立のきっかけだ。
「職場にも恵まれていたけれど、全国のものづくりに関わる人と出会う中で、次第に子ども時代、職人の父親についてまわっていた記憶が思い起こされて。ものづくりや職人さんに関わる仕事を一生したいという気持ちが強くなってきたんです。安定していたからこそ、人生が既に決まってしまった焦りのようなものを感じ、20代後半の大事な時期を無駄にしたくないと思いました」
「出口」を作る。それが自らの役割
井助商店は約180年前に京都で漆商として創業。1996年から海外展示会に参加、2014年には新たな漆器ブランド「isuke」を立ち上げた。
中小機構での仕事や実家への帰省を通じて、伝統産業の後継者不足などの問題を目の当たりにしていたが、「私なりに工芸に対して何ができるか考えた時に、語学を生かして海外に販路の『出口』を確保することだと考えるに至った」と言う。
オーストラリアは渡航回数も多く、以前働いていたこともあり、海外販路の開拓先として自然な選択肢だった。欧米に比べて、日本文化や商品展開の潜在性も高く、可処分所得も高い、魅力的な市場でもある。
Simply Native社の重点商材は、テーブルウェア、建築資材、インテリア商品など。主にレストランやホテルなどといったホスピタリティ業界に向けてのB2B顧客の開拓に注力している。昨年12月には、「一風堂」グループのシドニー新店舗「Gogyo Surry Hills」店のテーブルウェア、内装品を提案し、島根県の石州瓦など全国13の作り手の商品の導入を実現した。
愛媛県内子町の五十崎社中が手がける手漉き和紙の製造工程。商品だけでなく、こうした製造工程などを写真などを紹介する。
現在、松元は1、2カ月のペースで日豪を行き来している。日本とオーストラリアは時差もほぼないため、両国でビジネスをすることにストレスはないという。振込などの各種手続きも基本的にインターネット経由でできてしまうため、困ることはない。逆に、「夏のシドニーで冷えたビールを楽しんだ翌日に冬の東京で震えながらおでんと熱燗を飲んだりできる」と季節が真逆の2拠点の往来を楽しんでいる。
多拠点生活で自らの働き方の軸を選ぶ
2018年10月にはシドニーのクラフトウィーク公式イベントとして、有名イタリアン「LuMi」とのコラボを計画中。
多拠点で、かつ異文化の異なる業界の架け橋となるという働き方について、「2つの異なる価値観の間で自分の軸を選べるのは良いことだと思う」と松元は言う。「仕事に対する丁寧な姿勢は日本から、ライフスタイルはオーストラリアから学びたい」
文化の違いを踏まえ、松元は商談やプロジェクトでの具体的な工夫もしている。日本の伝統工芸の世界では、感覚や主観的な予想に基づくものが多いが、オーストラリアでは数字やデータが重要。例えば、「かなり頑丈な素材」という表現ではなく、「300年は品質は問題ない」というように、可能な限り数量的なデータに置き換えて商談をしている。
日豪それぞれのクライアントの業界や文化など、異なる文脈を理解し、架け橋という役割を着実に果たしている松元。
「一過性ではないビジネスモデルを確立したい。(シドニーに)オフィスと倉庫は確保できたので、次の目標は路面のショールーム」
さらなる野望を明らかにした。
(文・撮影、ナカタマキ)