
『シーナ&ロケッツ』鮎川誠さん
「運命は与えられるものではない、自分で獲得するもの」
─衝撃だった。与えられたことをやってるやつと、心から夢を追うやつは違う。
「私も、レコードが作りたい。歌いたいの」
「そんな素敵なこと、考えたこともなかった。そのとき、俺、すごい素敵な夢もろたんよ」
あさもやの湖に
水晶の舟を
うかべて
ちょっとだけ
ふれる感じの
口づけをかわす
◇ ◇ ◇
「演奏しているとき、お客さんが聴いてくれているのか、とても気になって、ドアが開くたびに本能的に目がいく。悦子が青いパンツ・スーツで入ってきたとき、“わっ、カッコいい”と目ば奪われた」
「ジョン・レノンみたいなヘルメットをかぶり、丸い眼鏡をかけて、ピース・マークのついたアーミー・コートを引っかけ、てっきり外国人かと思った。キース・リチャーズよりカッコいい。これが彼との出会いでした」
「荒々しいギタープレーに、彼の魂がこもり、ギターを弾くのが楽しくてたまらない、という彼の強い思いが私に伝わり、まるで吸い寄せられるように、私は彼を見つめた」
「演奏が終わり、2階の楽屋に戻ってからもずっと下で待っている女の子のことが気になり、階段を下りて“何しようと?”と聞くと“ギターの人紹介して”。それで2階に向かって“マコちゃん、この子があんたのこと好いとるよ”と声をかけたんだ。マコちゃんは奥手やから、僕が声かけなきゃ何も始まらなかったな」
「なんで、そげん音楽に詳しいと? もっと話をしたいっちゃ。
家出少女と同棲生活
「オーダーを取りに行くと、メニューも見んと“牛乳”と言うので、“ミルクですか?”と聞き返すと“牛乳でよか”とつぶやいて、ポケットからコッペパンを取り出してムシャムシャ食べてる。そんなマコちゃんの照れた顔が忘れられない。仲よくなり、新しいLPを買うとマコちゃんの家に行ってよく一緒に聴きました。僕が42年も輸入レコードショップをやり続けてこられたのも、マコちゃんたちとブルースやクラシック・ロックを聴き込んできたおかげです」
「ギターを教えてもらうために、僕もしょっちゅうバイクに乗ってアパートに通いました。僕らはあのころから50年近く、お酒も飲まずに顔を合わせれば朝までセッション。お酒を飲むと今日が終わってしまう。そんなのもったいない。マコちゃんは今も昔も探究心の塊。永遠のロック少年です」
「心配しないで、楽しくて 自信満々で生きていますから」
「一緒に帰ろう」
「いや!」
「一緒に暮らし始めたときは、高校生とは思わんかった。大人っぽい雰囲気やから22、23歳かち思うとった」
「僕がフーテンなどではなく、九州では誰でも知っている名門・九州大学の学生だとわかって、お母さんの好感度も上がったち、悦子は言うとった」
息子ひと筋の母に愛されて
「一緒にアメリカに行こうと、父に懇願されていたようですが母は弟妹のことが気がかりで、首を縦に振りませんでした」
「父とは帰国後も月に1度、ローマ字で文通していました。ボクが“切手を集めとる”と書くと、世界の珍しい切手をどっさり送ってくれました」
「6畳ひと間でしたが、父に買ってもらったシンガーミシンで、母はボクの洋服をハンチングからチョッキまで、すべて縫ってくれました」
“ビルル”に憧れ初ステージへ
「父がプレゼントしてくれたラジオと蓄音機が部屋にあり、父が置いていったフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードがアメリカとの最初の出会い。やがて、ラジオから流れるレイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』を聴き、ゾクゾクするような魔力に魅せられ、もう1回聴きたくて久留米中のレコード店を探し回って手に入れました」
「初めてビートルズを耳にしたのがこのFEN。DJが“ビルル”と発音していたので翌日、学校で友達に“お前、知っとうか。あのビルル”と話したところ、隣の席の生徒の弁当を包む新聞紙を見て、そのバンドの名前がビートルズだと知りました(笑)。R&Bよりも若々しく激しくて、心を奪われました」
「マコちゃんの家に遊びに行って偶然、机の中にしまってあった成績表を見たら800人以上いる生徒の中で成績が1番。でも、そんなことを鼻にかけることもありませんでした」
「友達に誘われて入った新聞部に、エレキギターを弾ける人がいて、放課後は部室にこもってビートルズなどを練習していました」
「ビートルズのジョージ・ハリスンのギターに似たテスコEP8を4500円で売ってくれるという友達がいて、修学旅行の積立金を“一身上の都合で行けない”と偽って返してもらい手に入れました」
「本屋で音楽雑誌を立ち読みしていたら、操君が“マコちゃん、俺ドラム叩きよるんや。今から練習に行くけど、見に来んね”と声をかけてきて、行ってみると駄菓子屋の離れの納屋が秘密のスタジオやった。その日初めて会った誰かもわからない人と即興で音楽ができあがっていく。まるでマジックみたいやったね」
「『ロックンロール・ミュージック』から始まるセットリストは、ビートルズの来日公演とほぼ一緒。“エレキは不良”といわれた時代に風穴をあける画期的なライブ。ものすごくドキドキしたのを覚えています」
「目の前にプールと観覧席があり、マコちゃんの中高の友達が100人以上も勢ぞろいして見守っていました。当時から人気がありましたね」
双子の娘を残して上京
「ビートルズもストーンズもブルースからインスパイアされている。ブルースをやりたいという思いが日を追うごとに強くなり、1970年『サンハウス』を結成しました」
『サンハウス』は“日本のリバプール”と呼ばれた博多に誕生した本格的なロックバンド。のちに「めんたいロック」と呼ばれるムーブメントのさきがけとなる。
「マコちゃんの出現は衝撃でした。それまでのバンドは洋楽ナンバーをコピーするのが精いっぱい。ところがアドリブはもちろん、自在に名曲を操る。いってみれば、高校野球レベルだった博多にメジャーリーガーが現れたようなもの。『サンハウス』のライブに来た観客は食い入るようにマコちゃんのプレーを見つめていました」(前出・松本さん)
『サンハウス』がデビューした翌年、鮎川の身に思いがけないことが起きる。
「悦子のお腹に赤ちゃんが宿っとるのがわかって、両家が集まり“こら結婚させないかんばい”となった。この2年後、母はがんに侵され59歳の若さで亡くなってしまったけど、結婚したこと、子どもが生まれたことをすごく喜んでくれて、ボクの生涯で1度だけの親孝行やった」
「福岡におっちゃダメばい。やっぱ東京でね、勝負かけんとね。そしたら全部ハッキリする」
「耳が痛かった。未練タラタラがいちばんカッコ悪い。お父さんの叱咤激励があって東京で勝負する決心がついた」
がん闘病中もライブに立った妻
「ロックバンドはテレビに出ない時代。でもボクら30歳になって組んだバンド。自分たちのスタイルで演奏できるなら、テレビでもなんでも出る。若松の両親、子どもたちの通っている幼稚園でも応援してくれる。批判の声は耳に入らんかったね」
「小学校のころ、普通の家とは違うなと気がつきました。運動会や授業参観も両親はライブのときと同じ格好。母はボディコンを着て緑のおばさんをやっていましたから(笑)。その反面、どんなに疲れていても家事など手を抜かない。古風な頑張り屋でもありました。
父はとても博識で、好奇心旺盛。何を聞いても答えてくれる身近な先生みたいな人。ライブ以外は父と母はずっと一緒に家にいる。ラブラブでしたね」
KKET RIDE』をリリースした直後、悦子が病に侵されていることがわかった。
「悦子はハッキリがんと共存して、自分の音楽を続けますと先生に言いよりました。ボクも子どもたちもそげん言うた悦子を誰も止めんやった」
「悦子の父は入院する前日まで、祭りの太鼓を叩いていました。そんな父が入院して間もなく身辺整理をする時間もなくあっけなく亡くなった。それなら家で好きな酒を飲んでいたほうがよかったのではないか、という思いがありました」
「立つことができなくなった悦子は、蓮の花のようなソファに座ったままカッコよく10曲歌い切りました。
ライブでハイヒールをはいてステージを走り回る悦子は、これまで何度も奇跡を起こしてきました。だから天国に行くとは、亡くなる寸前まで思わんやった。メンバーにも言わんかったし、本人も“マコちゃん、待っときね。また歌うけんね”言うとったし、一発大逆転する、そういうすごい人ち、いつも思うとった」
亡き妻に誓う“ロック”な最期
「悦子が用意してくれた安心できる空間でずっと生きてる。4年たつけど、まだ生活のなかに悦子が溶け込んでるいうか、何ひとつ困ることがない。
だから、悦子が死んだあとも旅に出ようとか思わなくて。そういうのわかるかな……」
「ホッペを触って」
「喪失感に襲われることもあるけど、今はもう死を受け入れてる。やるだけやった。頑張ったね、見守ってねという気持ちやね」
「バンド解散が頭をよぎったこともありましたが、ボクがギター弾かんと、メソメソしたらきっとがっかりする。誰かに言われて作ったレコードは1枚もなくて、自分とシーナで作ったものに誇りをもってるちゅうか。一緒に本気で命をつぎ込んできた音楽。そやけん、目ん玉が黒いうちはぶっ飛ばすよ」
「ロックはタイムレス。ストーンズだってチャック・ベリーだって、ロックは今の音楽。心のワンジェネレーション。あのころがよかったじゃない、今が最高」
◇ ◇ ◇
─アンコールナンバー
「私の夢はこのバンドでずっと歌うことです。聴いてください。『YOU MAY DREAM』」
(取材・文/島右近 撮影/坂本利幸)
しま・うこん ◎放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。