12月21日。成田空港第2ターミナル。人もまばらな午後9時の出発ロビーに、浦和MF阿部勇樹が現れた。
「2010年のW杯直前に、グラーツでイングランドと親善試合をしたときに、現地で会って以来ですね。もう8年近くになりますか…」
そう言って、チェックインを済ませる。握り締めたチケットは、ドーハ経由、サラエボ行き。恩師、イビチャ・オシムさんを訪ねる旅の始まりだった。

フライト12時間。ようやく経由地ドーハに着いた。ここからサラエボまで、さらに5時間。
同行者から「これでも読む?」とオシムさん関連の書籍を勧められた。しかし、阿部は笑って手を振る。
「オシムさんの本は、全部と言っていいくらい読んでますから」
07年11月、オシムさんは代表監督在任中、脳梗塞で倒れた。そして職を辞し、志半ばで日本を去っていた。しかし、それから10年の間、阿部はひとときも恩師を忘れることはなかった。

「来ちゃいましたね。本当に。来れたんだ」
白い息とともに、そうつぶやく。
成田出発から22時間、現地時間午前11時過ぎ。阿部はサラエボ空港に到着した。

阿部はオシムさんの"足跡"をたどることにした。まずは恩師がプレーし、監督も務めたクラブ、ジェリェズニチャルのホームスタジアムへ。
1921年設立の歴史あるクラブ。記者会見場には、無数のトロフィーが並んでいた。そして飾られた写真、肖像画の中には、懐かしい顔があった。「ああ、オシムさん」
そして阿部はもうひとつ、重要な"痕跡"をスタジアムに見つけた。
崩れたコンクリートの壁が、あえて残されている。同行するかつての日本代表通訳、千田善さんが説明した。「ここは内戦の最激戦地だったんです。文字通り、このピッチ自体が戦場でした」

1986年、オシムさんはユーゴスラビア代表監督に就任した。
"天才"サビチェビッチ。後に98年W杯で得点王を獲得するシューケル。そして日本でもプレーしたストイコビッチ。さらにはミハイロビッチ、ヤルニ、ユーゴビッチ、プロシネチキ。オシムさんのもとで代表デビューした選手たちは、そろって世界トップクラスの選手になった。
90年W杯。ユーゴスラビアはマラドーナ率いるアルゼンチン相手に退場者を出し、PK戦の末に敗れた。だが、実力は誰もが認めた。8強止まりにもかかわらず「今大会最高のチーム」と評する声まであった。
オシムさんの名声も、国際的に高まった。名門レアル・マドリードからも熱心なオファーが寄せられるほどだった。
しかし、そんな快進撃と並行して、多民族国家ユーゴスラビアでは内戦が激化していた。
クロアチア、スロベニアなどの出身選手の中からは「ユーゴ代表ではプレーできない」とオシムさんにわびて去るものも出てきた。
そして92年。オシムさんの故郷、サラエボをセルビア人勢力が包囲した。

翌日。オシムさんとの約束は午後だった。阿部は千田さんに願い、内戦で亡くなった人々のお墓参りにでかけた。
移動の車は、なぜか84年サラエボ五輪の開会式が行われたオリンピック・スタジアムの敷地の中に入っていく。
無数の犠牲者を生んだ内戦で、サラエボ市内には墓地が足りなくなった。そこで、オリンピック・スタジアムのサブトラックが、墓地として転用されることになったのだという。
ふるさとが戦火に包まれた。そして、妻のアシマさんが、その中に取り残されていた。
それでもオシムさんは、任されたユーゴスラビア代表監督の仕事を全うしようと、サラエボに戻らずベオグラードにとどまった。
ピッチ上に民族の対立はない―。さまざまな圧力にも屈せず、公平な選手起用を続けた。
しかし、国家が分裂する中で、サッカーの代表チームだけを「ユーゴ」として束ねておくのは、いかにオシムさんでもできなかった。
そして何より、サラエボと家族をそのままにはしておけない。
92年5月。兼任したパルチザン・ベオグラードでカップ戦優勝を果たした試合後、オシムさんは代表とパルチザンの監督を辞すると発表した。
選手たちとの最後の食事の席。後にレアルの得点源となるミヤトビッチらが、民族の垣根を越えて「残ってくれ!」と涙で懇願したという。
代表チーム自体も、優勝候補と目されていた同年の欧州選手権への出場が認められなくなった。オシムさんのつくった"世界最強"チームは、まぼろしと消えた。
それでも、戦火の中で最後までプロの仕事を貫いたオシムさんには、世界中から敬意が寄せられることになった。
「本当に、すごい方です」
スタジアムを訪れ、戦禍のあとをたどる中で、阿部はそれを再確認することができた。

午後2時、サラエボ市内のホテル。
予定の刻限は30分ほど過ぎていた。気温は氷点下1度。しかし阿部は、通り沿いで待ち続けていた。
行き先を間違っていたタクシーが、ようやく車寄せに滑り込んできた。「あれか!あれだよね!」。声が思わず上ずった。




大きな身体を丸めるようにして、"待ち人"が助手席から出てきた。
元日本代表監督、イビチャ・オシムさんは76歳になっていた。しかし"オシム節"は、在任当時と変わらなかった。
「ようやく来たか。若返ったように見えるが、ちゃんとアタマの中身は使っているのか?」
そう言って、にやりと笑う。阿部は思わず破顔した。興奮気味に、同行スタッフに顔を寄せる。
「元気じゃん!変わらないじゃん!」


アジアチャンピオンおめでとう。しかし、クラブW杯はどうだったか…(笑い)

開催国枠のアルジャジーラに負けました(苦笑い)

出ていたのはレアルに、グレミオに、パチューカか。もっとそこでたくさん試合ができれば、勉強になっただろうなあ。で、家族は元気か?

はい!元気です。長男はもう10歳になりました。

そうか、それはよかった。まあ、お前が子どもみたいだけどな。子どもと一緒になって遊んでいるんだろう。



子どもが3人いるみたいだと、奥さんからよく言われます。

選手はみんな元気か?ケンゴはどうしてる?相変わらず体重20キロくらいか?

細いと言っても、さすがにそんなことはないでしょう(笑い)。でも、変わってないかな、あの人は。

君ももう少し足が速ければ、本当にいい選手だった。スーパープレーヤーだった。

オレ、足速くないからなあ。そこだけはどうにも…(苦笑い)

その代わり、戦闘能力があったから、いい選手になった。千葉では数年かけて、少しずついいプレーをする選手が増えた。

一番鮮明に覚えているゴールって、ありますか?

阿部のゴールです、と言えばいいのか?

いやいやいや(苦笑い)

就任したシーズンの開幕戦、東京ヴェルディが相手だったが、終了間際に坂本が間違ったような正確なクロスを入れて、チェ・ヨンスが決めて勝った。ベストゴールとは言えないが、あれから全てが始まった。そこからのゴールは、全部覚えているぞ!もちろん、君のゴールもだ。

他の人のゴールは僕も覚えているんですけど、自分のゴールはそんなに覚えていないかも…

早く思い出せ!教えておくが、こういう対談では、ちゃんと思い出話をしなければならないものなんだ!



かたわらで、付き添いのアシマ夫人が目を細める。
「相変わらず、先生と生徒みたいね。阿部くんが監督になるまで続くのかしら」。
それに合わせたかのように、オシム監督が"本題"に入った。
「それで、君はいつ、監督になるんだ」

阿部は思わず、居住まいを正した。8年ぶりの再会。だがオシムさんは旧交を温めるだけの席にするつもりはなかった。
後編へ続く―。

後編は次週1/25(木)公開予定です。乞うご期待!
(取材協力、千田善 取材・文、塩畑大輔 撮影、松本洸)