−なぜ今、思い出すのだろう?
若く、それゆえ傲慢だった同級生・相沢里奈の、目を声を、ぬくもりを。
これは、悪戯に交錯する二人の男女の人生を、リアルに描いた“男サイド”のストーリー。
商社マンらしくモテ男人生を送る一条廉は、27歳で3歳年上の美月と結婚。シンガポールで新婚生活をスタートさせる。
しかしその心には、特別な思いを抱く大学時代の同級生・里奈がいた。
物理的な距離が開くのとは逆に、少しずつ心の距離を縮めていくふたり。そんな中、大学サークルの10周年パーティーに出席した廉は、里奈からの誘いで密かに会場を抜け出す。
ついに一線を超えてしまったふたりは、止めようもなく禁断の恋に溺れるのだった。
−また里奈に逢える。
再び日本への出張が決まったとき、まず思い浮かんだのはそれだった。
そして次に考えたことは、10周年パーティーの賞品でゲットしたリッツ・カールトン東京の宿泊券の存在。
会社デスクの引き出しを開けて封入りのそれを確認し、僕は無意識に頬が緩むのを止められなかった。
次の帰国で、里奈と使おう。
最初からそのつもりで、ここにずっとしまっておいた。
妻の美月にはそもそも10周年パーティーがあったことすら話していないから、宿泊券があることも当然、知らせていない。
常識で考えれば妻を誘うのが筋なのだろうが、しかしこの時の僕に、もはや躊躇も迷いもなかった。
里奈と一線を超えた直後は、確かに美月に対する罪悪感で苦しんでいたはずだ。しかし結局、僕と里奈の心は再び近づいてしまった。
それはまるで磁石が引き寄せられるような無抵抗な成り行きであり、自然の摂理ではないかというほど当たり前の帰結に感じられた。
それゆえ、自分たちのしていることが過ちであり、俗に言う“不倫”以外の何物でもないことに、僕も里奈も気づくことができなかったのだ。
再び日本への帰国が決まった廉。しかし美月にそれを告げると、思わぬ返答が。
逢瀬の画策
夜、美月の姿がバスルームに消えたのを確認して、僕はそっとスマホに手を伸ばす。
里奈に、早く帰国日を伝えたい。
夕食のあいだ中、美月が語る“今日いちにちの出来事”を聞きながら僕は、はやる思いを必死で押し込めていた。
“来月2週目の後半、東京出張になりそう。里奈の都合はどう?”
いつもチャットをする時間より少し早いタイミングだったが、指先を離れたメッセージはすぐに既読となり、僕は画面を見つめたまま返事を待つ。
すると数秒ののち、その日程なら大丈夫だというメッセージが届き、僕はまるで初デートの約束を取り付けたかのように心を弾ませるのだった。
“じゃあさ、リッツの宿泊券使おうよ”
恋人同士であれば当たり前のこんなやりとりを、僕たちは今になって楽しんでいた。
10年以上ものあいだ、ずっとできずにいたこと。それがようやく “友達”という鎖から放たれ、これまで触れられなかったものに手を伸ばすことが許されたのだ。
海を隔て遠く離れていることも、二人の深い絆の前では関係ない。
“ありがとう。嬉しい”
里奈からメッセージが届くたびに身体は熱を帯び、心を奪われていく。それゆえ僕は自分で気づくことができなかった。
保ち続けていたはずの警戒心が、徐々に失われていることに。
「誰とLINEしてるの?」
思いがけず近くで、美月のはっきりとした声が聞こえ、僕は息を飲んだ。
視線を上げると、バスタオルを巻いたままの美月が、いつのまにか僕の目の前に立っている。
「え、いや…」
口ごもりながら耳を澄ますと、バスルームからシャワー音が聞こえた。…そのことに気づいた瞬間、僕の背中はすっと冷たくなる。
−わざと…か?
美月はわざと、シャワーを出しっぱなしにしたまま出てきたに違いなかった。僕に、悟られぬように。
「違うよ、LINEじゃない。来月にまた東京出張が決まってさ、泊まるホテルの手配をしてただけ」
そう言いながら僕が急いでスマホ画面を落とすのを、美月は沈黙のままに目で追った。
強引で下手くそな嘘だと自分でも思ったが、しかし妻が意外にも「そう」と返事をしたので、僕はホッと胸をなでおろす。
しかしもちろん、それで終わるわけはない。
彼女は引き続き静かな口調のまま、どこか試すようなそぶりで、ソファに座る僕の顔を覗き込むのだった。
「ねぇ、私も一緒に帰国していい?久しぶりに実家にも帰りたいし、友達にも会いたいから」
美月の言葉に、僕は一瞬目眩を感じる。しかし決して、動揺を悟られてはならない。
「ああ…そうだよな、そうしよう」
どうにか平常心でそう答えると、僕は妻に必死で作った穏やかな笑顔を向けた。
すると、満足したのか諦めたのか。踵を返し、美月は再びバスルームへと戻っていった。
そんな妻の白い背中を見つめながら、僕は心の中でそっと呟く。
−里奈との夜だけは、なんとかして都合つけなくては。
自分でも呆れてしまうが、此の期に及んでも、僕の頭の中を占めているのは里奈のことだった。
そして次の瞬間、僕はもう一つ、ある小さな引っかかりに気がついた。
普段なら必ず、強気なキャラに似合わぬ愛らしいスタンプを添えてくる里奈なのに、この日はやけにさっぱりとした終わり方だった。
どうかしたのだろうか。
気がかりではあったが、しかしもう今夜はこれ以上スマホを触るのは危険だ。
僕は念のために里奈とのトークルームを削除しLINE通知を切ってから、やましいことなどないのだと言わんばかり、スマホをテーブルへと無造作に置いたのだった。
廉と一緒に帰国することになった美月。彼女が東京へ向かう目的は一体?
そして、帰国の日。
「じゃあ、また土曜にね」
夕刻、ともに降り立った羽田空港から浜松町まで移動したあと、美月はボストンバッグ片手に僕に手を振った。
僕はこれから渋谷のセルリアンに向かい、彼女は千葉の実家へと向かう。
出張で来ているため、平日は当然ながら仕事があるし、夜の予定もほぼ接待や会食で埋まっている。
事前にそう伝えると、美月はそれなら…と、週末まで千葉の実家に戻ることを自ら僕に提案したのだ。
その申し出に僕が心から安堵したことは、言わなくてもわかってもらえるだろう。
…里奈とは、金曜夜にリッツ・カールトンで落ち合う約束をしていた。
つまり僕が里奈と逢瀬を楽しむその間、妻は遠く離れた千葉の実家で過ごす。
多少なりとも妻が僕を疑っていることに、気づいていなかったわけじゃない。あとから考えてみれば、少しでも頭を働かせ、あまりに都合よく行き過ぎていることに違和感を感じてもよかった。
しかし熱に浮かされた僕はこの時、自分が無理矢理に画策するまでもなく安易に事が運んだことを、ただ素直に喜んでいたのだった。
「お義母さんとお義父さんに、よろしく伝えて」
美月を追いかけるように、そう声をかける。
しかしその言葉は耳にどこか懺悔のように響き、僕は動揺を隠すため「気をつけて」と大きく手を振った。
10年変わらない、里奈への思い
約束の金曜日。
東京に戻っていることを知った同期や先輩からの誘いを振り切ってオフィスを後にした僕は、一足早くリッツにチェックインし、部屋で彼女の到着を待った。
不思議なもので、里奈をただ待つ時間さえも愛おしく思う。
そんな気持ちを抱くのは、それこそ学生時代の恋愛以来じゃないかと考え至り、僕はひとり苦笑いをした。
実際、僕の里奈に対する思いは昔から何も変わっていない。それは今、一線を超えてしまった後でさえも同じだった。
手に入れたくてたまらないのに、触れてしまうのが勿体無いような。傍にいるのに掴み所がなくて、抱きしめたそばからこぼれ落ちていってしまうような。
僕にとって里奈はずっと、特別で、大切で、そしてどこか浮世離れした存在だったのだ。
しかしそんな僕にも、いよいよ理解せざるを得ない時は近づいていた。
…こうして彼女と何度も逢瀬を重ねる夜は紛れもなく現実であり、決して許されぬ罪であるということを。
▶NEXT:9月11日 火曜更新予定
“不貞”という名の純愛を貫こうとする二人。しかし当然、罪は見過ごされる訳はない...