ナルシシズムという病に抗う ――モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』劇評

2018年10月31日 13:24 note(ノート)

第62回岸田國士戯曲賞にノミネートされた松村翔子が主宰する演劇ユニット、モメラス。新作『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』を、9月20日から24日まで北千住BUoYで上演しました。
「あなたにとってお金とは何ですか?」という問いをテーマにした本作品。『悲劇喜劇』11月号(10月6日発売)より「演劇時評」の評者を担当している堀切克洋氏が読み解きます。 (冒頭写真撮影:月館森)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本作は、「鳥の劇場」による若手演劇人のためのバックアップを得てつくられた同名の作品がもとになっている。初演は2018年1月だが、これに加筆・修正を施して上演されたのが、東京ヴァージョンだ。北千住BUoYという、コンクリート剥き出しの冷ややかな小空間が寄与するところも大きいが、テーマ、劇作術、俳優の身体性、舞台空間が一体となっているという点にまず、劇作家/演出家としての松村翔子(1984年生まれ)の鋭い問題意識が感じられる作品だ。
◎〈典型〉を紡ぎ出す

【撮影:月館森】
 この長いタイトルの作品は少なくとも表面上、「お金とはなにか」という問いをテーマとしている。モメラスはこの作品のために、演出家と俳優が実際に街へ出て1,000人へのインタビューを行った。劇中では、いわゆる「幕間劇」としてこれらのインタビューの一部が、さまざまな演劇的仕掛けをともなって――たとえば、舞台上の俳優がインタビュアーとして映像に現れたりしながら――用いられるが、街のひとびとは「命の次に大切なもの」だ、「誇り」だといった具合に、つぎつぎと紋切型の回答を重ねていく。
https://www.youtube.com/watch?v=utOBJ9BMBIg
 ただしこの作品は、いわゆる「ドキュメンタリー演劇」ではない。舞台上では、このようなインタビューという作業をもとに、8人の登場人物――「不妊症の主婦」「美容整形にはまるOL」「銀行ローンの受付担当の派遣社員」「仮想通貨に夢中のデイトレーダー」「空想の日記をつける国語教師」「性自認に苦しむ中学生」「定住できないデリヘル嬢」「偽札を作る芸術家」――がみずからの生活を語っていく。
 これら8人の登場人物たちはいずれも、現代社会の宿痾が局所的に発現したような〈典型〉としての人物像であり、これらの極端な人物たちが少しずつ交錯しあうところに、まずは劇作としての面白さがあるといえるだろう。わたしは、社会学者・岸政彦が街の片隅で生きる人々の肉声を収めた『街の人生』(勁草書房、2014年)のことを思い出した。この本の最後に登場する「西成のおっちゃん」のセリフなどは、そのまま一人芝居にしてもいいほどだ。
◎ふたつの発話形式

【撮影:月館森】
 『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』の人物たちは、形式的にいえば、ふたつのパターンに分けることができる。ひとつは、観客に向かって自身の考えを半ば挑発的に披瀝する人物たち。もうひとつは、会話を通じて社会に対する疑問を少しずつあらわにしていく人物たちである。後者に括られるのは、「性自認に苦しむ中学生の女の子」(山中志歩)や「偽札を作る芸術家」(黒川武彦)だ。舞台上にはマイクが用意されているが、彼らがマイク・パフォーマンスに興じることはない。
 逆に、観客に対して直接的な主張を投げかけるのは、「仮想通貨に夢中のデイトレーダー」(海津忠)や「銀行の高金利ローンの受付担当の派遣社員」(曽田明宏)だ。たとえば序盤で、上下ともに白い服を身にまとったデイトレーダーは、軽薄な口調で「金とはなにか」という自身の考えを滔々と観客に向かって語りだす。「金はエロい、でもエロすぎるから警戒しちゃう」「ビットコイン、あいつはド淫乱だぜ」と、通貨を性愛のメタファーとしてを語るこの男には、よく映る鏡のセールスという怪しい本職があるらしいのだが、自身の姿を映し出す「鏡」は、この作品のライトモチーフになっており、舞台では小道具としていくつかの額縁が鏡に見立てられて用いられている。
 このデイトレーダーが仕事の合間に呼び出すデリヘル嬢の“らっこ”(井神沙恵)は、作品のなかでも重要な役回りだ。ヒョウ柄のコートに、ジーンズのホットパンツ、ド派手なカラータイツを身にまとっている若い女性として単に悪目立ちをしているだけではない。彼女は終盤で、暗闇に包まれた客席の後方からそっと姿をあらわし、「お金はチンコだ、お金は精液の味がする」と自身の意見を述べて観客を挑発するというポジションでもある。
 良識がありすぎる読者のために記しておけば、ヘルスという職種のセックスワーカーである彼女は、口と手と性器を使って男性客のペニスを高揚させ、射精させることによって「健康」を増進させることの対価として賃金を得ているわけで、しかも客から受けとる二万円のうち半分は店に収めなければならないという過酷さをさらりと語ってもいる。そして終幕で、幼少期の性的虐待の経験を告白する彼女は、その体験とセックスワーカーとして働いていることに「因果関係はない」といった直後に「いや、ある」と吐き捨て、観客の単純な判断を退けようとする。
◎挑発する知性

【撮影:月館森】
 “らっこ”が缶チューハイ片手に酔いつぶれているのを公園で発見し、やがて会話をもつようになるのが、「性自認に苦しむ中学生の女の子」の“歩”(山中志歩)だ。このジャージ姿の「少女」は、性的志向で苦しむレズビアン・ゲイ・バイセクシャル(LGB)とは異なり、性自認(性に関する自己認識)において苦しむトランスジェンダー(T)である。
 最近では、ランドセルの色は自由に選べるようになったし、街中のトイレなどでも青/赤と色分けすることは減ってきたが、それでもなお、日本の学校生活は男子/女子の区分にもとづいており、その最たるものは制服である。トランスジェンダーには、性自認が生物学的な性と一致しない性同一性障害もあれば、既存の性別区分の中に自らの性別を見いだせないというケースもある。思春期の子供たちのなかには、性的アイデンティティの揺れのなかでもがき苦しんでいる子たちも多い。
 この作品中の“歩”は、制服を着ることに不快感を抱いており、またクラスメイトの無理解にも辟易している。口先を尖らせてたどたどしく喋る山中の「演技」は、この子供が社会と接点を失う寸前にいるかのようにも見える。“歩”は、公園で小枝を拾っては、それを捨てるという動作をひたすら反復しているのだ。もっとも、いちどは「空想の日記をつける教師」(西山真来)に説得されて学校に行こうとしたものの、なにものにも縛られずに生きることを是とする“らっこ”に、その姿の「醜さ」を指摘され、やはり学校に行くことを断念してしまう。
 ただし、本作は「お金とはなにか」という問いをテーマにしながらも、この中学生の“歩”に関していえば、貨幣経済の外部へと置かれた存在であるがゆえに、必ずしもその筋にはコミットしていない。だからこそ、この中学生という異質な存在が、“らっこ”の一言を受けて制服を着ることを断念したのちに、公園で偶然すれちがった「偽札を作る芸術家」から受け取った偽札をマンションの屋上からばら撒くという場面は、予定調和を巧みに逃れた、約100分の上演時間のなかでもっとも美しいシーンである。
 登場人物どうしを巧みに交錯させて面白い話をつくるだけであれば、ウェルメイド劇の延長にすぎない。が、冒頭に記したように、本作では〈典型〉としての人間がグロテスクに描かれており、しかもところどころに差し挟まれるエピソードに、知的なスパイスが効いていることも観客を引きつける要因のひとつだ。
 “らっこ”が唐突に中原中也の詩を口ずさんだり、デイトレーダーが台湾の大富豪の「名言」を引用してみせたり、あるいは怪しい芸術家とOLが、偽札防止のための技術を滔々と列挙していったりする――といったさりげないセリフは、直接的な筋でないにせよ、間違いなく、登場人物たちの知性と、描かれる社会に十分な奥行きを与えていると言っていい。
◎もうひとつの「ぼんやり」

【撮影:月館森】
 この作品は「お金とはなにか」という問いをテーマにしながらも、何らかの「答え」を提示しようという性質のものではない。もし答えらしきものがあるとすれば、それは、タイトルでも暗示されているとおり、お金とは「ぼんやり」している(=よくわからない)ものだ、というものである。
 冷戦が終わって、資本主義に呑み込まれてしまった1990年代以降の社会では、その「外部」を夢想すること――浅田彰的にいえば「逃走」すること――が、ほとんど不可能になっており、少なくとも都市部で生活する以上は、お金は絶対的に必要である。1960年代に夢想された自然崇拝的遊牧生活は、今日では時代遅れのユートピアにすぎず、わたしたちを十分に救ってはくれない。
 しかも、逃走が不可能なのは「お金」だけでない。もうひとつの「ぼんやり」としているもの――すなわち、〈わたし〉からの逃れがたさを重ね合わせたところに、この作品の大きな主題がある。つまり、「お金とはなにか」という経済学的な問いを、「わたしとはなにか」という哲学的な問いへとズラして重ね合わせたところが、本作のポイントだろう。
 「性自認に悩む中学生」である“歩”は、貨幣経済の外部に位置しているという点で例外的な存在だが、しかし「わたしとはなにか」という問いを正面から抱え込んでいるという点では、きわめて中心的な登場人物なのである。
同様にして、セミロング、白ブラウス、タイトスカートといういたってフェミニンな出で立ちのOLは、「顔のない無様なわたし」という自己認識を抱いていて、給料のほとんどを美容整形につぎ込んでいる。不登校の中学生が通う学校の国語教師は、得体の知れない疲れを慢性的に感じていて、食べ物を変えれば身体=精神は変わるはずだと、ヴィーガン生活を開始する。不妊症の主婦は、すでに不妊治療に400万円もつぎ込んで心身ともに疲労している。
 彼女たちはいずれも、自身の苦悩を他人に明かすことができない。というのも、苦しみの根源は、社会的通念と自己認識のあいだに生まれる「イメージの乖離」によるものだからである。社会的標準から著しく劣っている/ズレているという自己認識が、かえって自己イメージを美化しなければならないという強迫観念へと転化する。彼女たちは、虚構のセルフ・イメージのなかへと「逃走」を図ろうとするのだ。
◎セルフ・イメージという病

【撮影:月館森】
 このような循環的なナルシシズムは、SNSへの依存や、自己PRを求められる就活中の大学生などにも言えることだろう。それらを「病理」として第三者が非難することは、じつに容易いことだが、しかし当事者たちにとっては「逃走/闘争せよ」と言われたところで、「逃げ場がない」のである。
 したがって、「逃走」を「闘争」と読み替えようとする“らっこ”は、ある面においては「時代遅れ」の戦略家である。なぜなら、そのような「戦略」が、資本の餌食になるという悲劇を招き、さらには常態化させてきたことを平成の終わりに生きるわたしたちは知っているわけで、そのような仕方で「本当の自由」が獲得できるとは思われないからである。だからこそ、観客の「憐れみ」のまなざしに抗うように、彼女はあえて過去を語り、煙に巻こうとする。
 しかし、「本当の自由」など、「本当」にあるのだろうか? 
 少なくとも、8人の人物たちが織りなすこの「物語」は、個人的な苦悩の要因を「個人の生」に還元することを求めない。わかりやすくいえば、心理にもとづく近代劇的な発想などとはほど遠く、もはや「個人の自由」などが最初から諦められているようにさえ見える。
 むしろ、この作品がわたしたちに問いかけるのは、現代社会における息苦しさ、あるいは居心地の悪さの原因が、ひとつは(世界)経済に、もうひとつはナルシシズムにあるのではないか、ということである。「個人」を軸に考えれば、世界経済とはそこから(一見すると)最も遠いもので、自己イメージとは最も個人的で秘匿的な部分であろう。
 仮にも、前者を下部構造、後者を上部構造と呼ぶならば、かつてマルクスが語った通り、両者はかならずしも因果関係によって説明できるものではない。本作中に、大富豪とみなしうる人物は登場しないが、基本的には経済活動に関与していない中学生から、投資というゲームに悦楽を感じているデイトレーダーまで、描かれる階層はさまざまだ。しかし彼らは「平等」に病んでいるように見えるのである。
◎現代版「青い鳥」として

【撮影:月館森】
 平成が終焉を迎えることになっている2019年は、消費税が導入されて30年という節目の年でもある。現政権は、三度目の正直で、来年10月には必ず増税することを確約したが、「異次元の金融緩和」も功を奏せず、日本は先進国で唯一、賃金も物価も下落し続けるデフレ基調であることに変化はない。実質賃金も実質消費も下がりつづけている。消費税増税をすれば、過去の事例と同様に、税収がむしろ減るのではないか、という懸念も強い。選挙のことも考慮に入れれば、三度目の延期もありうるだろう。
 なぜ所得税や法人税ではなく消費税を引き上げるのかという問いに対して、財務省が語っているのは、「消費税は税収が経済動向に左右されにくく安定した税」ということだけである。もっとも、人も企業も所得税率が高い国から低い国へと流動してゆく現在の世界では、税制改革=法人税減税が「トレンド」になっており、最たるものはトランプ政権である。2017年12月には、法人税を35%から21%減らすための法案が可決され、好景気を維持している。
 しかし、この世界的流行をもって法人税を下げるべく消費税を上げなければならないと国が考えるなら、少なくとも景気が良くなるまで、しばらく人々は息苦しさを感じながら生活をつづけなければならないだろう。生活保護費が削減され、高額医療費の保健除外が検討され、水道民営化が本格的に動きだしているなかで、この息苦しさから解放される日は「本当」に来るのだろうか?
 奇妙なことに、税収をつかさどる財務省やトリクルダウンを信じる政治家たちと、暮らしを豊かにしたいと願う一般市民のあいだには、ひとつの幻想が共有されている。それは、お金があれば幸せになれるはずだ、というものだ。そのことは、冒頭の1000人インタビューからも理解されるだろう。
しかし、人間が求めているのは、お金ではなく「幸せ」のはずである。この「お金=幸せ」をめぐる冒険は、メーテルランクの「青い鳥」の世界そのものではないか。
 幸福はもはや、世界経済の動向から切り離すことはできない。たしかに財務省の言うとおりで、景気が悪くなれば、法人税や所得税に依存してきた税収は目に見えて減るのだから、現在のままでいいと開き直るのはリスキーではある。しかし、消費税の逆進性が十分に緩和されないまま増税に踏み切るのならば、それは「青くない鳥」を「いずれ青くなるから」とうそぶいて大量に放っているようなものだ。わたしたちは、このフェイクの鳥たちからどうやって「逃走/闘争」すればよいのだろう。
 ひとつの答えは、「お金=幸せ」という等式がもってきたファンタスムを断ち切ることだろう。もちろん、ヒッピー的な原=共同体への回帰とは、まったく異なる仕方によって。
 あらゆる国民は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利を有している。生存権が脅かされるようなことがあれば是正されなければならないが、現代ではさらにセルフ・イメージの桎梏という新しい苦悩の種がここに加わる。
 事実として、性的にも、宗教的にも、文化的にも、階層的にも、障害や病気の有無についても、さまざまな人々が暮らしているというのに、案外、わたしたちは自分以外のことを知らない。社会を構成する人々が出会い、その多様性を可視化するという作業は、たとえば世田谷パブリックシアターの最近の仕事にも見られるように、劇場が担うべき重要な役割のひとつだろう。
中学生の“歩”によってマンションの屋上からバラ撒かれた大量の偽札。これが「最も美しい」シーンであることは、すでに述べた通りだ。
 爆音のパンクロックをヘッドフォンから流し込んで「耳から世界との断絶を図る」派遣社員は、満員電車のなかから、それを一瞬だけ目撃する。「不妊症の主婦」は、偶然そこを通りかかって偽札を拾う。さまざまな偶然が積み重なって街から降ってくる偽札が、彼らを息苦しさからほんのすこしだけ、解放してくれる。
 ここで描かれる「お金」は、交換価値とはまったくべつの価値が与えられ、わたしたちが探すべき「幸せ=青い鳥」の在処を暗示してくれているように見える。

堀切克洋(ほりきり・かつひろ)1983年、福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。専門はアントナン・アルトー研究、舞台芸術論、表象文化論。2016年7月より「日本経済新聞」夕刊劇評担当。俳人としても活動し、2017年第8回「北斗賞」受賞。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社、2010)、上田洋子・内田健介・永田靖編『歌舞伎と革命ロシア』(森話社、2017)、共著に毛利三彌・立木燁子編『北欧の舞台芸術』(三元社、2011)、共同執筆に大笹吉雄他編『日本戯曲大事典』(白水社、2016)など。『悲劇喜劇』2018年11月号から「演劇時評」の評者を担当。2018年9月に第一句集『尺蠖の道』(文學の森)を刊行。
[今後の予定]近刊としてパスカル・キニャール『ダンスの起源』(パトリック・ドゥヴォス、桑田光平と共訳、水声社)、アンヌ・ユベルスフェルド『ポール・クローデル』(中條忍監修、根岸徹郎・大出敦らと共訳、水声社)など。
モメラス 2013年10月結成。劇作・演出の松村翔子、俳優の井神沙恵、黒川武彦、上蓑佳代による演劇ユニット。ユニット名はルイス・キャロル『ジャバウォックの詩』に登場する架空の生き物に由来する。現代口語演劇の写実的な世界観を保ちつつ、時空の異なる物語がパラレルに進み、異質なもの同士を混在させる作風が特徴。     https://momerathsinfo.tumblr.com/

外部リンク

リモートワークを当たり前の選択肢に

2018年10月31日 09:53 note(ノート)

以前、働き方改革をテーマに登壇する機会があり、「リモートワーク」についてお話しさせていただきました。
※ 書き起こしはこちら → 働き方改革で優秀な人材が集まってきた話 

参加者アンケートによると
「取り入れられるところからチャンレジしてみたい」という前向きなご意見もありましたが、「自分とは無縁の話」「未来の話」という風に捉えた方も少なくありませんでした。

リモートワークで成果を最大化するために多少の工夫は必要ですが、特別難しいことではありません。
突出したITリテラシーは必要ありませんし、適用可能職種もさまざまです。

私自身、キャリアを形成していく上で「リモート」という働き方にすごく助けられました。子どもたちとの時間を大切にしながら仕事に集中できたのも、諦めていた東京の採用マーケットに身を置くことができるのもリモートワークのおかげです。
近くのそこそこの人より遠くのすごい人と働きたいもちろん、働く側のメリットだけではありません。リモートを導入すれば、「一緒に働きたいと思える人と働ける」可能性がグッと高まります。

より良いチームを一緒に追求できる人と働くためなら、働く場所の優先順位は下げても良いのではないでしょうか?

「近くのそこそこの人より遠くのすごい人と働きたい」
と以前のボスが言っていたのですが、本当にその通りだと思います。
リモートワークTips導入すればOKということではなく、いくつか工夫は必要です。
「なんのために導入するのか?」について考えてから制度設計することをお勧めします!

リモートワーク歴3年半の私が考えるTipsのうち代表的なものはこちら

性善説に基づいて制度設計する
まさにこれです。

次でも触れますが、リモートワークでは「オープンなコミュニュケーション」が前提となります。発信がないと気づきますし、成果がないということになりますので、実際にはサボり続けることは困難です。
情報はオープンに「その場にいないと取れない情報」をなるべく排除し、情報格差がないように意識する必要があります。

- オープンな場で議論する
- 口頭で合意した内容でもチャットツールや情報共有ツールで適宜共有する
- 情報共有ツールを活用し、誰でも必要な情報にアクセス可能な状況にする

リモートだから、オフィス勤務だから…という物理的な違いで得られる情報に差が出て仕事がしにくくなると、誰も幸せではないです。
上記のような理由からリモートとオフィス勤務で仕事をわけてしまうというケースもあるようですが、それも本質的なアプローチではありません。

オープンな場で議論し、情報共有することで意思決定が早くなりますし、プロジェクトが円滑に進みます。情報の透明性って大事。

前職では全てのプロジェクトでインセプションデッキを作っていました。
最初に「プロジェクトの目的」「やること/やらないこと」「優先順位」などを関係者で握って全社に共有することで、スピードはさらに加速します。
テキストコミュニケーションは迅速にチャットで送った内容に反応がないと「見てないのかな?」「検討中かな?」「忙しいのかな?」と無駄が生じます。

ひとまずリアクションアイコンで反応したり、「あとで返事しますね!」と入れるだけでお互いの作業が円滑に進みます。
(前職では数秒単位で事が進んでいました。すごい!
クラウドツールをフル活用これは当たり前ですけど、勤怠管理やタスク管理、情報共有、コミュニケーション全て、どこにいてもできるようにしておく必要があります。
また、どう活用するか?を少し工夫するだけで効果が劇的に変わります。
フェーズによって使い分けをし、補強が必要なことを補うルール設定ができるとより良いです。
前職での活用例の一部は、冒頭に貼ったURLで紹介していますのでご参照ください。

会社の文化にもよるかもしれませんが、たまには直接会う機会を作ったり、リモート飲み会をすることもオススメです!



11月からフルリモートワーカーとして新しい職場(株式会社キャスター)にジョインします。
同じリモートワークでも様々な違いがあると思うので、新たな気づきは今後シェアしていきます💡

外部リンク

フェイクねんね

2018年10月31日 09:30 note(ノート)


1歳3ヶ月。授乳=「ねんね」になってしまっていたようなので、この後断乳を決意

外部リンク

日本食が恋しくなったら黒いパッケージを探せ!フランスにおける日本のイメージとは?

2018年10月31日 08:58 note(ノート)

フランス旅行中に、白米やお味噌汁、インスタントラーメンを無性に食べたくなった時、近くのスーパーに駆け込んで日本食材を探した経験はありませんか?日本食の人気が定着したフランスでは、ある程度の大きさのスーパーなら大抵、アジア食材コーナーが設けられています。今回は、そんなフランスのスーパーで売られている日本食材のパッケージの特徴を紹介したいと思います。
和食を自宅で楽しみたい派が急増中かつて「和食ブーム」が訪れていた時代のフランスは、日本食といえば「寿司と焼き鳥」がメインでしたが、ここ15年ほどでパリをはじめとする大都市に日本人が経営する和食店や日本の食材店の数がぐんと増え、ラーメン、餃子、たこ焼き、お好み焼き、うどん、弁当、おにぎりなど、「寿司と焼き鳥」以外の日本食を味わったことのあるフランス人が格段に増えてきました。特に、日本の漫画やアニメに慣れ親しんで育ってきた若い世代の中には、そのおかげで色んな料理の名前を知っているという子たちも多いです。日本の食材や料理が少しずつフランス人の暮らしの中に浸透し、最近では、レストランで食べるだけでなく、自宅でも和食を楽しみたいという意識の変化が感じられ、それに比例してスーパーマーケットのアジア食材コーナーのスペースも年々大きくなっています。

日本のイメージカラーは・・・黒?!

写真:モノプリの陳列棚がこちら。一目見て、日本の食材を見つけることができる?
こちらはモノプリ内にある日本食材の陳列棚。アジアをはじめ、イタリアやメキシコなど、フランス以外の国の食材が国別に並ぶ世界の食材コーナーといった感じで、上の写真ではベトナム・中国系食品とイタリアの食品に挟まれるように日本食材が置かれています。この棚をパッと見て感じるのが「全体的に黒い」という印象。なぜか、フランスのスーパーで販売されている和食の食材のパッケージは、黒いものが本当に多いのです。
この黒いパッケージ現象は、あくまでもマスなフランス人に向けて、一般的なスーパーで販売されている日本食品に限って言えることで、例えば在仏のアジア人が通うようなアジア・日本食材店で販売しているものは、たとえヨーロッパで製造されているものでも、日本とさほど変わらないパッケージデザイン(おいしそうに出来上がった料理の写真のアップやカラフルな文字など)のものが多いのです。
「日本食=黒」というイメージカラーは一体どこから発生したものなのか・・・?海外で有名な日本の食材の2大巨頭とも言える醤油と海苔は、どちらも黒。上の写真に写っているキッコーマンのように、透明なガラスボトルから透けて見える黒い醤油はずらりと並んでいるだけでインパクトがありますね。また、フランス人が「Maki」と呼んで親しんでいる海苔巻き寿司も、黒い海苔のインパクトが強いですね。ほかにも、黒髪や忍者の黒装束なども日本と黒色を結びつける重要なアイコンかもしれません。
仏ブランド「TANOSHI」の強い影響力

写真:TANOSHIの公式サイトも白と黒でクールな印象でキメている。 https://www.tanoshi.fr
2008年に誕生したブランド「TANOSHI」は、それまであまり馴染みのなかった日本の食材をフランス全国のスーパーで大々的に販売し、フランスの一般家庭における日本食材の位置付けを大きく変えた存在。焼き海苔、味噌汁、寿司キット、カップ麺、中華麺、あられなど、このブランドがすべての商品に一貫して採用しているのが黒を基調としたパッケージ。フランスにおける日本食材のシェアが大きいブランドのため、陳列棚のスペースも広く占めることになり、おのずと黒いパッケージが目立つようになりました。このブランドの登場が「日本食=黒いパッケージ」というイメージを定着させた理由のひとつだったと思われます。
黒は食欲をそそる色とは言いがたく、フランスでも滅多に食品パッケージに使われることはありませんが、その珍しさをあえて利用することで、希少価値や上質感、特別感、高級感を上手に演出しています。ブラックは上品かつ、モードな印象もあるので、そういった雰囲気が「日本や和食を好むフランス人」ターゲットの心をくすぐり、彼らの求めている日本のイメージとぴったりはまったのかもしれません。
ちなみに、フランス各地に約100店舗構える一番有名なお寿司のチェーン店「SUSHI SHOP」も、お寿司を入れる容器からプラスチックの醤油皿、割り箸袋、紙ナプキンなど、パッケージはすべて黒を基調としたもの。寿司をシックに楽しみたいフランス人の心を鷲掴みにしています。公式サイトはこちらから。
日本ブランドもフランスでは黒パッケージに!

写真:「ポテチ」の文字がクール!筆文字はやはりマスト。
フランスで定着した「日本食材=黒」のイメージは、日本のブランドにも影響を与えていて、こちらで販売している日本メーカーの食材パッケージも黒を基調としたものが多くなっています。 コイケヤのポテトチップスは、海苔&ワサビ味が黒、焼き鳥味をこげ茶を基調にしたパッケージ。フランスの一般的なポテトチップスの袋デザインとは一線を画すシンプルなデザインで、ぐんと目を引きます。

写真:平たい容器のイメージが強いインスタント焼きそばも、フランスではカップヌードルと同じサイズの容器。ちなみに、日清カップヌードルもスーパーで買える。
おなじみの日清の焼きそばもブラックを前面に押し出したパッケージデザイン。黒をベースに白で文字を載せるというのが、フランスにおける日本食品デザインのデフォルトのようになっているようです。

写真:Ajinomoto Franceのインスタグラムも、黒が多め。高級感溢れる雰囲気作りに成功している。
また、一番上の写真の中央にある味の素の冷凍の焼き鳥のパッケージも、やはり黒!冷凍シリーズは餃子もあるのですが、料理の写真が変わるだけでパッケージは焼き鳥とほぼ同じです。黒い箱は冷凍食品コーナーでも良い意味で違和感があり、かなり目立っています。 コイケヤも日清も味の素も、日本で販売されている商品パッケージとはガラリと異なる色使いとデザインで、フランス(およびヨーロッパ)に暮らす人たちに狙いを定めたイメージ戦略を練っているのが感じられますね。
21世紀になってもゲイシャ、フジヤマを推さざるを得ない問題

写真:「赤い円」や、筆書きのかすれたデザインは日本食パッケージで外せないポイント。
海外における日本のイメージ戦略は、漢字を使ったり、書道のような筆文字をあしらったりと、日本人が考える「今のリアルな日本」とどうしてもズレが出てしまいます。日本を訪れるフランス人観光客が年々増加しており、インターネットで日本の情報を得られる時代になっても、商品パッケージなどのデザインにおいては、随分前と比べてもさほど進化していないように感じます。味の素も日清も、日の丸をイメージした赤い円をロゴやパッケージにあしらっていますが、やはり国旗のインパクトは今も昔も強いですね。
また、焼きそばはシンプルに「Soba」とネーミングすることで、覚えやすくする工夫がなされていますが、これも日本人にとっては「日本そば」と「焼きそば」の違いがあやふやになったようで、ちょっと違和感を感じてしまいます。とはいえ、このような方法で、ターゲットにした国の文化や、外国人が日本に抱くイメージに寄り添った戦略を立てることは、日本の商品を外国で受け入れてもらうために必要なステップと言えるでしょう。

写真:フランスのメーカーは、以前と変わらぬ富士山&芸者で日本のイメージをアピール。
フランスのメーカーであるTANOSHIに至っては、パッケージ裏面に桜と富士山の写真と芸者さんのようなマスコットがあしらわれており、時代が変わっても、「ザ・日本」のイメージはなかなか変わらないものなのかと改めて感じます。この点については、逆も真なりで、日本におけるフランス関連の商品やイベントの宣伝となると、青・白・赤のトリコロールカラーやエッフェル塔、クロワッサン、ベレー帽をかぶったパリジェンヌといったアイコンが今も使われており、フランス人にしてみたらもはや「リアルなフランス」感はかなり薄いのかもしれません。
ちなみに、日の丸の赤をイメージカラーにする手もあると思いますが、フランスでは一般的に赤のパッケージといえば国旗の色から連想されたのか、中華系食材というイメージが定着しています。
新しいイメージカラーの探求を

写真:黒の多い売り場でパッと目をひく白とブルーのパッケージ。
黒いパッケージが多い中、白とブルーを基調にしたこちらの商品がスーパーの棚でひときわ目立っていました。長野県のひかり味噌が作るインスタント味噌汁のパッケージで、ここ数年続いている「日本=黒パッケージ」の流れとはちょっと違ったアプローチをしています。味噌汁の大きな写真や、味噌、豆腐、わかめが入っていること、1分で出来上がるなど、一目で商品の情報が分かりやすく、イメージ先行型ではなく、正しい情報で安心感を得てもらえるパッケージだと思います。
冒頭でも書きましたが、今回ご紹介したのはフランスのスーパーで販売されている日本食材です。ごく一般的なマスなフランス人に訴えかけるパッケージであって、百貨店や高級エピスリー、グルメのセレクトショップなどで日本の商品を展開する場合は、また違ったイメージ戦略が必要になると思います。フランスの食卓に日本の食材が少しずつでも定着していき、それと同時に日本のイメージも変化し、パッケージもありきたりな古いイメージにとらわれず、どんな面白いデザインへと進化していくのかこれからも楽しみです。

外部リンク

96.カレーの油は乳化させるべきか分離させるべきか? 問題

2018年10月31日 08:42 note(ノート)

油がうまいのは誰もが知っている。カレーだってラーメンだって、その皿や器の中にいる油脂分が味をブーストしているから、僕たちは本能的に油を見つけ、油を感じると期待値が高まるのだろう。特にインド料理店のシェフがおいしいカレーの作り方を誰かに伝授するときは、「油をたっぷり使いましょう」とか「油の量をけちらない」という表現が頻出する。その通りだと思う。僕も料理教室ではこう言っている。
「油と塩は、ある一定量までは増やせば増やすだけおいしいという人は増えると思います」
多くの人に通用する手法だとは言うけれど、当てはまらない人もいると付け加える。それと、「だったら油を増やしておくか」と実行するかどうかは、その人のカレー作りのスタンス次第だ、とも。
インド料理の世界では、煮込みの完了の目安として、「オイルがセパレートしたらオッケーよ」と言われることが多い。僕もかつてはそう説明していたころがあったけれど、オイルがセパレートした状態は、料理として果たして完成度の高い状態と言えるのだろうか? と疑問が出てきた。
ミャンマーで油煮料理を食べたときの考察は、この問題シリーズ「69番」で書いたが、油と水を結び付けていく、すなわち乳化させることが料理としての完成度を高める行為だという意識が強い。だから、「特に肉のカレーの場合、弱火で優しく煮込むこと」と伝えるようにしている。乳化を目指したいと思っているからだ。
カレーの油を仕上がりにどう残すかについては、そんな風に考えている。
先日、松江でのイベントに出演した。参加者に提供する300食のチキンカレーは、新刊「わたしだけのおいしいカレーを作るために」の進化版、松江版。カレーソースの油は適度に乳化させ、とろりとした状態を目指した。一方、このイベントのスタッフが100名ほど集まる打ち上げ会場用に別のカレーを作った。そちらは、僕の好みを優先させることにした。同じくチキンカレーだけれど、スパイスの配合をちょっとマニアックにし、玉ねぎの量を減らし、水の量を増やした。シャバシャバッとしてさっぱりスパイシーなチキンカレーになった。こちらも優しい火で煮込んだけれども、最後にスパイスオイルを追加して意図的に油を表面に浮かせた状態に仕上げた。
乳化させて全体にまるみの出た優等生的なカレーと油を分離させてとげとげしい不良生徒のようなカレー。両方を食べた人の反応を聞くことはできなかったが、少なくとも僕は後者のカレーのほうが好きな味だ。食べながらふと疑問が沸いた。油のおいしさを僕たちはどのタイミングで感じるのだろうか? と。この2種類のカレー、1人前当たりの油の量は同じである。でも、パンチ力ある油のおいしさは、後者のほうが強い。
乳化させたカレーは油をそれほど感じないまま喉元を過ぎる。分離させたカレーは口の中で油を感じてから胃に落ちる。乳化をさせるとテクスチャーがなめらかになり、深みのある味わいが生まれるけれど、存在感は薄いのかもしれない。優等生であることに変わりはないけれど、教室のすみで静かにしているタイプ。分離させたカレーは出来はよくないが、クラスでの存在感は抜群だ。こっちのほうが口の中で油があばれ、わかりやすくおいしさを生んでいるのかもしれない。
東京に戻り、昨夜、カレーの学校の有志で実施している研究会のカレーを食べた。同じ材料を使って2種類のチキンカレーを作る。左は油が分離し、右は乳化が進んでいた。4人で食べたら、僕ともう一人の女性は左をうまいと判断し、残りの男性二人は右をうまいと判断した。研究会の目的は脱水に関するものだったのだけれど、僕は松江での経験がひきずっていたせいか、油の乳化と分離のことばかりに頭がいってしまった。
乳化が油を水と融合させて“隠す”行為だとしたら、油そのもののおいしさを加えるのではなく、油を道具として別のおいしさを生むのが目的となる。分離は油が顕在化するわけだから、(スパイスなどのフレーバーが加わった状態の)油そのもののおいしさを堪能することができる。
乳化がいいのか、分離がいいのかはどのおいしさを楽しみたいかによって変えたほうがいいということだろう。今後、イベントに出るときには、「今日は優等生カレーでいくか」とか「今日は不良カレーで攻めるか」などとコンセプトを固めてから作り始める必要がありそうだ。僕が松江のイベントの打ち上げで作ったカレーは、半分の油を使って乳化を促進させ、残りの油を分離させたものだったことになる。一見、不良に見えるけれど、食べてみると優等生なところもあるじゃん、みたいなカレーというところだろうか。
そういえば、学生時代にいたよな破天荒なことばかりしてるのに勉強できるやつとか、目つき悪くて超怖いのにしゃべると意外といいやつとか……。
★毎月届く本格カレーのレシピ付きスパイスセット、AIR SPICEはこちらから。http://www.airspice.jp/

外部リンク

ジュディー、現代短歌っておもしろいのか? ――21世紀の岸辺の歌人たち

2018年10月31日 01:05 note(ノート)

(原稿用紙42枚)
 小説は読んでも短歌は読まない、音楽は聴くけれど短歌には全然興味ない、映画はよく見るんだけど、短歌ってなに? 教科書にのってるなにか? そういうの読んだり作ったりするのってなんか恥ずかしくない? イメージ的にさ――
 といったところが、たいていの方の短歌観ではないだろうか。自分の生活に必要がないもの、あえて導入する意味がないもの。
 まあ、そうである。短歌は生活必需品ではない。それに文化ジャンルのヒエラルキーのなかではかなり下のほうだ。音楽、映像、小説などの華々しさがともなったものに比べると、痛々しいくらい地味である。
 しかし、世のなかには生活必需品でなくても、持っていることで日々が豊かになったり楽になったりするものがある。それに人は華々しいものだけで生きられない。そんなことをしようとすれば、見えない歪みだらけの人生になってしまうだろう。
 だからちょっと立ち止まって欲しい。あなたの人生にこれまで短歌は必要ではなかったかもしれないが、この小文ですこしその認識を変える自信があるのだ。そしてそれはわたしが自分の文章力に自信があるというわけではない。ではなくて、短歌というジャンルに自信があると。
 たとえばこの歌などはどうだろう。
 寝た者から順に明日を配るから各自わくわくしておくように
 こちらはどうだろう。
 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
 最初のものは佐伯紺の作品で、二番目は中澤系である。とりあえず、この2首に何かを感じたならば、この小文を読むべきである。
 短歌そしてひいては詩歌の良さというのは、ポストカードや写真の良さではないかと思う。自分の好きなポストカードや写真をあなたは何枚持っているだろうか。
 ポストカードや写真は具体的に人生の役にたつわけではない。しかし気にいったポストカードや気にいった写真がない人生とはどういうものだろう。それは何かが欠けているということにならないだろうか。
 しかし、小説だったら『カラマーゾフの兄弟』『百年の孤独』、映画だったら『サンタ・サングレ』『ラルジャン』とかそういうすごいものがたくさんある。そうしたものを摂取する時間を、ポストカードなどを眺める時間にあてていいのか。
 もちろんいいのだ。一生肉ばかり食べて過ごすわけにはいかないではないか。
 そしてショートレンジの修辞家としては、歌人は我が国で最強であるように思う。いい短歌を読んだあとで作家や作詞家の比喩を見ると、しばしば児戯に等しいことをやっているように見える。いや、作家や作詞家を貶めたいわけではないが、もうこれは事実なのである。もちろんだからといって、歌人が作家よりいい小説が書ける、作詞家よりいい歌詞が書けるというわけではまったくないが。
 では、ポストカードを集めるように、あるいは写真集を見るように、短歌を探しに行こう。

外部リンク

11.ブラックホールの中の猫

2018年10月31日 00:02 note(ノート)

本は日用品だけど消耗品じゃない

2018年10月30日 23:51 note(ノート)

三省堂神保町本店のカリスマ書店員の新井さんが、本は日用品であると何かのエッセイで書いていらっしゃり、このことばがとても心に残っている。そういえば新井さんが特集されていたセブンルールでは、読み終わった本は適当に本棚に積み上げて、溢れたら捨てるという新井さんの姿があった。
私は本を簡単に捨てることができない性格なので、そうやって割り切って入れ替えられるのは正直羨ましい(でも新井さんのエッセイやらいろいろを拝見していると、本にたいして割り切れるのは本への考え方というよりも新井さんという人の性質全体の特質なのではないかと思う・・・)。
私にとっても本は日用品だ。小さいころから最も身近で手軽で便利なもの。開くだけで楽しいもの。特に文庫本という発明は最高。数百円で長時間楽しめるから、長い距離移動する前など、書店で気軽にざっと買う。
でも私にとって、本は日用品であっても消耗品ではない。私にとっての消耗品とは、例えばネットの記事や雑誌(一部の雑誌はそうではないが)やパンフ、チラシの文章、なんとなくついているだけのTV番組、人を煽って何かを消費させるためだけの情報。読み捨てる、読み流すことのできるもの。読んだ後に何も残らなくても腹が立たないもの。
本はそうではないから、買うときは読んで何か自分に爪痕が残りそうなものを鼻をきかせて選ぶ。昔から繰り返し読んでいる小説は、もうほとんどこの作家に私の生き方を決められたんじゃないかというほど、爪痕を残されている。今もことあるごとに読み直すから、その爪痕は更新される。
私は新しく買った本はしばらくは本だなに置いておく。誰かに貸したまま返ってこなかったり、売ったりもするけれど基本的には「自分の本だなに置いておきたいもの」を選ぶ。
自分の本だなとは不思議なもので、脳みそや心の中を表しているようなものだと思う。だから私は人の本だなを見るのが好きだ。友達でも、本だなにある本を見て「あれ、意外とこういう本が好きなんだ」と思ったとき、今まで隠れていた姿を垣間見れた気がしてしまう。
逆に自分の本だなを人に見られるときは、考えていることを見透かされているように感じる。
「積ん読」という言葉は面白い。どうして人は読まない本を買うんだろう。読んでいない本が家にあることを知っていても、新しい本を買ってしまうんだろう。
本を買うと、買っただけでその本に書いてあること(正確には読んでいないので書いてあることはわからないが「書いてありそうなこと」)を自分の内側にいれたような、所有したような気持ちになるのではないかと思う。
だから中身を読んでいない本があっても、つい本を買いたくなってしまう。書いてありそうなことに憧れを感じたり、今の自分に足りない何か、求めているものがその本に詰まっている気がして、人は本を「積ん読」してしまうんじゃないかと思う。
本だなの本すべてが読まれていないとしても、そこにあるということは、その本が選ばれた理由があるんだと思う。もしかすると積読されている本こそ、その人の内面を表しているものなのかもしれない。
フランクフルトでこんなポストカードが売られていて、積ん読って日本特有の言葉なのかな?と思いました。事情がわかる方がいたらぜひ教えてください・・・。

大変悲しいことですが、過労死もありました。
#本 #編集者 #コラム #日記 #読書

外部リンク

ハロウィン

2018年10月30日 23:26 note(ノート)

シェフの他力本願サラダ

2018年10月30日 23:13 note(ノート)