今回取り上げるAmdahl Corporationは、よく名前の出てくるアムダールの法則を提唱したGene Amdahl博士が興した会社である。
実はこのAmdahl Corporationは富士通と非常に深い関係があり、最終的には富士通が吸収合併する形になっている。Amdahl Corporationと富士通、というよりはAmdahl博士と富士通のコンピューター事業の中興の祖とでも言うべき池田敏雄氏が深い関係があったというべきか。
どういう具合に2人が知り合い、そして意気投合して、ビジネスを行なうようになったか、という歴史は立石泰則氏の「覇者の誤算 日米コンピューター戦争の40年」の第十章以降に詳しいが、幸いアスキーには遠藤諭氏の記事もあるので、こちらを見ていただければ概略はわかると思う。ただ今回は富士通との関係というよりはAmdahl Corporation単独での歴史を紹介したい。
==IBMを辞めIBMに再就職した
アムダール博士==
Amdahl博士は1952年にIBMに入社後、IBM 704/709/7030といったシステムに携わっている。IBM 704やIBM 7030は連載272回で紹介したが、特にIBM 7030はスパコンの元祖とも言うべきものである。
ただ博士は1955年に一度退社している。1989年のAmdahl博士へのインタビューによれば、「この組織(IBM)にいる限り、自分の欲しい事柄を自分で制御するのは不可能だとわかった。この組織はますます大きくなるだろうし、その片隅で余生を過ごすのは真っ平だと決めた。」というのが理由だそうで、5年ほど防衛関連企業で勤めた後、1960年に再びIBMに戻ってくる。
これはIBMからのリクエストで、System/360の開発におけるチーフアーキテクトの職を提供されたことで、以前に比べるとかなりIBMの官僚組織内における自由度が増したから、というのがその理由らしい。
System/360の開発は1964年に一段落し、その後Amdahl博士はIBM Fellowのポジションに昇格、1966年末に開設されたACS(Advanced Computing Systems) Laboratoryのトップとなる。ACSはいわゆるスーパーコンピューターを開発するためのプロジェクトで、1965年にスタート、1966年には拠点も定まってAmdahl博士も本腰をいれてこれに取り組む。
もともとACSではACS-1という、強いて言うならCDC 6600に近いようなアーキテクチャーを検討していた。これはおそらくはCDC 6600の発表時にIBM社内に回されたメモの影響が大きかったものと思われる。
しかしAmdahl博士はSystem/360との互換性を保ったAEC/360を提案、ACS内部で討議の結果はこのAEC/360が優れているという判断となった。ちなみにAECは“Amdahl-Earle Computer”の略で、アーキテクチャーの検討を行なったAmdahl博士とJohn Earle氏の名前にちなんでいる。
ところが、実際にAEC/360が開発されることはなかった。理由の1つは、NY州ポキプシー市にある拠点でSystem/360の強化版の開発がACSとは別に行なわれており、こちらが優先されたようだ。1969年5月にACE/360の提案は公式にキャンセルされる。
幸いというか不幸にもというか、この頃Amdahl博士は椎間板ヘルニアで9ヵ月あまりも入院しており、動けるようになったのは1970年に入ってからである。これに先立ちAEC/360のキャンセルを受けてACS Laboratoryのメンバーは他の研究所に移籍を始めており、8月に最後のミーティングを開いた後でACS Laboratoryは解散、Amdahl博士は9月、IBMを再び退職する。
ちなみに、池田氏がAmdahl博士と初めて会ったのは「覇者の誤算」によれば1968年の春のこととされる。ACS-1とAEC/360の勝負の決着がついたのは1968年5月なので、まさにACS-1との勝負が行なわれる直前の時期だったのだろう。
再びIBMを辞職し自ら会社を興す
IBMを辞職したAmdahl博士は、当初あちこちからの引き合いを検討したものの、博士が作りたいような製品を作らせてくれそうな会社はないと判断、自分で会社を興すことにする。これがAmdahl Corporationである。
当初は博士と、当時はまだ若きファイナンシャルアナリストだったRay Williams氏、それと秘書だけで構成されていた同社の最初の仕事は資金集めだった。
博士が考えていたシステムを構築するには、およそ3300万~4400万ドルほどかかる(実際には4750万ドルを要した)と見積もられたが、当時はちょうどキャピタルゲイン課税がかかり始めた時期で、景気後退もあって資金集めは難航。1970年中はHeizer Corporationからの200万ドルだけだった。
ただ1971年には富士通が(Amdahl博士の保有する特許の利用を条件に)500万ドル投資を行ない、後に増資をしている。1972年にはドイツのNixdorf Computersが600万ドルの投資を行ない、ほかの米国の投資家も合わせて2000万ドルほど集めることができた。
これに続き1973年には株式公開も目論むものの、Amdahl Corporationの株の引受会社が見つからず、しかも株式市場が低迷しているということもあり、引き続き非上場のまま進行せざるを得なかった。
これと並行してエンジニアも集まってきた。Amdahl博士は直接的にはIBMのエンジニアを1人も引き抜いていないが、ACS Laboratories閉鎖後にIBMを辞めたスタッフが興したMASCOR(Multiple Access Systems Corporation)やBerkeley Computers、Gemini Computersといったメーカーからエンジニアが集まり、設計チームを形成する。
この設計チームを率いてAmdahl博士はSystem/360互換となるシステムの開発を始めるが、1972年にIBMがSystem/370を発表したことで一度振り出しに戻る。
設計チームが想定していたマシンとSystem/370は良く似ていたが、System/370が仮想記憶をサポートしていたのに対し、これが欠落していたためである。博士は途中まで進んでいたデザインを一度破棄し、もう一度設計のやり直しを行う羽目になった。
1974年にはFairchild Camera and Instrument Corporation(Fairchild Semiconductorの出資社)の副社長だったEugene R. White氏がAmdahl Corporationの社長に就任する。
彼は従業員のうち、製品の完成に直接役立たない約半数を解雇するとともに、マーケティングとフィールドサポートサービスに集中させる。さらにHeizerや富士通への出資増額の交渉も行ない、これで同社は存続し、製品を出すことができるようになった。
==IBMより安価なシステムを発売
コスト削減の秘訣は空冷==
Amdahl Corporationの最初の製品であるAmdahl 470 V/6の1号機は1975年6月、NASAのゴダード宇宙飛行センターに納入され、これにミシガン大、テキサスA&M大、マスミューチュアル生命保険株式会社、AT&Tが続いた。
画像の出典は、“富士通ミュージアム”
Amdahl 470 V/6の内部アーキテクチャーは、幻と消えたAEC/360の影響を非常に強く受けた構造だったらしい。性能的にはIBMのSystem/370 Model 168とちょうど競合する製品であり、System/370の遅れもあって順調に売上を伸ばしていく。
富士通ミュージアムの説明にもあるが、System/360 Model 165比で約2倍、System/370 Model 168とほぼ同等の性能で、多少安価(おおむね10%ほど安かった)で、しかも設置が簡単(設置コストは5万~25万ドル少なかった)だった。
この秘訣は、ECLチップを空冷で運用できたことだ。ECLチップそのものは富士通との共同開発であるが、実装が独特だった。7列×6行で42個のECLチップを搭載したボード(これをMCCs:Multi-Chip Carriersと呼ぶ)を複数個、バックプレーンにあたる位置に縦に設置し、MCCs同士はマイクロ同軸ケーブルでつなぐという仕組みだった。
画像の出典は、“Computer History Museum”
各々のECLチップには円柱状のヒートシンクが取り付けてあり、これでECLチップの発熱問題に対処した形だ。一方のSystem/370は水冷方式を採用しており、このコストが馬鹿にならなかった。
画像の出典は、“Computer History Museum”
1977年の春までにAmdahl Corporationは50台のAmdahl 470 V/6を送り出している。1976年には株式公開にも成功し、実質的な現金準備金を作ることができた。これが可能になったのは、IBMがリース方式を使ってシステムを販売していたのに対し、Amdahl Corporationは手っ取り早く現金を回収するために売り切り方式をとっていたためだ。
IBMはこれにシステムの値下げで対抗した。とはいえ、Amdahl Corporationの存在はIBMにとって確実に脅威になり始めた。1975年のAmdahl Corporationの売上は1400万ドル未満だったのに対し、1977年の売上は3億2100万ドル、営業利益は4820万ドルに達した。
もっともIBMの方は、1977年の数字がわからなかったのだが、1975年は144億3000万ドル、1980年には262億1000万ドルの売上を上げており、1977年はおそらく180億~200億ドル程度だったと思われる。要するにAmdahl Corporationの売上はIBMの2%に満たない程度でしかなかった。
とはいえ競争相手となったAmdahl博士に遠慮するようなIBMではなく、その1977年にはIBM 3033を発表する。これはベクトル演算ユニットを追加して、System/370 Model 168比で1.6~1.8倍処理を高速化したシステムである。
当時のプレスリリースによれば、購入価格では338万~382万5000ドル、48ヵ月のレンタルでは月額7万7480~8万4400ドルとされた。
Amdahl Corporationはただちに反撃に出る。同社はAmdahl 470V/7を発表した。このマシンはIBM 3033と比較して3%ほど高価だったが、1.5倍の性能を実現した。結果、このAmdahl 470V/7は1年間で100システムも販売されることになる。さらにラインナップも470V/6や470V/8なども追加されていった。
==Amdahl博士が辞任
新たな会社を設立する==
以上のように会社は順調に推移していくが、Amdahl博士にとってはむしろトップレベルの営業活動に引きずり回されることになり、あまりうれしいことではなかったらしい。1977年にXeroxのbusiness systems and data systems divisionsの長を務めていたJohn C. Lewis氏を社長に招聘、自身は会長に退き、社長を務めていたWhite氏は副会長に昇格する。
ただその2年後、Amdahl博士は取締役会からも辞任、名誉会長として技術委員会の中で戦略開発に携わることになるが、1年たたずに自身の名を冠するAmdahl Corporationから離脱。新たにTrilogy Systems Corporationを創業することになる。
Amdahl博士はここでWSI(Wafer-Scale Integration)という技術にチャレンジする。名前の通りウェハー全体を利用して回路を作る仕組みで、今で言うならシリコンインターポーザーを利用して複数のチップを接続する仕組みを、1980年代にウェハー単位でやろうとした(当時のことなのでウェハーの直径そのものが小さかった)のだが、案の定うまくいかなかった。
さらに博士は自動車事故とこれに関する訴訟に巻き込まれており、社長を務めていたClifford Madden氏は脳腫瘍で逝去している。その後、Trilogy Systemsは開発を中止、残っていた資金でミニコンピューターベンダーだったElxsiを買収するものの、最終的に1989年にここも辞任しており、さらに別の会社を興すという精力ぶりであるが、こちらの話はおいておこう。
IBMの攻勢で減益
話をAmdahl Corporationに戻すと、1979年にIBMは4300シリーズを発表する。こちらはミドルレンジのSystem/370互換マシンであるが、当初のシステムは性能が低いものの、将来製品(Hシリーズと呼ばれていた)では高速化されるとされ、買い切りしかないAmdahl Corporationのマシンより、レンタルでアップグレードするほうがお得というセールストークをしたおかげで、1979年のAmdahl Corporationは2100万ドルほど売上が落ち、利益も64%減少している。
ちなみに1979年から1980年にかけ、Amdahl CorporationはMemorex CorporationとStorage Technology Corporationの買収を試みる。IBMの高い売上は、単にシステムだけでなく幅広い製品ラインナップによるもので、このうちストレージは特に「儲かる」分野だったから理にかなっているともいえるのだが、この時点でAmdahl Corporationの株の34%を保有していた筆頭株主である富士通が買収に同意しなかったためである。
富士通自身がストレージを提供するメーカーでもあったから、ある意味これも理にかなった話ではある。ちなみに1982年からは富士通からストレージシステムを仕入れて販売するというビジネスが始まっており、着地点としては妥当なところだろう。
この後、Amdahl Corporationはプロセッサー技術に、富士通はデバイスに加えて周辺機器にそれぞれフォーカスしながら緊密に開発を進めていくという体制がここからスタートしている。
1980年、IBMはHシリーズと呼ばれていたIBM 3081を発表する。これはIBM 3033のほぼ2倍のパフォーマンスを実現する製品であり、Amdahl CorporationもただちにAmdahl 580シリーズを発表してこれに対抗する。
シングルプロセッサーのハイエンドであるModel 5860は、これまでのハイエンドだった470V/8の2倍の性能(大体13MIPS相当)を持ち、十分競争力があるはずだった。サイクルタイムは24ナノ秒s(つまり動作周波数は41.7MHzほど)、引き続き富士通のECLチップが使われたが、MCCsは11×11チップに大型化している。
画像の出典は、“Wikimedia Commons”
もっともこのMCCsは14層基板を使っていながら、裏面が下の写真の有様だったらしい。当然ながら初期ロットに関しては信頼性の問題が少なからずあったようで、当初は1982年4月に発売といいつつ同年8月まで遅延したこともあって、出だしはあまり芳しくなかった。
画像の出典は、Internet Archiveに保存された“The Roger Broughton Museum of Computing Artefacts”
おまけにこの1982年というのは、13年かけて行なってきたIBMへの反トラスト訴訟を米司法省が取り下げた年でもあり、これもあってIBMの攻勢は激しく、Amdahl Corporationはまた減益に追い込まれることになった。
ただその1982年に同社はデジタルネットワーク機器を製造していたTran Telecommunications Corporationを買収することで多少売上の落ち込みを緩和できたし、富士通との協業によるストレージシステムの提供もこれに貢献した。
翌年以降は580シリーズの信頼性も安定し、そこから再び業績を伸ばしていく。1984年にはUNIXベースのUTSというOSを投入、これはIBMの製品より25%高速で、しかもIBMにOSライセンスを支払う必要がなかった。
また同じ1984年にはMDF(Multi Domain Funcion)というハードウェアベースの仮想マシン機能も搭載。同社のマシンのユーザーのおよそ3割がこの機能を利用したとする。
1985年にはIBMで20年の勤務後にAuto-Trol Corp.のCEOを勤めていたErnest Joseph Zemke氏をCOOとして招聘、さらに年末にはハイエンドとなるAmdahl Model 5890や、これをデュアル化したModel 5990と、逆にローエンド向けにModel 7300シリーズも投入される。
このModel 7300シリーズはUTS専用マシンであり、低コストながら良い性能/価格比を実現した。逆にModel 5990は、ハイエンドのModel 5990-790で750万ドル、エントリー向けのModel 5990-500で462万ドルと結構な価格ではあったが、IBM 3090よりも50%以上高い性能を発揮し、1988年中に40システム以上が出荷されている。
こうした製品の充実振りもあって、1988年の売上は前年比17%増しの21億ドル近くに達したが、IBMが猛烈な価格引下げ攻勢をかけた関係で同社も価格の割引に応じざるを得ず、利益は30%ほど減少している。
==業績が悪化しサービス事業に着手
だが遅きに失し、富士通に買収される==
さて、問題はここからだ。IBMは1990年代、自社製品をCMOSベースのマルチプロセッサーシステムに切り替える。従来のバイポーラベースのマシンは1990年に投入されたES/9000が最後で、この後継として1994年に投入されたS/390シリーズ(厳密にはこのS/390の第3世代であるG3)以降、IBMはCMOSベースのマルチプロセッサー製品を投入していく。
こちらは当初こそ動作周波数も低く、多数のユーザーが利用する環境はともかくとして重い処理をする場合には派手に処理時間が増えたため、これを嫌ったユーザーは一時的にAmdahl Computerを選んだ。
ところがこの頃になると、別にIBMのメインフレームやその互換機でなくても、市場には多数のシステムが存在しており、この機会にメインフレームからUNIXなどの世界に移行したユーザーも少なくなかった。
これはIBMのみならずAmdahl Computerの市場そのものが縮小することを意味しており、1993年は売上が16億8000万ドル(前年は25億2000万ドル)まで縮小し、5億7500万ドルの赤字を出す。
Amdahl Corporationは製造設備の閉鎖や3回のリストラを余儀なくされた。それもあってサービス事業に注力することになり、1994年にはビジネス分析やビジネスモデリングのソフトウェア製品を生み出した。
さらに1994年に投入されたXploler 2000シリーズは、同社とOracle、Information Builderの3社の提携をベースとしており、Sun MicrosystemsなどのUNIXマシンからOracleに簡単にアクセスできるようになる。1994年末になると、そのSun Microsystemsと提携してA+ Editionと呼ばれる協調ソフトウェアもリリースされている。
ただ、こうした動きは遅きに失した感もある。1995年の売上は15億2000万ドルまで下がっており、特に第4四半期は4億1610万ドルの売上に対して3840万ドルの損失を出しており、これを受けてZemke氏は1996年3月に辞任する。もっともこの後も財務状況は好転せず、1996年は16億3000万ドルの売上に対し、3億2600万ドルの赤字を出している。
この大きな要因は、空冷はそろそろ無理があるということで導入した水冷関連の設備投資によるものだが、他にもCMOSベースに製品ラインナップを変えるべく研究開発に投資したことが関係している。
ただこれもまた遅きに失した感が強く、さらにIBMが急速にCMOS技術を改善していった結果、もはやAmdahlの製品は製品競争力を失いつつあった。1997年中旬までに同社は6四半期連続して赤字を計上、最終的に1997年9月に富士通がAmdahl Corporationの株の58%を8億7800万ドルで買収し、事実上富士通の子会社になった。
AmdahlのURL(http://www.amdahl.com/)はまだ残っているが、富士通アメリカにリダイレクトされるだけになっている。